零は家を出るとき鍵を掛けるという行為をしない。オートロックのついた高級マンションの一室が、彼のいまの家であるからだ。
いまという云い方をしたのは、本来の家はここよりもっと郊外にある山の上にそびえる豪邸だからだ。その家にさえ、生まれてからの十七年間で三百六十五日も生活していない。幼いときより海外での暮らしの方が長かったからである。
ある意味では人も羨むような生活ではあったのだが、常に注目されるのが当然と呼べるような環境でもあり、零はその性格上それを良しとしなかった。
なのでわがままを云って、中学の時から都心に程近い住宅街にあるマンションの一室で、ひとり暮らしを始めていた。
極力足音をひそめ、気配を殺しなが階段に向う。
中学生の高級マンションでのひとり暮らしは当然珍しく、周りの住人は気づけば奇異の目を零に向けてきた。零はそれが嫌で、ひとり暮らしを始めた当初から、周りの住人を避けるように生活していた。
廊下で誰ともすれ違わずに歩く術も、三年以上続けていれば楽ではないが苦にもならず、慣れたものだ。
親が気を利かして十五階の最上階に部屋を買ってしまったのは困りものだが、トレーニングと考えればなんとか我慢できる。零はそういったトレーニングが必要な生活を、心ならずもしていた。
いや心ならずもと云えば、零の生まれのほとんどが彼の望むものとは違っていた。
零の父親は世界的に有名なマジシャンである。オリエンタル・クズミという名前で、テレビのゴールデンタイムに特番を組まれたり、ニューヨーク、ロンドン、パリなどでショーを行い、毎回大成功を収めたりしている。日本ではマジシャンの人気がそれ程高くない為、どちらかといえば海外での人気の方が高い。あらゆるマジックを披露するが、一番得意としているのは消失マジックだ。人や物、舞台に乗るものはなんでも消してきているが、なかでも人気が高いのは、月の消失マジックだ。
夜空に煌々と輝く月を、呪文を唱えて消し去ってみせる。
毎回やるマジックではないが、それゆえ見たがる客も多い。
それなのに回数を控えているのは、客の気持ちを煽る為と、タネに理由がある。
このマジックのタネは実に簡単だ。あらかじめ雲の流れを予測しておき、会場の上空に雲が差し掛かり、月を覆い隠してしまう寸前でマジックを始めるのだ。
呪文を唱え終えると同時に雲が月を隠す。言葉にすると簡単で、たいして凄そうでもないマジックだが、それを一大イベントに変えてしまうのが、零の父親が一流マジシャンと呼ばれる所以である。
マジシャンとはショーマンでもあり、そして勉強家でもある。
零の父親はこのショーをものにする為、気象学を学び、現場を何回も視察しては、風の流れや空気の匂いなどを肌で感じ取り、一時間以内の雲の動きを予想可能としている。
その努力が実を結び、世界的マジシャン、オリエンタル・クズミの存在があるのだ。
零の母親はその父のアシスタントであり、あまり有名ではないもののやはりマジシャンとして一部の人間に知られている。
世界のごく一部の人間。いわゆる王と呼ばれるような人達に。
零の母親はマジシャンとしてあまり器用な方とは云えない。小物を使ったマジックは苦手だし、大型のセットを使ったものは、その派手さを上手に活かすことが出来ない。
だがマジックの質はずば抜けて高い。いわゆる、不可能を可能にする、というレベルで母親は数々のマジックを行う。
服を着たまま水に潜り、水滴ひとつ纏うことなく出てきたり、帽子の中からライオンを出したりする。
もちろん消失マジックも可能で、母親は雲の力を借りることなく、月を消し去ることが出来る。
全てにおいてレベルの高すぎるマジックは、演出上の盛り上がりがあるというわけではなく、実に淡々とこなしてしまう為、一般レベルでの受けはあまり良くなかった。
しかし、他の追随を許さないその圧倒的なマジックの数々は、ありふれたものでは満足できなくなった階級層の高い人達に喜ばれ、表には出ないものの一部の愛好家から絶大な支持を受けていた。
零はその母親の血を色濃く受け継ぎ、月を消すどころか、形を自在に変えることまで可能とした。
当然マジシャンとしての活躍を早くから期待されたが、先に述べた通り本人はそれを望まずいまに至っている。
理解ある両親であったことは、零にとってなによりの救いだった。
高級マンションでは階段を使う酔狂な者など他にひとりもなく、零は誰にすれ違うことなく地下一階まで駆け降りることが出来た。
地下には駐車場とゴミ置き場がある。零はゴミを捨てに来たわけでもなく、無免許運転をしようと思ってきたわけでもなく、脇に置いてある自転車が目当てだった。
黒をメインとした渋いカラーリングの自転車は、素人でもひと目で高級とわかるクロスバイクで、メンテナンスもよく行き届いていた。見る者が見れば、持ち主の自転車に対する深い愛情が感じられただろう。
人見知りする零は、自分ひとりで行動できる自転車が好きだった。移動手段に好んで用いたし、よく晴れた日の休日には一日中乗り回してもいた。
今日はサイクリングという気分ではなかったが、バイト先に顔を出さないといけない事情があり、学校から帰ってきて時間潰しをした後で、自転車に跨った。
自分が親のすねかじりだという自覚がある零は、高校に入ってからバイトをしなければいけないな、と感じるようになっていた。だが、恥ずかしがり屋の零に出来るバイトなどそうそうあるものではなく、その点に関してだけは、自分に甘えを許そうとしていた。
持って生まれた能力がなければ、たぶんそうしていたはずだ。望まずに背負う羽目になってしまったなにかに導かれ、零はバイトを始め、厄介事にも巻き込まれるようになった。
夜の八時過ぎに閉まったばかりのバイト先に向けて自転車を走らせているのは、つい二日前に巻き込まれた厄介事が理由だ。
深夜のコンビニ帰りに出会った幽体が、なぜ凶行に及んでいたかはわからない。最後に残した佐山雄吾という名前の人物が何者なのかもわからない。
わからないことだらけであるだけに、相談相手が必要だ。経過は全てその夜にうちにメールで伝えてある。返信には、この日時に来るように、とあった。
どうせならバイトの日にしてくれれば楽なのに、とは思ったが、否も応もない。解決は早い方が好ましい。
自転車は夜気を巻いて走り抜けていく。零の操輪技術は確かだ。ほとんど停止することなく、車よりも早いタイムでバイト先に辿り着いた。
零の住むマンションの最寄り駅からは三駅。線路が弧を描く関係で、疲れることさえ気にしなければ歩いていってもさほど所要時刻は変わらない。自転車であればなおさら早い。零の地区と比べて、もう少し開けた人通りの多い商店街の外れに、そのパン屋はある。
種類こそ多くはないものの、手作りのパンが定評のある『ハニーベア』。若い女店主と数人の学生バイトで成り立っているその店の、たったひとりの男性アルバイトが零であった。
店の脇の標識にチェーンで自転車を固定し、かわいらしい熊の絵と「閉店」と書かれた看板の提げられたドアに手をかける。
不用心にも鍵はかかっておらず、抵抗もなくすんなりドアは開いて、軽やかな鐘の音が店内に響いた。
いまという云い方をしたのは、本来の家はここよりもっと郊外にある山の上にそびえる豪邸だからだ。その家にさえ、生まれてからの十七年間で三百六十五日も生活していない。幼いときより海外での暮らしの方が長かったからである。
ある意味では人も羨むような生活ではあったのだが、常に注目されるのが当然と呼べるような環境でもあり、零はその性格上それを良しとしなかった。
なのでわがままを云って、中学の時から都心に程近い住宅街にあるマンションの一室で、ひとり暮らしを始めていた。
極力足音をひそめ、気配を殺しなが階段に向う。
中学生の高級マンションでのひとり暮らしは当然珍しく、周りの住人は気づけば奇異の目を零に向けてきた。零はそれが嫌で、ひとり暮らしを始めた当初から、周りの住人を避けるように生活していた。
廊下で誰ともすれ違わずに歩く術も、三年以上続けていれば楽ではないが苦にもならず、慣れたものだ。
親が気を利かして十五階の最上階に部屋を買ってしまったのは困りものだが、トレーニングと考えればなんとか我慢できる。零はそういったトレーニングが必要な生活を、心ならずもしていた。
いや心ならずもと云えば、零の生まれのほとんどが彼の望むものとは違っていた。
零の父親は世界的に有名なマジシャンである。オリエンタル・クズミという名前で、テレビのゴールデンタイムに特番を組まれたり、ニューヨーク、ロンドン、パリなどでショーを行い、毎回大成功を収めたりしている。日本ではマジシャンの人気がそれ程高くない為、どちらかといえば海外での人気の方が高い。あらゆるマジックを披露するが、一番得意としているのは消失マジックだ。人や物、舞台に乗るものはなんでも消してきているが、なかでも人気が高いのは、月の消失マジックだ。
夜空に煌々と輝く月を、呪文を唱えて消し去ってみせる。
毎回やるマジックではないが、それゆえ見たがる客も多い。
それなのに回数を控えているのは、客の気持ちを煽る為と、タネに理由がある。
このマジックのタネは実に簡単だ。あらかじめ雲の流れを予測しておき、会場の上空に雲が差し掛かり、月を覆い隠してしまう寸前でマジックを始めるのだ。
呪文を唱え終えると同時に雲が月を隠す。言葉にすると簡単で、たいして凄そうでもないマジックだが、それを一大イベントに変えてしまうのが、零の父親が一流マジシャンと呼ばれる所以である。
マジシャンとはショーマンでもあり、そして勉強家でもある。
零の父親はこのショーをものにする為、気象学を学び、現場を何回も視察しては、風の流れや空気の匂いなどを肌で感じ取り、一時間以内の雲の動きを予想可能としている。
その努力が実を結び、世界的マジシャン、オリエンタル・クズミの存在があるのだ。
零の母親はその父のアシスタントであり、あまり有名ではないもののやはりマジシャンとして一部の人間に知られている。
世界のごく一部の人間。いわゆる王と呼ばれるような人達に。
零の母親はマジシャンとしてあまり器用な方とは云えない。小物を使ったマジックは苦手だし、大型のセットを使ったものは、その派手さを上手に活かすことが出来ない。
だがマジックの質はずば抜けて高い。いわゆる、不可能を可能にする、というレベルで母親は数々のマジックを行う。
服を着たまま水に潜り、水滴ひとつ纏うことなく出てきたり、帽子の中からライオンを出したりする。
もちろん消失マジックも可能で、母親は雲の力を借りることなく、月を消し去ることが出来る。
全てにおいてレベルの高すぎるマジックは、演出上の盛り上がりがあるというわけではなく、実に淡々とこなしてしまう為、一般レベルでの受けはあまり良くなかった。
しかし、他の追随を許さないその圧倒的なマジックの数々は、ありふれたものでは満足できなくなった階級層の高い人達に喜ばれ、表には出ないものの一部の愛好家から絶大な支持を受けていた。
零はその母親の血を色濃く受け継ぎ、月を消すどころか、形を自在に変えることまで可能とした。
当然マジシャンとしての活躍を早くから期待されたが、先に述べた通り本人はそれを望まずいまに至っている。
理解ある両親であったことは、零にとってなによりの救いだった。
高級マンションでは階段を使う酔狂な者など他にひとりもなく、零は誰にすれ違うことなく地下一階まで駆け降りることが出来た。
地下には駐車場とゴミ置き場がある。零はゴミを捨てに来たわけでもなく、無免許運転をしようと思ってきたわけでもなく、脇に置いてある自転車が目当てだった。
黒をメインとした渋いカラーリングの自転車は、素人でもひと目で高級とわかるクロスバイクで、メンテナンスもよく行き届いていた。見る者が見れば、持ち主の自転車に対する深い愛情が感じられただろう。
人見知りする零は、自分ひとりで行動できる自転車が好きだった。移動手段に好んで用いたし、よく晴れた日の休日には一日中乗り回してもいた。
今日はサイクリングという気分ではなかったが、バイト先に顔を出さないといけない事情があり、学校から帰ってきて時間潰しをした後で、自転車に跨った。
自分が親のすねかじりだという自覚がある零は、高校に入ってからバイトをしなければいけないな、と感じるようになっていた。だが、恥ずかしがり屋の零に出来るバイトなどそうそうあるものではなく、その点に関してだけは、自分に甘えを許そうとしていた。
持って生まれた能力がなければ、たぶんそうしていたはずだ。望まずに背負う羽目になってしまったなにかに導かれ、零はバイトを始め、厄介事にも巻き込まれるようになった。
夜の八時過ぎに閉まったばかりのバイト先に向けて自転車を走らせているのは、つい二日前に巻き込まれた厄介事が理由だ。
深夜のコンビニ帰りに出会った幽体が、なぜ凶行に及んでいたかはわからない。最後に残した佐山雄吾という名前の人物が何者なのかもわからない。
わからないことだらけであるだけに、相談相手が必要だ。経過は全てその夜にうちにメールで伝えてある。返信には、この日時に来るように、とあった。
どうせならバイトの日にしてくれれば楽なのに、とは思ったが、否も応もない。解決は早い方が好ましい。
自転車は夜気を巻いて走り抜けていく。零の操輪技術は確かだ。ほとんど停止することなく、車よりも早いタイムでバイト先に辿り着いた。
零の住むマンションの最寄り駅からは三駅。線路が弧を描く関係で、疲れることさえ気にしなければ歩いていってもさほど所要時刻は変わらない。自転車であればなおさら早い。零の地区と比べて、もう少し開けた人通りの多い商店街の外れに、そのパン屋はある。
種類こそ多くはないものの、手作りのパンが定評のある『ハニーベア』。若い女店主と数人の学生バイトで成り立っているその店の、たったひとりの男性アルバイトが零であった。
店の脇の標識にチェーンで自転車を固定し、かわいらしい熊の絵と「閉店」と書かれた看板の提げられたドアに手をかける。
不用心にも鍵はかかっておらず、抵抗もなくすんなりドアは開いて、軽やかな鐘の音が店内に響いた。
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