だいすき

基本的に自分の好きなものについて綴っていきます。嫌いなものやどうでもいいこと、さらに小説なんかもたまに書きます。

白い夜

2006年05月14日 00時08分09秒 | オリジナル小説
 雪が降っていた。少し積もり始めている。吐く息も白い。なにもかもが徐々に白くなっていく。こういうのも案外悪くないな。静かで冷たい夜の中、江利香はそんなことを考えていた。
 公園に人気はない。当然だろう。今日はクリスマスイブ。大概の人間はクリスマスソングの流れているような、賑やかな場所で楽しくやっているはずだ。そうでなくても、暖かな部屋から出る者なんていないだろう。雪の振るクリスマスイブの夜に、一人寂しく傘もささず、灯りの少ない公園のベンチに座っている者などそうそういるわけがない。
 そんな、人が聞けば驚くようなことを江利香はしていた。理由は特にない。そういった理由などを考えるのがひどく億劫だから、ここに一人でいるのかもしれない。
 肩や頭の上に雪が少し積もっている。重さも冷たさも気にならない。背中を少し丸め、三歩前の地面を見続けている。
 その視界にスニーカーが入ってきた。見覚えがある。ゆっくり顔を上げると、亮二の笑顔がそこにあった。
「すごい、よくわかったね。ストーカー?」
 つまらなさそうに言って、視線を戻す。
「健からメールがあってさ」
 傘を江利香の上に傾けながら、いつもと同じ口調で亮二が続ける。
「駅前で雅也のこと見かけたって。遠くてよくわからなかったけどモデルみたいな女と歩いてたらしい。変な話だよな。遠くてよくわからないのに女がモデルみたいだってのはわかるんだから、あいつほんとスケベ」
 そう言って笑う。少し前までは亮二の笑顔を見ると理由も無く安心した。つられてよく笑ったりもしていた。けど今は、とてもそんな気分じゃない。
「ここがわかった理由じゃないね」
「理由はなんとなくだよ。前に江利香、言ってただろ。家から少し離れた所にある公園が好きだって。ベンチに座ってぼうっとしてると落ち着くって。一度だけ、場所も聞いたことがあったから。良かったよ、すぐ見つかって」
 ベンチの雪を払って、隣に座る。江利香に向ける笑顔は崩れないまま。それが逆に辛かった。
「それで、なにしに来たの? 私を笑いに来たって雰囲気じゃないわね。私の弱みに付け込んで口説こうとでも思ったの? いいわよ。そういうことなら乗ってあげる」
 感情を込めたつもりはなかったが、冷たく聞こえたかもしれない。それでもいい。江利香の今の気分には、その方があっているかもしれない。
「江利香が望むならそれでもいいけど、違うよね。だから、しない」
 吐く息と同じ、暖かい言葉。前と一緒。少しも変わってない。
 江利香と亮二の年の差は二つ。江利香が高一で亮二が高三。部活の先輩と後輩の間柄。付き合い始めたのは五月の半ばからで、誰もが羨むカップルだった。十一月までは。二人の間に楔が打ち込まれたのは十一月の終わり頃。楔の名は雅也。遊び人で有名の高校二年生。
 雅也がどんなつもりで声を掛けてきたのか、いまの江利香は知っている。ゲームだったらしい。イブとクリスマスの二日間で何人の女の子と遊べるか。賭けも成立していた。くだらない。そう思えるのは全てが終ったから。声を掛けられたあの頃は違っていた。
 有名になるだけあって、雅也の口説き方は上手だった。慣れてる感じがして最初は嫌だったのに、いつの間にかそれが楽しいと感じるようになっていた。女の子のことを女性として扱うのが巧く、それがとても嬉しかった。
 亮二のことが嫌いになったわけではない。それでも、言葉を交わす時間は減っていった。亮二にない全てを持っているような気がして、雅也を見つめる時間が増えた。
 そして江利香は選んだ。イブを共に過ごす相手として、雅也のことを。
 何も知らなければ、気付くことがなければ、いまも幸せでいられただろうか? イブの夜を楽しむことが出来ただろうか? さっきまでは思いもしなかった疑問。自覚してしまう自分の弱さ。原因は亮二の優しさ。だから、江利香は亮二を拒絶したかった。
「じゃあ、なにしにきたのよ?」
 今度は意図的に棘を含ませた。
「なにって、会いに来たのさ。心配だったから。落ち込んだりしてるんじゃないかと思って」
「別に、そんなことないわ。そうだとしても亮二の出る幕じゃない。私達、もう別れたんだから」
 そう言ってそっぽを向く。隣で驚いてる気配が伝わってきた。
「え、そうなの? いつ別れたの?」
 聞かれて江利香は困った。確かにきちんと別れを告げたわけではない。でも、イブを一緒に過ごさないということはそういうことなんだ、と勝手に思い込んでいた。
「い、いつって聞かれても困るわ。自然消滅なんだから」
「そう、ならたいしたことじゃないよ。消滅しなかったってことだから。なんちゃって自然消滅だね」
「なにそれ。面白くない。てか、別れてないのなら、いいわ。いま別れましょ。はい、バイバイ。さようなら」
 そっけなく片手を振ってみせる。
「つれないなぁ。もう少し優しくしてくれてもいいじゃん」
 言いながら、江利香の頭や肩に積もった雪を優しく払う。江利香はその手を邪険に払い、
「ちょっ、やめてよ。もう!」
 と苛立ちを隠さない。
「亮二、聞いて。私は本当、終わりにしたいの」
 揺るがない強い瞳で亮二を見つめる。思い出したのだ。彼と話すコツ。おちゃらけたところがある亮二と話すには、視線を逸らしてはいけない。真面目に話しているということを全身で訴えないと伝わらない。
 見つめながら、そのことを忘れていた自分に驚いていた。少し前までは当たり前だったのに。さらに懐かしんでもいた。戻らない、戻りたくないと思っているのに、仲良くしていた頃に戻れたみたいで懐かしく、少し嬉しくもあった。
「冗談に聞こえたならもう一度、ちゃんと言うわ。亮二、別れましょう」
 亮二は何も言わなかった。相変わらず笑顔のままだったが、少しだけ寂しさが影を落としているように見えた。それは、江利香の気のせいではないはずだ。
 少しして、困ったように亮二が口を開く。
「あぁ~、なんだろうな。なんて言えばいいんだろう。とりあえず、嫌だ。う~ん、これは少し違うな」
「嫌じゃないのなら別れましょ」
「それは無理。っていうか違う」
「なにが?」
「俺はね、江利香が好きだから、出来ることなら何でもしてしてあげたいと思う。望みを叶えてあげたいとも思う」
「じゃあ――」
 続けようとする江利香の言葉を、亮二が片手を挙げて制した。
「でも、違う。これは、違う」
「なにが違うの?」
「わかってるだろ?」
 見つめ返された。全てを見抜かれてる気がした。それでも引けないし、引かない。
「私がわかっているのは、亮二と別れたがっている自分の気持ちだけ」
「嘘だね。江利香は別れたいんじゃなくて逃げたいんだ。でも、それは無理。自分の気持ちからは逃げられない」
 確かに江利香が選んだのは逃避だ。亮二のことが好きなのに他の男を選んでしまった。イブを雅也と過ごそうとした。そのことが許せなかった。亮二を裏切ってしまった自分自身が許せなかった。だから別れを選択した。これは自分への罰。そして自分を許そうとしてくれている、亮二の優しさからの逃避。
「例え逃げだとしても、さよならに変りはないわ」
「そんな意固地になるなよ。俺は気にしない」
「私は気にする。付き合ってた人以外とイブを過ごそうとしたくせに、上手くいかなかったからってすぐ元の鞘に戻ろうなんて。恥知らずみたいで嫌だ」
「いいって。全然気にしない。それに恥なんかじゃない。誰だって道に迷うときはあるだろ。それと同じさ」
「まっすぐな道で迷うのは恥ずかしいことよ」
「まっすぐな道なんかじゃない!」
 亮二の声が少しだけ大きくなる。
「いくらなんでもそんな簡単なことじゃないはずだ」
「でも亮二は迷わない。私も迷いたくなんかなかった」
 不意に涙がこぼれた。理由は、江利香にもわからなかった。こんな所で亮二と言い合いなんかしたくなかったのに。だから、ひと気のない公園を選んだつもりだったのに。なにをやっているんだろう私は。なんでこんな所で泣いているのだろう。
「俺だって迷う時はあるさ」
 江利香の涙を見て、亮二の声に優しさが戻る。
「うそ」
「嘘じゃない。俺だって迷うし悩みもする。そう見えないのは俺がかっこつけてるから。年上だし男だし、ダサいところなんか見せられないだろう。だから、精一杯かっこつけてるだけ」
「知ってる。亮二、そういうところあるよね」
 三度目のデートの時に気付いた。いつも亮二が行く場所を決めてきて、面白い所に連れて行ってもらった。知らない所ばかりだったから、亮二って物知りなんだなって尊敬していた時、こっそり見てしまった。亮二のメモ。デートの予定とか細かい字で色々書いてあった。見られたくないみたいだったから知らん振りしてた。でも、おかしかった。亮二も一杯一杯なんだってことがわかって。安心もした。亮二も私と一緒なんだ。そう思うと、なんだか嬉しかった。
 涙が止まったわけじゃないが、笑みが浮かんだ。あの時のことを思い出し、こらえることが出来なかった。
「だろ。だから気にすることないぜ」
 江利香の笑みを見て、嬉しそうに亮二も笑う。これで解決したという安堵もあったかもしれない。だから、次の江利香の台詞を聞いた時の落胆はさぞ大きかっただろう。
「でもね、やっぱりダメなのよ」
 声に、全てを決心した落ち着きがあった。
「嬉しいわ。あんな非道いことしたのに亮二は少しも怒らないで、笑って会いに来てくれた。そして私を許してくれる。そんな亮二の優しさが私も大好き」
「じゃあ、なんで……」
 もう隠そうとしていなかった。その顔に、その声に、寂しさと哀しさが溢れている。亮二のそんな姿は、江利香にとっても辛かった。
「優しいから。すごく優しいから。その優しさに甘えてしまうと私ダメになってしまう。亮二に迷惑ばかりかけてしまう。それは嫌だから。だから、さよならなの」
 寒さで感覚が麻痺してしまっているのに、涙が頬を伝うのがわかる。胸を締め付ける悲しみに嘘がないことを江利香は知っている。でも、言葉に嘘があったのも自覚していた。
 別れる理由は他にもあった。恐かったのだ。亮二に嫌われるのが。甘え続けた自分はいつかダメになる。ダメになった時、亮二は自分を見てどう思うだろうか。嫌になるに決まっている。振られるに違いない。それは嫌だ。そんなことは耐えられない。
 愛しているから。なによりも深く、この身が千切れてしまいそうなほど強く愛しているから。雅也と別れて独りになった時、会いたかったのは亮二だった。会いに来てくれた時、恥ずかしくってそっけない態度をとってしまったのは、亮二だったから。話している最中、感情が激しく揺さぶられたのは、相手が亮二だったから。好きで好きで、どうしようもないほど愛してる。だから、別れる。いまならまだ大丈夫。嫌われてない。愛されてる。いまのうちに自分から別れを選ぶ。
 逃げであることはわかっているが、江利香に後悔などはなかった。江利香は自分を知っていた。自分の弱さを知っていた。それに気付かせてくれたのは、雅也の誘惑だった。中身のない甘いだけの言葉に騙されてしまった自分。そんな情けない自分にはこんな結末が相応しい。
「……なんだよ。なんだよ、それ」
 呟く亮二の声は弱々しい。
「好きなんだろ、俺のこと。だったらいいじゃん。それでいいじゃん。別れる必要なんかどこにもないじゃんかよ」
 江利香は応えない。なにを言っても傷付けてしまいそうな気がしたから。
「もう、わかんねぇよ」
 亮二が頭を抱える。傘が地面に落ちる。雪が、静かに二人の上に降り注ぐ。
 少しして、亮二が口を開いた。
「本当は、ちっとも優しくなんかないんだ。そういう振りをしているだけ」
 小さな声だったが、それは江利香の胸に染み入るように届いた。
「高一の時、いっこ上の先輩と付き合ってて、よく我儘ばかり言ってた。先輩が我儘を聞いてくれたから、それに甘えて勝手ばかり。その頃の俺は、本当はいまも変わってないんだけど、嫉妬深くて、先輩がクラスの男子と話しているのを見ただけでうるさく文句を言ってた。いま思えば、すごく嫌な奴だったんだけど、先輩が好きだよって言ってくれてたから、それでもいいんだって思ってた。でも、それは思い込みでしかなかったんだ」
 亮二はもう頭を抱えていなかったが、下を向いている為、どんな顔をしているのか江利香にはわからなかった。それでも、途中で目を擦っていることから泣いているのはわかった。哀しくて、抱きしめたい衝動に駆られたが、江利香はそれをこらえた。そして、静かに耳を傾ける。
「一年の終わりの春休み、街で先輩が他の男と腕組みして歩いているのを見かけた。当然怒って文句を言ったけれど、鼻で笑われた。なに言ってんだって、呆れられた。俺の身勝手さには早い段階で嫌気がさしていたらしい。でも振ると面倒くさそうだから適当にあしらいながら、他の男と付き合ってたんだって」
 顔を上げて涙を拭う。それでも止まらなかったが、気にせずに江利香を見つめる。
「俺すごいショックだった。二股かけられたことも、鼻で笑われたことも、なにもかも。で、落ち込んで落ち込んで、落ち込んだ後に決めたんだ。もう馬鹿なことはしないって。好きになった人だけを見つめて、その人のことだけ考えて、好かれるよう、嫌われないよう努力するって。……ダサいよね、こんなの。嫌われたくない一心で優しくしていたなんて、笑っちゃうよね」
 自嘲気味な笑み。しかし、江利香は笑わなかった。
「本当ダサい。江利香が雅也を選んだのもよくわかる。……でもね。それでも江利香が好きだよ。心から愛してる。これでさよならだとしても、その思いは変わらない」
 雪が世界を白く染めつつあるなかで、二人は静かに見つめ合った。これが最後になるかもしれないから、相手の顔を忘れないため、強く心に刻みつけようとしていたのかもしれない。
 最初に目を逸らしたのは江利香の方だった。そのまま、下を向いてしまう。亮二を少し上を向いて、黒い空から降る雪に視線を向けた。
 やがて、江利香が立ち上がった。傘を手に取り、空いたほうの手を差し出す。
「帰る。送ってって」
 亮二は何も言わず立ち上がり、その手を握った。
 公園を出た所で、江利香は足を止めた。
「ツリーが見たい」
 唐突に呟く。
「え?」
「駅前に飾ってあった、クリスマスツリーが見たい」
「いいけど、遅いからイルミネーション終ったと思うよ」
「いい。それでも見たいの」
 亮二の返事を、待たずに歩き出す。引きずられるように亮二も続く。
 通りを行く人は少ない。イブの夜が終ろうとしている。
 言葉を交わさずに二人は歩く。江利香はややうつむき加減で、さっきの亮二の台詞を思い返す。
 あの時、顔には出さなかったものの胸が熱くなった。嬉しくて卒倒しそうだった。愛されている実感。その喜び。
 自分はどこで間違えてしまったのだろう。どうして別れなければならないのだろう。別れたくない。このまま、ずっと歩いていたい。
 馬鹿なことだと思う。勝手だと思う。でも、それがいまの本当の気持ち。
 固めたはずの決意に揺らぎを感じながら、駅前に着いた。ほとんどの店が閉まっているため、辺りは暗く静かだったものの、人の姿は結構あった。ただ、立ち止まっている者はやはり少なく、流れていく人が大体だった。
クリスマスツリーは亮二の言った通り、イルミネーションが消えていて寂しい感じがした。それでもその下でいい雰囲気を醸し出しているカップルは数組いたから流石だ。そんなカップル達の邪魔にならないような場所で立ち止まり、江利香はぼんやりそれを眺めた。手を繋いだまま、亮二もそれに倣う。
 お互いに手袋をしていたから肌のぬくもりは伝わらない。それでも江利香は亮二の存在をその手から強く感じていた。
 亮二はすでに覚悟を決めているようだった。やり直すならこの瞬間しかない。けれど、そんなことが出来るのだろうか。してもいいのだろうか。不安が江利香の胸を占める。
「ねぇ」
 江利香が口を開いた。亮二の方を見ずにツリーを見上げたまま。
「さっきの言葉、本当?」
「どの言葉?」
「私のこと好き?」
「ああ、好きだよ」
 いつもと同じ口調。江利香の大好きな声。顔を見るのが、見られるのが恐かったから、江利香はツリーを見上げたまま続けた。
「私のどこが好き?」
「全部」
「それじゃわからない」
「顔も声も性格も全部」
「私、亮二が思ってるほど性格良くないよ。顔だってそんな自信ない」
「江利香のその自信なさげな性格が好き。ちょっと我儘なところが好き。俺を気遣ってくれる優しいところが好き。笑った時の顔も、気合入れてメイクした時の顔も、素顔の時も、怒った時だって、全部好き。本当に好き」
 静かに淡々と亮二が答える。必死でこらえていたが、江利香の頬を涙が伝う。
「私また浮気するかも。亮二のこと裏切るかも」
「させない。もう二度と江利香によそ見なんかさせない。江利香が目を逸らしたりしないよう、ずっと愛し続ける」
 江利香の手から傘が落ちた。両手でしっかり強く、亮二のことを抱きしめる。
「私、迷惑かける。きっとまた亮二を困らせる。それでも許してくれる?」
「ああ、許すよ。何度だって許す。だって俺、江利香のこと好きだから」
 亮二も強く、けれど優しく江利香を抱きしめる。
「私も。私も好き。愛してる」
「俺も。愛してるよ、江利香」
 相変わらず降り続ける雪も、道行く人たちのことも気にせずに、二人は抱き合った。それは、真にイブの夜に相応しい恋人達の姿だった。


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