誰かが云った。
現世に舞い戻ったのは、悔いがあるからだ、と。
仮にそれが正しいとして、わしの悔いは一体なんだろうか?
その悔いは、晴らすことが出来るのだろうか?
答を得る為に、わしは夜の街に歩を進めていた。
いつものように用心しながらのことだが、不思議なことに今夜は異様に人気がない。影を見ないどころか、声さえ聞こえてこない。
訝しみながらも、チャンスを逃さぬように足を速める。
余計な回り道をしなかったお陰で、目的地へはすぐに辿り着けた。
そして、さらに驚いた。
わしが目指した場所は、この街でもっとも人気の絶えない場所。一年を通じ、一昼夜を通じても、人がいなくなることなど考えられない場所。
それなのに、誰もいない。見渡しても影すら見えず、人の気配を探っても感じるところはない。
街の中心にあって、誰もが安らぎと憩い。そしてロマンチックな雰囲気を求めて止まない、街の名所中の名所。英雄ロイドの青銅像が建つ中央広場で、こんなことがあるだなんて。
さすがに薄気味悪いものを感じたが、引き返す理由にはならなかった。それより強く、求めるものがあったからだ。
実を云うと、ロイド像を見るのはこれが始めてであったが、一目見た瞬間に懐かしさが溢れた。遠い昔、幼き日の彼に剣術を教えたことがある。
その頃わしは、五十歳を過ぎて、故郷の宿場町で隠居生活を送っていた。隠居といっても辛気臭いものじゃなく、若い頃のまんま、無茶なことばかりしてきた騎士時代の自慢話をして、グウェインの店でただ酒を飲みながらくだを巻いていたのだ。
ロイドは一歳にして両親を亡くし、主に町長が面倒を見ていたものの、町のみんなで育てているようなところがあったから、わしも調子に乗って剣術などを教えてやったりしていたのだ。ロイドは当時から筋がよく、その真っ直ぐな性根から、将来はひとかどの人物になるだろうとは思っていたが、ここまで立派になるとはさすがに予想外だった。
ロイドは凱旋した後も英雄としての仕事が忙しく、顔をあわせたのは一度きりだったが、わしの武勇伝を我がことのように喜んでくれていたのを、いまでも覚えている。
そのときの、苦さと共に。
「久し振りじゃ。お前さんは相変わらず、凛々しいままじゃな」
感傷に浸りきった声で話しかける。返事はない。この街の青銅像のほとんどに魂が宿っているが、全てではないのだ。その例外のひとつが、このロイドだ。
「噂通りか。つれないな、昔話のひとつも出来んとは」
それは社交辞令みたいなものだ。本当に昔話が出来るようだったら、わしはこの場所に来なかっただろう。彼と話すことはなにもない。正確には、話せることなどなにもないのだ。
歴史に残る英雄とわしとでは、あまりにすべてが違いすぎる。
それは、月光に照らし出されるこの姿を見ただけでもよくわかる。名前と功績の書かれた立派な台座。その上に立ち、揺るがない瞳で前を見据える精悍な顔。纏う鎧は多くの戦いを潜り抜けた後だというのに傷ひとつなく、ピンと伸びた背筋からも雄雄しさが溢れている。
確かに彼は英雄なのだ。見た者全てがそう思うだろう。
それに比べわしはどうだ。一体なんの資料を見たんだ、と疑いたくなるほど趣味の悪い服を着せられ、貧弱そのものの身体つき。顔なんぞ、愛想の欠片もない。王様の悪意だろうか、人に好かれる要素なんぞどこにもありゃしない。
これでは、駄目だな。
わしは早々に諦めた。ここに来たのは勇気をもらう為だ。何度も諦めようとして、それでも諦めきれず、かといって意を決して動き出す勇気もない。どっちつかずの自分の気持ちにけじめをつけるため、我等が英雄の姿を拝みに来たのだ。そして、可能であるのならその勇気を分けてもらおうと。
馬鹿な想いを抱いたもんだ。
後悔を胸に、首を横に振る。勇気なんて、そんなもの過去の誰かに貰うものではない。自分の中から振り絞るものだ。そうだ。そういえばそんなことを誰かに云ったことがある。遥か以前になるが、確かに誰かに云った。あれは、お前にだったかな。
遠い記憶を探るように、もう一度ロイドに目をやる。月明りを浴びて鈍く輝く英雄は、変わらず無言であった。
その沈黙が、わしに衝撃を与えた。
踵を返し、その場から立ち去ろうとする。
「どこに行くつもりだ」
闇の中から、そんな詰問が飛んできたのはそのときだった。
足を止めて辺りを見回す。誰もいない。
もしや、お前か?
あるわけはないと思っても、ついつい目をやってしまう。すると、ロイド像の影から見慣れた人物が現われた。
「なんだ、グウェイン。お前か」
彼がいつもの場所を離れ、街中の、それもこんな人目につく危険の高いところに現われるなんてよほどのことであるが、それでも見知った人物の登場に、わしは安堵の吐息を漏らした。
「なんだじゃない。こんな夜に、一体どこに行くつもりだ」
気のせいか、グウェインは怒っているようだった。これも珍しい。
「お前こそ、こんな夜更けにこんな所でなにをしている?」
聞き返してから気がついた。かすかな違和感。グウェインは、いまなんと云った?
「ちょっと待った。こんな夜、とはどういう意味じゃ?」
「そのままの意味だ。こんな、夜魔の気配が強く漂う夜に一体なにをしている」
その言葉に愕然とした。夜魔の気配だと。わしは少しも感じていないのに。
「耄碌したか? こんなにも強く漂っているじゃないか。大戦時に感じた、あの忌まわしい気が」
そこまで云われてもわしにはわからなかったが、それが本当なら大変なことだ。
「アンナは! あの娘はどうしておる?」
夜魔が活動しているとなれば、あの娘が巻き込まれている可能性は高い。わしは大慌てでグウェインに尋ねた。
「危険な状態だ。夜魔の気配を濃密にまとわりつかせた少女が走っているのをミルヒが目撃している。年恰好からして、前に話してくれた少女に間違いない」
なんなんだあいつは。人に大人しくしていろなんて云っておいて、自分はどこをほっつき歩いているんだ。
ミルヒに対する不満が頭をよぎったが、いや、いまはそれどころではない。アンナはどこに向かったというのだ。一体なにに巻き込まれておる。
「なら、こうしてはおれん」
わしは友に背を向け、勢いよく走り出そうとした。
「だから、どこに行くつもりだ!」
荒い声がその動きを止めた。
「決まっておる。救けに行くんじゃ」
ゆっくりと向き直る。時間はない。だが、ここでグウェインを放っておくことも出来ない。決めた覚悟。その証を、わしは示す必要があると感じた。
「救ける? ただの青銅像が一体どうやって?」
「方法はある。いくらでも。わかって……いるじゃろ」
そのはずなのに、友は否定する。
「わからんよ、そんなものは。仮にあったとして、出来るはずがない」
吐き捨てるその言葉に、嘲りが含まれていたらどれだけ気が楽だっただろう。
「勘違いするな。もう騎士じゃない。人間ですらない」
「それでも、やらねばならん。あの娘を助ける為にもな。夜魔はわしが倒す」
無理は百も承知。無謀――わしだってそう思う。
「勝手だな。そうやって他の人間の気など知らずに、自分勝手にやりたいように振舞う。相変わらず、昔のまま。気の遠くなるような歳月がたっているはずなのに、あの頃のまま」
急に友の肩が落ちる。元気をなくし、いまにも崩れそうな友に近寄り、わしは不器用な動きで友の肩に手を当てた。
「すまんな。何百年経っても、わしはわしじゃからな」
「ふざけるな! 人の気も知らないで」
その手が荒々しく払われた。
「知っているぞ。嘘つきだってこと。騎士なんかじゃなかっただろ」
ミルヒのように責め立てればいいものを、友の口調は相変わらず辛そうだ。
「永い付き合いなんだ。知らないことなんて、なにもない」
グウェインの云う通り、生前わしは嘘をつき通してきた。騎士として大活躍しただなんて、町に帰ってからなにも知らない連中に云いふらして廻った。
ちやほやされたかったから。格好をつけたかったから。本当は騎士見習いでしかなかったんだが、嘘をついて、武勇伝は全てご主人様のものを語った。
嘘偽りでも、みんなから尊敬の眼差しを向けられるのは気持ちが良かった。
夜魔の軍勢が攻めて来たときは、その嘘を後悔したもんだ。
かなう筈がない。
まだ、死にたくなんかない。
そう思っても、グウェインの店の食堂に集まって、肩を寄せ合いながら震える住民達を見ては、一緒になって震えるなんて格好悪すぎて出来やしなかった。
そう、あのときも半分は格好をつける為に、もう半分は自棄になってひとり飛び出したんだ。
そんな馬鹿な行為が、後のわしを偉人に変えてしまった。
グウェインはそのことも全てわかっているのだろう。永い付き合いなのだから。
「人であった当時だって、夜魔にかないやしなかったんだ。いまになって夜魔を倒すなんて出来るはずがない。それなのに……今度は誰に格好をつけるつもりなんだ。あの娘に対してか? 馬鹿な話だ。あの娘だって、ただ毎朝磨いているだけで、どういうつもりかはわからないけれど、特別な意味なんかありゃしない。影で夜魔を倒したところで、それを知ることはないし、知ったとしても、驚き、気味悪がるだけで感謝なぞするはずがない」
グウェインは一気呵成にまくし立てる。
「そうだ。彼女だって年頃の娘。きっと好きな男の子だっている。最後はその男子の元に帰る。救けるのだって、その男子の役目だ。我等に仕事ではない。為すべきことではないんだ」
そうかもしれない。これはわしらがどうこうする問題ではないかもしれない。所詮わしらは終わった者達。現代のことは現代の者に任せておけばいいのかもしれない。
わしとてそれを望んでいるわけではないが、感謝もされはしないだろう。
では、一体なぜなのか? 誰に対し格好をつけているのか?
その解はすでにわしの胸にあった。
「勝ち目のない勝負。報われない行為。その全てを承知で、わしは行かねばならん。そうしなければならん理由があるからじゃ」
「理由?」
問いかける瞳に、わしは人差し指を立てて応える。
「奴を見ろ、グウェイン」
人差し指の先には凛々しき姿がある。グウェインは振り返って、英雄像を仰ぎ見る。
「わしらの時代、誰もが愛し尊敬した英雄の姿だ。三百年たったいまでも、みなの人気者であることは変わらん。それなのに、悲しいじゃないか。長年の風雨にさらされて色も褪せ、たまに磨かれているかもしれないが、苔と汚れでくすんでしまっている」
そりゃあ青銅像なんだから、そうなってしまうことは仕方がない。仕方がないが、それに抗うことも出来たはずだ。
「それに比べ、わしはどうじゃ。色褪せてないとは云わんが、まだまだ輝いておるじゃろ」
無論、わし自身の手柄ではない。暑い日には汗を。寒い日には水の冷たさを。ものともせずに毎朝磨いてくれた、か細い手を持つ少女のお陰だ。
「誰に対し格好つけるかだって。わし自身に対してじゃ。わしと少女の健気さと、こんなわしをも照らしてくれる、月と太陽に対してわしは格好をつけなければならん」
降り注ぐ月光に恥じぬよう、堂々と胸を張ってわしは宣言する。
それから、少し照れたように、
「まぁ、こんな姿で格好をつけるというのも、どうかと思うがな」
染まることのない頬を朱に染める。
これで本来の姿をしていれば、なんていうのは詮無い繰言だ。
アンナに想い人がいる。
結構な話じゃないか。
だとしたら、二人の為に格好をつけるのも良いかもしれない。
何年もの間、毎朝磨き続けてくれた。その為の恩返しに、命を張るのも一興だ。
「馬鹿な。それこそ、今更じゃないか。今更そんな格好をつけたって遅すぎる」
闇にとけてしまうほどのか細い声。
「遅すぎることなんてない。……いや、確かに遅いかもしれん。このことは誰も知ることはないだろうから、尊敬されることもちやほやされることもあるまい。それでも、人生に悔いを残してしまった。その悔いを、晴らすことが出来る。ならば、やるしかあるまい」
「そうやって、また俺を置いて一人で先に行ってしまうんだ。小さい頃からずっとそうだった。いつも、俺は置いていかれるんだ」
無理して元気を振り絞るような、どこか悲しい笑顔で親友が顔を上げる。
「グウェイン……」
「構わんよ。お前は先に行っててくれ。それでこそ、俺の親友だ。俺は、そんなお前の背中を見ているのが好きだった」
そう云うと、グウェインはロイド像の後ろに廻って、とんでもない物を持ってきた。
「いくら云ってもお前は聞かないと思ったからな、餞別だ」
なんでもないことのように云う。
「餞別って……。お前、これ」
開いた口が塞がらなくなりそうなのを堪えて、なんとかそれだけを振り絞る。
グウェインが持ってきたのは、大戦当時にロイドが使っていた、伝説の装備のレプリカだった。レプリカといっても、実際にそうなのは雷帝の剣と呼ばれる武器のほうだけで、精霊王から授かったといわれる四精の鎧は本物である。どういう経緯でこれがこの街にレプリカとしてあるのかは知らないが、いまでは両方ともこの近くの博物館に展示されている。
「取って来た。これなら、お前の力になってくれるだろうから」
あくまで明るい口調だが、そんな簡単なことではない。確かに博物館の警備は万全とは云い難かった。この装備をただのレプリカだ、と思っているのだから無理もない。それでも、博物館の入り口に建てられた番犬シュルツの青銅像は、如何な者の進入も許さないはずだし、よしんばシュルツの目を誤魔化せたとしても、普段あまり動くことのない愚鈍なグウェインが、易々と盗んで逃げ果せるはずがない。
事実、後から聞いた話では、シュルツの像こそなぜか動き出さなかったものの、警備員達には見つかり、総勢五十人以上の人間に追い回されたという。どうやって逃げてきたのか、なぜ逃げることが出来たのか、まったくわからないらしい。
「行って欲しくない。なんとしてもやめさせたい。あのとき真実を云い淀んだのも、いまこうしてここに来たのも、その為だ。でも、お前が止まらないのも、行ってしまうのも本当はわかっていたんだ」
グウェインは笑っている。子供の頃みたいに、心底嬉しそうに。
「だから、これを使ってくれ。気にやむ事なんてないぞ。確かに無茶をしたが、楽しかった。人であったときには味わうことのなかった爽快感だ。そして、晴らせなかった悔いを、ほんの少し晴らせた気分だ」
わしは目を背けたかった。友の、こんな笑顔を見るのが辛かったから。
「死ぬな、とは云わん。命を捨てる気であるのだろ。俺に云えるのは、頑張れ! ってことぐらいだ」
青銅像は涙を流さない。言葉を話せようが、身体を動かせようがそれは変わらない。だから、きっとこれはわしにしか見えないのだ。あるはずのない涙が親友の頬を伝い、幼子のように顔がクシャクシャになって、それでも笑顔でいるのはわしにしかわからないのだ。
「ああ、行って来るよ」
わしは泣いたりしなかった。親友の想いに強く胸を打たれていたが、逆にそれが心を落ち着かせた。
騎士は泣いたりしないのだ。他にすべきことがあるのだから。
頭の先から爪の先まですっぽり覆い隠せる鎧兜を身にまとい、伝説の剣のレプリカを片手に、わしは夜の闇の彼方へと走り出した。
現世に舞い戻ったのは、悔いがあるからだ、と。
仮にそれが正しいとして、わしの悔いは一体なんだろうか?
その悔いは、晴らすことが出来るのだろうか?
答を得る為に、わしは夜の街に歩を進めていた。
いつものように用心しながらのことだが、不思議なことに今夜は異様に人気がない。影を見ないどころか、声さえ聞こえてこない。
訝しみながらも、チャンスを逃さぬように足を速める。
余計な回り道をしなかったお陰で、目的地へはすぐに辿り着けた。
そして、さらに驚いた。
わしが目指した場所は、この街でもっとも人気の絶えない場所。一年を通じ、一昼夜を通じても、人がいなくなることなど考えられない場所。
それなのに、誰もいない。見渡しても影すら見えず、人の気配を探っても感じるところはない。
街の中心にあって、誰もが安らぎと憩い。そしてロマンチックな雰囲気を求めて止まない、街の名所中の名所。英雄ロイドの青銅像が建つ中央広場で、こんなことがあるだなんて。
さすがに薄気味悪いものを感じたが、引き返す理由にはならなかった。それより強く、求めるものがあったからだ。
実を云うと、ロイド像を見るのはこれが始めてであったが、一目見た瞬間に懐かしさが溢れた。遠い昔、幼き日の彼に剣術を教えたことがある。
その頃わしは、五十歳を過ぎて、故郷の宿場町で隠居生活を送っていた。隠居といっても辛気臭いものじゃなく、若い頃のまんま、無茶なことばかりしてきた騎士時代の自慢話をして、グウェインの店でただ酒を飲みながらくだを巻いていたのだ。
ロイドは一歳にして両親を亡くし、主に町長が面倒を見ていたものの、町のみんなで育てているようなところがあったから、わしも調子に乗って剣術などを教えてやったりしていたのだ。ロイドは当時から筋がよく、その真っ直ぐな性根から、将来はひとかどの人物になるだろうとは思っていたが、ここまで立派になるとはさすがに予想外だった。
ロイドは凱旋した後も英雄としての仕事が忙しく、顔をあわせたのは一度きりだったが、わしの武勇伝を我がことのように喜んでくれていたのを、いまでも覚えている。
そのときの、苦さと共に。
「久し振りじゃ。お前さんは相変わらず、凛々しいままじゃな」
感傷に浸りきった声で話しかける。返事はない。この街の青銅像のほとんどに魂が宿っているが、全てではないのだ。その例外のひとつが、このロイドだ。
「噂通りか。つれないな、昔話のひとつも出来んとは」
それは社交辞令みたいなものだ。本当に昔話が出来るようだったら、わしはこの場所に来なかっただろう。彼と話すことはなにもない。正確には、話せることなどなにもないのだ。
歴史に残る英雄とわしとでは、あまりにすべてが違いすぎる。
それは、月光に照らし出されるこの姿を見ただけでもよくわかる。名前と功績の書かれた立派な台座。その上に立ち、揺るがない瞳で前を見据える精悍な顔。纏う鎧は多くの戦いを潜り抜けた後だというのに傷ひとつなく、ピンと伸びた背筋からも雄雄しさが溢れている。
確かに彼は英雄なのだ。見た者全てがそう思うだろう。
それに比べわしはどうだ。一体なんの資料を見たんだ、と疑いたくなるほど趣味の悪い服を着せられ、貧弱そのものの身体つき。顔なんぞ、愛想の欠片もない。王様の悪意だろうか、人に好かれる要素なんぞどこにもありゃしない。
これでは、駄目だな。
わしは早々に諦めた。ここに来たのは勇気をもらう為だ。何度も諦めようとして、それでも諦めきれず、かといって意を決して動き出す勇気もない。どっちつかずの自分の気持ちにけじめをつけるため、我等が英雄の姿を拝みに来たのだ。そして、可能であるのならその勇気を分けてもらおうと。
馬鹿な想いを抱いたもんだ。
後悔を胸に、首を横に振る。勇気なんて、そんなもの過去の誰かに貰うものではない。自分の中から振り絞るものだ。そうだ。そういえばそんなことを誰かに云ったことがある。遥か以前になるが、確かに誰かに云った。あれは、お前にだったかな。
遠い記憶を探るように、もう一度ロイドに目をやる。月明りを浴びて鈍く輝く英雄は、変わらず無言であった。
その沈黙が、わしに衝撃を与えた。
踵を返し、その場から立ち去ろうとする。
「どこに行くつもりだ」
闇の中から、そんな詰問が飛んできたのはそのときだった。
足を止めて辺りを見回す。誰もいない。
もしや、お前か?
あるわけはないと思っても、ついつい目をやってしまう。すると、ロイド像の影から見慣れた人物が現われた。
「なんだ、グウェイン。お前か」
彼がいつもの場所を離れ、街中の、それもこんな人目につく危険の高いところに現われるなんてよほどのことであるが、それでも見知った人物の登場に、わしは安堵の吐息を漏らした。
「なんだじゃない。こんな夜に、一体どこに行くつもりだ」
気のせいか、グウェインは怒っているようだった。これも珍しい。
「お前こそ、こんな夜更けにこんな所でなにをしている?」
聞き返してから気がついた。かすかな違和感。グウェインは、いまなんと云った?
「ちょっと待った。こんな夜、とはどういう意味じゃ?」
「そのままの意味だ。こんな、夜魔の気配が強く漂う夜に一体なにをしている」
その言葉に愕然とした。夜魔の気配だと。わしは少しも感じていないのに。
「耄碌したか? こんなにも強く漂っているじゃないか。大戦時に感じた、あの忌まわしい気が」
そこまで云われてもわしにはわからなかったが、それが本当なら大変なことだ。
「アンナは! あの娘はどうしておる?」
夜魔が活動しているとなれば、あの娘が巻き込まれている可能性は高い。わしは大慌てでグウェインに尋ねた。
「危険な状態だ。夜魔の気配を濃密にまとわりつかせた少女が走っているのをミルヒが目撃している。年恰好からして、前に話してくれた少女に間違いない」
なんなんだあいつは。人に大人しくしていろなんて云っておいて、自分はどこをほっつき歩いているんだ。
ミルヒに対する不満が頭をよぎったが、いや、いまはそれどころではない。アンナはどこに向かったというのだ。一体なにに巻き込まれておる。
「なら、こうしてはおれん」
わしは友に背を向け、勢いよく走り出そうとした。
「だから、どこに行くつもりだ!」
荒い声がその動きを止めた。
「決まっておる。救けに行くんじゃ」
ゆっくりと向き直る。時間はない。だが、ここでグウェインを放っておくことも出来ない。決めた覚悟。その証を、わしは示す必要があると感じた。
「救ける? ただの青銅像が一体どうやって?」
「方法はある。いくらでも。わかって……いるじゃろ」
そのはずなのに、友は否定する。
「わからんよ、そんなものは。仮にあったとして、出来るはずがない」
吐き捨てるその言葉に、嘲りが含まれていたらどれだけ気が楽だっただろう。
「勘違いするな。もう騎士じゃない。人間ですらない」
「それでも、やらねばならん。あの娘を助ける為にもな。夜魔はわしが倒す」
無理は百も承知。無謀――わしだってそう思う。
「勝手だな。そうやって他の人間の気など知らずに、自分勝手にやりたいように振舞う。相変わらず、昔のまま。気の遠くなるような歳月がたっているはずなのに、あの頃のまま」
急に友の肩が落ちる。元気をなくし、いまにも崩れそうな友に近寄り、わしは不器用な動きで友の肩に手を当てた。
「すまんな。何百年経っても、わしはわしじゃからな」
「ふざけるな! 人の気も知らないで」
その手が荒々しく払われた。
「知っているぞ。嘘つきだってこと。騎士なんかじゃなかっただろ」
ミルヒのように責め立てればいいものを、友の口調は相変わらず辛そうだ。
「永い付き合いなんだ。知らないことなんて、なにもない」
グウェインの云う通り、生前わしは嘘をつき通してきた。騎士として大活躍しただなんて、町に帰ってからなにも知らない連中に云いふらして廻った。
ちやほやされたかったから。格好をつけたかったから。本当は騎士見習いでしかなかったんだが、嘘をついて、武勇伝は全てご主人様のものを語った。
嘘偽りでも、みんなから尊敬の眼差しを向けられるのは気持ちが良かった。
夜魔の軍勢が攻めて来たときは、その嘘を後悔したもんだ。
かなう筈がない。
まだ、死にたくなんかない。
そう思っても、グウェインの店の食堂に集まって、肩を寄せ合いながら震える住民達を見ては、一緒になって震えるなんて格好悪すぎて出来やしなかった。
そう、あのときも半分は格好をつける為に、もう半分は自棄になってひとり飛び出したんだ。
そんな馬鹿な行為が、後のわしを偉人に変えてしまった。
グウェインはそのことも全てわかっているのだろう。永い付き合いなのだから。
「人であった当時だって、夜魔にかないやしなかったんだ。いまになって夜魔を倒すなんて出来るはずがない。それなのに……今度は誰に格好をつけるつもりなんだ。あの娘に対してか? 馬鹿な話だ。あの娘だって、ただ毎朝磨いているだけで、どういうつもりかはわからないけれど、特別な意味なんかありゃしない。影で夜魔を倒したところで、それを知ることはないし、知ったとしても、驚き、気味悪がるだけで感謝なぞするはずがない」
グウェインは一気呵成にまくし立てる。
「そうだ。彼女だって年頃の娘。きっと好きな男の子だっている。最後はその男子の元に帰る。救けるのだって、その男子の役目だ。我等に仕事ではない。為すべきことではないんだ」
そうかもしれない。これはわしらがどうこうする問題ではないかもしれない。所詮わしらは終わった者達。現代のことは現代の者に任せておけばいいのかもしれない。
わしとてそれを望んでいるわけではないが、感謝もされはしないだろう。
では、一体なぜなのか? 誰に対し格好をつけているのか?
その解はすでにわしの胸にあった。
「勝ち目のない勝負。報われない行為。その全てを承知で、わしは行かねばならん。そうしなければならん理由があるからじゃ」
「理由?」
問いかける瞳に、わしは人差し指を立てて応える。
「奴を見ろ、グウェイン」
人差し指の先には凛々しき姿がある。グウェインは振り返って、英雄像を仰ぎ見る。
「わしらの時代、誰もが愛し尊敬した英雄の姿だ。三百年たったいまでも、みなの人気者であることは変わらん。それなのに、悲しいじゃないか。長年の風雨にさらされて色も褪せ、たまに磨かれているかもしれないが、苔と汚れでくすんでしまっている」
そりゃあ青銅像なんだから、そうなってしまうことは仕方がない。仕方がないが、それに抗うことも出来たはずだ。
「それに比べ、わしはどうじゃ。色褪せてないとは云わんが、まだまだ輝いておるじゃろ」
無論、わし自身の手柄ではない。暑い日には汗を。寒い日には水の冷たさを。ものともせずに毎朝磨いてくれた、か細い手を持つ少女のお陰だ。
「誰に対し格好つけるかだって。わし自身に対してじゃ。わしと少女の健気さと、こんなわしをも照らしてくれる、月と太陽に対してわしは格好をつけなければならん」
降り注ぐ月光に恥じぬよう、堂々と胸を張ってわしは宣言する。
それから、少し照れたように、
「まぁ、こんな姿で格好をつけるというのも、どうかと思うがな」
染まることのない頬を朱に染める。
これで本来の姿をしていれば、なんていうのは詮無い繰言だ。
アンナに想い人がいる。
結構な話じゃないか。
だとしたら、二人の為に格好をつけるのも良いかもしれない。
何年もの間、毎朝磨き続けてくれた。その為の恩返しに、命を張るのも一興だ。
「馬鹿な。それこそ、今更じゃないか。今更そんな格好をつけたって遅すぎる」
闇にとけてしまうほどのか細い声。
「遅すぎることなんてない。……いや、確かに遅いかもしれん。このことは誰も知ることはないだろうから、尊敬されることもちやほやされることもあるまい。それでも、人生に悔いを残してしまった。その悔いを、晴らすことが出来る。ならば、やるしかあるまい」
「そうやって、また俺を置いて一人で先に行ってしまうんだ。小さい頃からずっとそうだった。いつも、俺は置いていかれるんだ」
無理して元気を振り絞るような、どこか悲しい笑顔で親友が顔を上げる。
「グウェイン……」
「構わんよ。お前は先に行っててくれ。それでこそ、俺の親友だ。俺は、そんなお前の背中を見ているのが好きだった」
そう云うと、グウェインはロイド像の後ろに廻って、とんでもない物を持ってきた。
「いくら云ってもお前は聞かないと思ったからな、餞別だ」
なんでもないことのように云う。
「餞別って……。お前、これ」
開いた口が塞がらなくなりそうなのを堪えて、なんとかそれだけを振り絞る。
グウェインが持ってきたのは、大戦当時にロイドが使っていた、伝説の装備のレプリカだった。レプリカといっても、実際にそうなのは雷帝の剣と呼ばれる武器のほうだけで、精霊王から授かったといわれる四精の鎧は本物である。どういう経緯でこれがこの街にレプリカとしてあるのかは知らないが、いまでは両方ともこの近くの博物館に展示されている。
「取って来た。これなら、お前の力になってくれるだろうから」
あくまで明るい口調だが、そんな簡単なことではない。確かに博物館の警備は万全とは云い難かった。この装備をただのレプリカだ、と思っているのだから無理もない。それでも、博物館の入り口に建てられた番犬シュルツの青銅像は、如何な者の進入も許さないはずだし、よしんばシュルツの目を誤魔化せたとしても、普段あまり動くことのない愚鈍なグウェインが、易々と盗んで逃げ果せるはずがない。
事実、後から聞いた話では、シュルツの像こそなぜか動き出さなかったものの、警備員達には見つかり、総勢五十人以上の人間に追い回されたという。どうやって逃げてきたのか、なぜ逃げることが出来たのか、まったくわからないらしい。
「行って欲しくない。なんとしてもやめさせたい。あのとき真実を云い淀んだのも、いまこうしてここに来たのも、その為だ。でも、お前が止まらないのも、行ってしまうのも本当はわかっていたんだ」
グウェインは笑っている。子供の頃みたいに、心底嬉しそうに。
「だから、これを使ってくれ。気にやむ事なんてないぞ。確かに無茶をしたが、楽しかった。人であったときには味わうことのなかった爽快感だ。そして、晴らせなかった悔いを、ほんの少し晴らせた気分だ」
わしは目を背けたかった。友の、こんな笑顔を見るのが辛かったから。
「死ぬな、とは云わん。命を捨てる気であるのだろ。俺に云えるのは、頑張れ! ってことぐらいだ」
青銅像は涙を流さない。言葉を話せようが、身体を動かせようがそれは変わらない。だから、きっとこれはわしにしか見えないのだ。あるはずのない涙が親友の頬を伝い、幼子のように顔がクシャクシャになって、それでも笑顔でいるのはわしにしかわからないのだ。
「ああ、行って来るよ」
わしは泣いたりしなかった。親友の想いに強く胸を打たれていたが、逆にそれが心を落ち着かせた。
騎士は泣いたりしないのだ。他にすべきことがあるのだから。
頭の先から爪の先まですっぽり覆い隠せる鎧兜を身にまとい、伝説の剣のレプリカを片手に、わしは夜の闇の彼方へと走り出した。
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