取り囲む男子学生は五人。全員が黒峰工業高校の制服を着ている。昔ながらの黒い学ランは、この辺りでは知らない者がいないほどの不良の証だ。事実、零を取り囲む五人もパンチパーマをかけたり、そり込みをいれたりだの、いまだにいるんだ、と感心してしまうほどのわかりやすい不良ファッションだった。
それに比べ、零の着ているブレザーはわりと小洒落たものだった。零の通う森宮高校は、生徒数確保の為に数年前、制服を一新したばかりだ。もっとも、近くに評判の悪い高校が多いために、その成果はあまりあがっていない。
「いい加減懲りないなぁ、お前も。毎度毎度、殴られるために突っかかってきやがって。どんだけマゾなんだよ」
強面の五人に囲まれているというのに、零に怯えた様子はなかった。ズボンのポケットに手を突っ込んだまま、余裕さえ窺える。
「うるせぇぞ! この零点野郎。さんざん調子に乗りやがって。ここが誰のシマかわかってんだろうが。いいか、ここを歩く時はビクつきながら端っこを歩きやがれ。そうでないとどうなるか、いまからたっぷりと叩き込んでやる!」
五人の中央。髪を金色に染めた大男が、凄みのある声を出す。
「木場、今日は調子いいみたいじゃねぇか。五人いれば俺に勝てると思ってんのか?」
通りを行く人の影はない。もともとが人気のない裏通りを選んで向かい合っているわけだし、黒峰の制服を見れば、たいていの人間は違う道を選ぶ。助けに入る者がいないとわかっていても、零の心は揺るがない。
「てめぇ。なに木場さんのこと呼び捨てにしてんだ。このドチビが!」
威勢良くしゃしゃり出てきたのは、木場と呼ばれた男の後ろに控えていた一人だ。確かに零はこの中で一番背が低い。それどころか、自分の通う高校内でも一、二を争う背の低さだ。だが、彼の通う高校でそのことを口にする人間は、限られた数しかいない。よほど親しくなければ、その話題に触れた途端、自分がどうなってしまうのかをみなが理解しているのだ。
この不良も、自分がなにを云ってしまったのかすぐに理解した。股間に走る、強烈な激痛に苦しみながら。
「俺をチビと云うな。俺を見下ろすことも許さん。今度から、俺に会ったら地面に這いつくばって挨拶しろ」
電光石火のその蹴りは、零の性格を良く表していた。喧嘩っ早いうえに、的確に相手の急所をつく情け容赦ない性格を。
「零、てめぇ!」
せっかく連れて来た舎弟を瞬殺され、木場が怒りで身体を震わす。
「木場、子分の躾がなってねぇな。しゃあねぇ。いまから躾けてやるから、忘れるんじゃねぇぞ。俺の前に立つな。俺をチビと呼ぶな。それと、零点野郎と呼ぶな!」
零が前に出た。ポケットから両手を出し、木場に向けてボディーブローを放つ。
かろうじて防げたのはさすがだ。だが、小さな身体からは想像もつかない程の力に、たまらず木場が後退さる。
「てめぇ!」
後ろの三人が動いた。喧嘩慣れしている者の動きだ。顔、腹、足と同時に攻めてきた。
飛び退いて、それを躱す。それから素早く、右端にいる男の側面に廻り込んだ。男は反応出来ていない。
零の膝蹴りもまた強烈だった。わき腹にくらった男は、悶絶してうずくまる。
残りの二人は、怒りで顔を真っ赤にしていた。すぐさま零を殴りたかったろうが、その前にいる仲間が邪魔をしていた。
零にとってはなんでもない障害物だ。屈み込んで身体を震わす男を踏み台に、その身を宙に躍らせる。
跳び蹴りで一人。地についた後の前蹴りで一人。五人いた相手は、瞬く間に木場を残すのみとなった。
「さぁ、木場。覚悟は出来てるだろうな」
「くっ、これで勝ったと思うなよ。俺の高校での目標はな、お前を倒すことなんだからな!」
捨て台詞を言うと同時に吹っ飛んだ。零の手加減なしの一撃は、巨体を数メートル飛ばすほどのものだった。
「マジかよ。そんな面倒くさい目標持つな。まったく、付き合ってらんねぇぜ」
うんざりしたように呟くと、倒れる五人をそのままに、その場を後にする。
放課後は一人で過ごす。別につるむ相手がいないわけじゃないが、零はなにより孤独を愛していた。だから掛けられる声を無視して、一人で街に出てきたのだ。
そういえば、好きな漫画の新刊がそろそろだっけ。
街に出た途端、くだらない連中に絡まれてしまった。気を取り直すために本屋でものぞこうか、と商店街に入った所で再び声を掛けられた。
「ああ、いたいた。もう、レイのこと探したんだよ」
賑やかな声はクラスメートの奈央のものだった。中学からの腐れ縁で、排他的な雰囲気を常に放っている零に対し、物怖じせずに話しかけてくる勇気ある人間の一人だ。
これが別の声なら、零も気にせず無視したに違いない。だが、相手が奈央だと無視した方が話がうるさくなる。仕方なしに足を止め、声の方を振り返る。
そこにいるのは、軽く脱色した髪を肩の辺りまで伸ばした奈央一人ではなかった。艶のある長い黒髪が印象的な、背の高い少女が隣にいた。着ている制服から、同じ学校の同じ二年生であることはわかったが、零の知らない少女である。わりと可愛い少女なので、学内ではそれなりに知られているかもしれないが、零が知る生徒など十人にも満たない。
「ねぇねぇ、ちょっとお茶しない。レイに話があんの」
「おごりか?」
気安い口調で話しかけてくる奈央に対し、零の声は冷やかだ。
「なによ。女性にたかる気?」
「お前の方が金持ちだからな」
一日にすることの大半が、漫画を読むこと、寝ること、喧嘩をすること、で費やされる零に対し、奈央は随分行動的だ。零の知る限りで十以上のバイトを経験しているはずだし、カラオケ行ったりなんだりで、充実した毎日を送っているはずだ。
「とにかく割り勘。そこの喫茶店でいいでしょ」
返事をしていなかったが、お茶することは決定してしまったらしい。すたすたと歩き出してしまった二人の後を、云いかけた言葉を飲み込んでついて行く。
「それで、話ってなんだよ?」
零は紅茶。奈央はオレンジジュース。黒髪の少女はコーヒー、とそれぞれ注文を済ませた所で零が切り出した。
「話があるのはあたしじゃないわ。彼女よ」
奈央が隣の少女に目を向けた。
「彼女のことは知ってる? わけないよね。彼女は篠崎瞳さん、隣のクラスよ。彼女ね、好きな人がいるんだって」
そこまで云って、あとは自分で、と瞳を促す。
「はい、あの、わたし」
緊張しているのだろう。顔を赤くし、うつむき加減で、しどろもどろの口調だ。
「あの、竹内さんのことが好きで、それで」
紹介して欲しいということか。零は竹内の名前を聞いた瞬間に、これがどういう話か理解した。
武内智也は零や奈央と同じクラスだ。背が高く、色々な意味で目立つ男なので、男女ともに人気はある。入学して間もない頃、零と派手な喧嘩をして、それからはなにかとつるむ機会の多い生徒だ。零は認めていないが、あと二人を足して、周りからは仲の良い四人組として認知されている。いや、森宮カルテットとして恐れられているという方が正確か。
そんな関係だけに、武内を紹介して欲しい、と云われることが何度かあった。何故俺に、という疑問を持つことも多いが、それをぶつける度に、なんとなく頼みやすかったから、という納得しかねる返事が返ってきた。別にそれが腹立たしい、という訳ではないが、零は毎回その頼みを断っていた。
今回も同じだ。
運ばれてきた紅茶を一口飲んでから、きっぱりと零は口にした。
「無理。紹介してもいいが、時間の無駄。だってあいつには彼女がいるんだぜ」
武内の目立つ理由の一つがそれだ。彼は一つ年下の彼女を激愛していて、所構わずいちゃついている。破廉恥極まりない、と古い人間なら顔をしかめるだろうが、いまはこれが流行りなんだろう。零にも理解しかねたが、それだけ恋人のことを愛しているわけだから格好いい、と何故か評判だ。そして、そんな評判につられて、零に頼み込む人間が訪れる。
「知ってます。でも、それでも好きなんです」
辛そうな口調。みかねた奈央が口を挟む。
「ちょっと、レイ。そんな冷たい言い方しないでさ、いいじゃない、紹介してあげるぐらい」
「そう思うのなら、自分でしろよ」
「あたしより、あんたの方が仲いいじゃないの」
「だからさ。だから無駄だってわかんの。だいたい、なんで彼女がいる奴好きになるのさ?」
「それは……」
自分でもわからない、と彼女は続けた。気付いたら、好きになっていたのだと。
きっかけは一月前。この近くで黒峰の生徒に絡まれていたところを、助けてもらったことらしい。助けたといっても結果的にそうなっただけで、実際には少し違う。先に黒峰の生徒が、武内の彼女にちょっかいを出していたのだ。それを知った武内が怒り狂い、ちょっかいを出した相手を突き止めたら、たまたまその場に彼女がいた。それだけである。武内が彼女の存在に気付いていたかどうかも怪しい。それは、彼女にもわかっていることだった。
「あの人の瞳に映るのは、きっと恋人だけなんだと思います。それがわかるから、わかっているからこそ、わたしのことも見てもらいたいんです」
独りを好む零だが、人を好きになったことぐらいはある。苦い恋の経験を胸にしまっていたりもする。だから、彼女の気持ちがわからないわけではないのだ。
だが、同時に武内のこともよくわかる。入学以来、好む好まないに関わらず、ずっと共に歩んできた仲だ。恋人との馴れ初めだって知っている。
二人が付き合い始めたのは、去年の夏の終わりだ。高一の男子と中三の女子が付き合うのなんて、普通に考えれば難しくないだろうが、武内の素行の悪さが災いしてか、付き合いだすまでには色々あった。すれ違いが続き、お互いが素直になるまでに、長い時間が掛かった。それを経て結ばれた二人だからこそ、そう簡単には切れない絆で結ばれている。
この辺りの不良なら知らない者はいない話だが、武内がたった一人で三十人からなる暴走族を潰したのは彼女のためだ。恋人のために怒る武内は鬼神に他ならない。零だって、そんな武内に勝てる気はしない。
互いに求め合い、与え合い、深く結ばれているからこそ、あの二人の仲は輝いている。その光に焦がれる者は多いが、結局は手に出来ないものを望んでいるに他ならない。彼らの仲を裂くには、誰であっても役不足なのだ。
「それは恋愛じゃない。憧憬だ。しかも、武内に向けられているんじゃなくて、二人の関係に向けられているだけだ。あいつに紹介した所で、望むものは手に入らない」
「レイ! 云いすぎよ!!」
奈央が声を荒げる。云われた当人は、うつむきながらも、しっかりと受け止めたようだ。
「いいの。平気よ、ナオ。わかっているから。わかっていたことだから」
震える声。頬を伝う一筋の涙。
「そんなの最初から知っていたから。それでも、胸のもやもやが消えずにあなたに相談したの。人に云えばすっきりするかと思ったから。ごめんね。こんなセッティングまでしてもらって。無理だって、知っていた。だから、断ち切りたかったの」
涙を拭う姿が、零の記憶を刺激した。前に見た風景。遠い冬の日。
「おい、見ろよ! 泣いてる女がいるぜ」
粗野な声が店中に響いた。入って来たばかりの男子学生が四人寄ってくる。
「お、ほんとだ。ねぇねぇ、どうしたの彼女。このチビにふられたの。じゃあさ、俺と付き合う?」
着ている紺のブレザーと胸に入った校章が、私立白桜学院の生徒であることを物語っている。黒峰と並ぶ、評判の悪い高校だ。
「黙れ!」
零の恫喝は低く、簡潔であった。四人の顔色が一斉に変わる。ここで大人しく退いておけば良かったものの、自分達の人数と零の体格を見て、優位を信じ込んでしまったのだ。
「なんだ、このチビ!」
無理して虚勢を張る。
「女二人連れているからって調子にのんなよ。泣いてるブスは目障りなんだよ。ととっと連れてよそ行きやがれ」
零は立ち上がった。怒りに燃える双眸に睨まれて、男達がたじろぐ。
「やめてください。別に、あたし平気ですから。こんなとこでレイさんに喧嘩なんかさせては、申し訳ないです」
「そうよ、レイ。やめなさいよ。女連れで喧嘩するなんてサイテーよ」
二人の言葉に渋々と腰を下ろす。
「けっ、なんだよ。やんねぇのかよ。腰抜けが。いいぜ、お前らがいかねぇのなら俺達が出て行くぜ。おい、よそ行こうぜ。ここは臭くてしかたねぇや」
白桜学院の生徒はそう云って出て行った。店員や他の客はここで乱闘が行われなくて、ほっとしている様子だ。
「すいません。迷惑かけちゃいましたね。わたし、ちょっと顔を洗ってきます」
瞳は席を立って化粧室へと消えていった。
「レイ、あんたひどすぎるんじゃないの?」
他に聞く者などいないというのに、声を潜めて奈央が囁く。
「なにが?」
「断るにしたって、もう少し言い方があるでしょ」
奈央の云いたいことはわかる。だが、こういうのは変に期待させないほうがいいのだ。期待させると話がこじれ、傷つくだけ、と経験から零は知っていた。
「いいんだよ、これで。本人も云っていただろ。未練を断ち切りたかっただけだって。はっきり云われた方が、未練なんて切りやすいのさ」
なにげなく云ったつもりだったが、余計な想いがこもっていたようだ。なにかに気付いた奈央が、思わせぶりな目を向けてくる。
「ひょっとして、経験あり?」
「なんの経験だよ。いっとくが、俺は未練なんて抱いたことはねぇぞ」
強がりだった。永い付き合いの奈央には、バレバレだったらしい。
「はいはい、そういうことにしといてあげる」
憎たらしい口調の奈央。零はなにか言い返してやろうと口を開きかけたが、そのタイミングで瞳が帰ってきた。
「お待たせ。あら、どうかしましたか?」
「別に」
背もたれに深く寄りかかり、零が視線を逸らす。
「では、そろそろ出ましょうか。長くつき合わせても悪いし」
「もう、平気なのか?」
「はい」
零の問いに笑顔が帰ってきた。
会計を済ませて外に出ると、辺りは暗くなり始めていた。
二人とは店先で別れることになったが、その間際に零は瞳に話しかけた。
「周りがどう見ているか知らないが、近くにいる俺に云わせれば、あいつはサイテーな野郎だよ。人の話は聞かないし、軽薄だし、乱暴だし。それでも、良い所がないわけじゃない。心の奥底に潜んだそれに気付けるのは、あいつの彼女ぐらいと思ったが、意外といるもんだ」
通りを行く人達は三人を避けて、忙しなく通り過ぎていく。わざわざ足を止めて自分はなにをやっているのだろうと思ったが、それでも口にせずにはいられない想いがあった。
「あいつの良さに気付いた人間の共通点は、みんな輝いているってことさ。みんな道に迷って俺なんかの所に来るが、帰っていった後でちゃんと自分を取り戻し、眩しい光を放つんだ」
「なによ、それ。みんなって誰のことよ」
奈央が口を挟んでくる。しょうがないので、わかりやすい例を出してやった。
「ほら、今年卒業した先輩にいたろ、真木野って人」
「え!? あの人? あの人って確か、モデルかなんかした人だよね?」
驚いて目を丸くしている。そのくらいの有名人なのだ。零だってその名を知っていたくらい。
「だからさ、自信持っていいぜ。あんたはいい女だ。本気になれば、望むものが手に入るさ」
「今回は手に入らなかったけどね」
「今回は仕方ない。本気じゃなかったからな」
そうなの? と奈央は瞳の方を見た。
「本気なら、俺の所になんか来なかった。真っ直ぐに武内のところに行った筈さ。そうだろ」
「はい。そう思います」
迷いも、悔いもない双眸に、力強い光が宿っていた。
「じゃあ、これでお別れだ。ちょっと、野暮用が出来たんでな」
「ありがとうございました」
瞳の礼を背中に受けて、零が人込みへと去っていった。
「ヒトミ、あんた本当に平気なの?」
奈央が心配そうに瞳を見上げる。
「うん、もう大丈夫。それにしても、レイさんっていい人なんだね。恐い噂が多いから、正直どうしようかと思ってたんだけど」
「あいつはね、理解するのが大変だけど、付き合いやすいいい奴だよ。それにしても、武内ってホントにモテるんだね。真木野先輩も好きだったなんて、ビックリだよ」
「本当にね。真木野先輩って軽音部の人だよね。あの先輩自身かなりモテてたのに」
その一言に奈央の動きが止まった。
「軽音部? あれ、確かレイって一年の時、軽音部の先輩に惚れていなかったっけ」
記憶を探る。確かにそんな話があったはずだ。上手くいかなかった、となにかの時に聞いた気がする。
「え? まさか」
二人の視線が消えていった背中を追う。独りを愛する同級生の姿は、もうどこにもない。
それに比べ、零の着ているブレザーはわりと小洒落たものだった。零の通う森宮高校は、生徒数確保の為に数年前、制服を一新したばかりだ。もっとも、近くに評判の悪い高校が多いために、その成果はあまりあがっていない。
「いい加減懲りないなぁ、お前も。毎度毎度、殴られるために突っかかってきやがって。どんだけマゾなんだよ」
強面の五人に囲まれているというのに、零に怯えた様子はなかった。ズボンのポケットに手を突っ込んだまま、余裕さえ窺える。
「うるせぇぞ! この零点野郎。さんざん調子に乗りやがって。ここが誰のシマかわかってんだろうが。いいか、ここを歩く時はビクつきながら端っこを歩きやがれ。そうでないとどうなるか、いまからたっぷりと叩き込んでやる!」
五人の中央。髪を金色に染めた大男が、凄みのある声を出す。
「木場、今日は調子いいみたいじゃねぇか。五人いれば俺に勝てると思ってんのか?」
通りを行く人の影はない。もともとが人気のない裏通りを選んで向かい合っているわけだし、黒峰の制服を見れば、たいていの人間は違う道を選ぶ。助けに入る者がいないとわかっていても、零の心は揺るがない。
「てめぇ。なに木場さんのこと呼び捨てにしてんだ。このドチビが!」
威勢良くしゃしゃり出てきたのは、木場と呼ばれた男の後ろに控えていた一人だ。確かに零はこの中で一番背が低い。それどころか、自分の通う高校内でも一、二を争う背の低さだ。だが、彼の通う高校でそのことを口にする人間は、限られた数しかいない。よほど親しくなければ、その話題に触れた途端、自分がどうなってしまうのかをみなが理解しているのだ。
この不良も、自分がなにを云ってしまったのかすぐに理解した。股間に走る、強烈な激痛に苦しみながら。
「俺をチビと云うな。俺を見下ろすことも許さん。今度から、俺に会ったら地面に這いつくばって挨拶しろ」
電光石火のその蹴りは、零の性格を良く表していた。喧嘩っ早いうえに、的確に相手の急所をつく情け容赦ない性格を。
「零、てめぇ!」
せっかく連れて来た舎弟を瞬殺され、木場が怒りで身体を震わす。
「木場、子分の躾がなってねぇな。しゃあねぇ。いまから躾けてやるから、忘れるんじゃねぇぞ。俺の前に立つな。俺をチビと呼ぶな。それと、零点野郎と呼ぶな!」
零が前に出た。ポケットから両手を出し、木場に向けてボディーブローを放つ。
かろうじて防げたのはさすがだ。だが、小さな身体からは想像もつかない程の力に、たまらず木場が後退さる。
「てめぇ!」
後ろの三人が動いた。喧嘩慣れしている者の動きだ。顔、腹、足と同時に攻めてきた。
飛び退いて、それを躱す。それから素早く、右端にいる男の側面に廻り込んだ。男は反応出来ていない。
零の膝蹴りもまた強烈だった。わき腹にくらった男は、悶絶してうずくまる。
残りの二人は、怒りで顔を真っ赤にしていた。すぐさま零を殴りたかったろうが、その前にいる仲間が邪魔をしていた。
零にとってはなんでもない障害物だ。屈み込んで身体を震わす男を踏み台に、その身を宙に躍らせる。
跳び蹴りで一人。地についた後の前蹴りで一人。五人いた相手は、瞬く間に木場を残すのみとなった。
「さぁ、木場。覚悟は出来てるだろうな」
「くっ、これで勝ったと思うなよ。俺の高校での目標はな、お前を倒すことなんだからな!」
捨て台詞を言うと同時に吹っ飛んだ。零の手加減なしの一撃は、巨体を数メートル飛ばすほどのものだった。
「マジかよ。そんな面倒くさい目標持つな。まったく、付き合ってらんねぇぜ」
うんざりしたように呟くと、倒れる五人をそのままに、その場を後にする。
放課後は一人で過ごす。別につるむ相手がいないわけじゃないが、零はなにより孤独を愛していた。だから掛けられる声を無視して、一人で街に出てきたのだ。
そういえば、好きな漫画の新刊がそろそろだっけ。
街に出た途端、くだらない連中に絡まれてしまった。気を取り直すために本屋でものぞこうか、と商店街に入った所で再び声を掛けられた。
「ああ、いたいた。もう、レイのこと探したんだよ」
賑やかな声はクラスメートの奈央のものだった。中学からの腐れ縁で、排他的な雰囲気を常に放っている零に対し、物怖じせずに話しかけてくる勇気ある人間の一人だ。
これが別の声なら、零も気にせず無視したに違いない。だが、相手が奈央だと無視した方が話がうるさくなる。仕方なしに足を止め、声の方を振り返る。
そこにいるのは、軽く脱色した髪を肩の辺りまで伸ばした奈央一人ではなかった。艶のある長い黒髪が印象的な、背の高い少女が隣にいた。着ている制服から、同じ学校の同じ二年生であることはわかったが、零の知らない少女である。わりと可愛い少女なので、学内ではそれなりに知られているかもしれないが、零が知る生徒など十人にも満たない。
「ねぇねぇ、ちょっとお茶しない。レイに話があんの」
「おごりか?」
気安い口調で話しかけてくる奈央に対し、零の声は冷やかだ。
「なによ。女性にたかる気?」
「お前の方が金持ちだからな」
一日にすることの大半が、漫画を読むこと、寝ること、喧嘩をすること、で費やされる零に対し、奈央は随分行動的だ。零の知る限りで十以上のバイトを経験しているはずだし、カラオケ行ったりなんだりで、充実した毎日を送っているはずだ。
「とにかく割り勘。そこの喫茶店でいいでしょ」
返事をしていなかったが、お茶することは決定してしまったらしい。すたすたと歩き出してしまった二人の後を、云いかけた言葉を飲み込んでついて行く。
「それで、話ってなんだよ?」
零は紅茶。奈央はオレンジジュース。黒髪の少女はコーヒー、とそれぞれ注文を済ませた所で零が切り出した。
「話があるのはあたしじゃないわ。彼女よ」
奈央が隣の少女に目を向けた。
「彼女のことは知ってる? わけないよね。彼女は篠崎瞳さん、隣のクラスよ。彼女ね、好きな人がいるんだって」
そこまで云って、あとは自分で、と瞳を促す。
「はい、あの、わたし」
緊張しているのだろう。顔を赤くし、うつむき加減で、しどろもどろの口調だ。
「あの、竹内さんのことが好きで、それで」
紹介して欲しいということか。零は竹内の名前を聞いた瞬間に、これがどういう話か理解した。
武内智也は零や奈央と同じクラスだ。背が高く、色々な意味で目立つ男なので、男女ともに人気はある。入学して間もない頃、零と派手な喧嘩をして、それからはなにかとつるむ機会の多い生徒だ。零は認めていないが、あと二人を足して、周りからは仲の良い四人組として認知されている。いや、森宮カルテットとして恐れられているという方が正確か。
そんな関係だけに、武内を紹介して欲しい、と云われることが何度かあった。何故俺に、という疑問を持つことも多いが、それをぶつける度に、なんとなく頼みやすかったから、という納得しかねる返事が返ってきた。別にそれが腹立たしい、という訳ではないが、零は毎回その頼みを断っていた。
今回も同じだ。
運ばれてきた紅茶を一口飲んでから、きっぱりと零は口にした。
「無理。紹介してもいいが、時間の無駄。だってあいつには彼女がいるんだぜ」
武内の目立つ理由の一つがそれだ。彼は一つ年下の彼女を激愛していて、所構わずいちゃついている。破廉恥極まりない、と古い人間なら顔をしかめるだろうが、いまはこれが流行りなんだろう。零にも理解しかねたが、それだけ恋人のことを愛しているわけだから格好いい、と何故か評判だ。そして、そんな評判につられて、零に頼み込む人間が訪れる。
「知ってます。でも、それでも好きなんです」
辛そうな口調。みかねた奈央が口を挟む。
「ちょっと、レイ。そんな冷たい言い方しないでさ、いいじゃない、紹介してあげるぐらい」
「そう思うのなら、自分でしろよ」
「あたしより、あんたの方が仲いいじゃないの」
「だからさ。だから無駄だってわかんの。だいたい、なんで彼女がいる奴好きになるのさ?」
「それは……」
自分でもわからない、と彼女は続けた。気付いたら、好きになっていたのだと。
きっかけは一月前。この近くで黒峰の生徒に絡まれていたところを、助けてもらったことらしい。助けたといっても結果的にそうなっただけで、実際には少し違う。先に黒峰の生徒が、武内の彼女にちょっかいを出していたのだ。それを知った武内が怒り狂い、ちょっかいを出した相手を突き止めたら、たまたまその場に彼女がいた。それだけである。武内が彼女の存在に気付いていたかどうかも怪しい。それは、彼女にもわかっていることだった。
「あの人の瞳に映るのは、きっと恋人だけなんだと思います。それがわかるから、わかっているからこそ、わたしのことも見てもらいたいんです」
独りを好む零だが、人を好きになったことぐらいはある。苦い恋の経験を胸にしまっていたりもする。だから、彼女の気持ちがわからないわけではないのだ。
だが、同時に武内のこともよくわかる。入学以来、好む好まないに関わらず、ずっと共に歩んできた仲だ。恋人との馴れ初めだって知っている。
二人が付き合い始めたのは、去年の夏の終わりだ。高一の男子と中三の女子が付き合うのなんて、普通に考えれば難しくないだろうが、武内の素行の悪さが災いしてか、付き合いだすまでには色々あった。すれ違いが続き、お互いが素直になるまでに、長い時間が掛かった。それを経て結ばれた二人だからこそ、そう簡単には切れない絆で結ばれている。
この辺りの不良なら知らない者はいない話だが、武内がたった一人で三十人からなる暴走族を潰したのは彼女のためだ。恋人のために怒る武内は鬼神に他ならない。零だって、そんな武内に勝てる気はしない。
互いに求め合い、与え合い、深く結ばれているからこそ、あの二人の仲は輝いている。その光に焦がれる者は多いが、結局は手に出来ないものを望んでいるに他ならない。彼らの仲を裂くには、誰であっても役不足なのだ。
「それは恋愛じゃない。憧憬だ。しかも、武内に向けられているんじゃなくて、二人の関係に向けられているだけだ。あいつに紹介した所で、望むものは手に入らない」
「レイ! 云いすぎよ!!」
奈央が声を荒げる。云われた当人は、うつむきながらも、しっかりと受け止めたようだ。
「いいの。平気よ、ナオ。わかっているから。わかっていたことだから」
震える声。頬を伝う一筋の涙。
「そんなの最初から知っていたから。それでも、胸のもやもやが消えずにあなたに相談したの。人に云えばすっきりするかと思ったから。ごめんね。こんなセッティングまでしてもらって。無理だって、知っていた。だから、断ち切りたかったの」
涙を拭う姿が、零の記憶を刺激した。前に見た風景。遠い冬の日。
「おい、見ろよ! 泣いてる女がいるぜ」
粗野な声が店中に響いた。入って来たばかりの男子学生が四人寄ってくる。
「お、ほんとだ。ねぇねぇ、どうしたの彼女。このチビにふられたの。じゃあさ、俺と付き合う?」
着ている紺のブレザーと胸に入った校章が、私立白桜学院の生徒であることを物語っている。黒峰と並ぶ、評判の悪い高校だ。
「黙れ!」
零の恫喝は低く、簡潔であった。四人の顔色が一斉に変わる。ここで大人しく退いておけば良かったものの、自分達の人数と零の体格を見て、優位を信じ込んでしまったのだ。
「なんだ、このチビ!」
無理して虚勢を張る。
「女二人連れているからって調子にのんなよ。泣いてるブスは目障りなんだよ。ととっと連れてよそ行きやがれ」
零は立ち上がった。怒りに燃える双眸に睨まれて、男達がたじろぐ。
「やめてください。別に、あたし平気ですから。こんなとこでレイさんに喧嘩なんかさせては、申し訳ないです」
「そうよ、レイ。やめなさいよ。女連れで喧嘩するなんてサイテーよ」
二人の言葉に渋々と腰を下ろす。
「けっ、なんだよ。やんねぇのかよ。腰抜けが。いいぜ、お前らがいかねぇのなら俺達が出て行くぜ。おい、よそ行こうぜ。ここは臭くてしかたねぇや」
白桜学院の生徒はそう云って出て行った。店員や他の客はここで乱闘が行われなくて、ほっとしている様子だ。
「すいません。迷惑かけちゃいましたね。わたし、ちょっと顔を洗ってきます」
瞳は席を立って化粧室へと消えていった。
「レイ、あんたひどすぎるんじゃないの?」
他に聞く者などいないというのに、声を潜めて奈央が囁く。
「なにが?」
「断るにしたって、もう少し言い方があるでしょ」
奈央の云いたいことはわかる。だが、こういうのは変に期待させないほうがいいのだ。期待させると話がこじれ、傷つくだけ、と経験から零は知っていた。
「いいんだよ、これで。本人も云っていただろ。未練を断ち切りたかっただけだって。はっきり云われた方が、未練なんて切りやすいのさ」
なにげなく云ったつもりだったが、余計な想いがこもっていたようだ。なにかに気付いた奈央が、思わせぶりな目を向けてくる。
「ひょっとして、経験あり?」
「なんの経験だよ。いっとくが、俺は未練なんて抱いたことはねぇぞ」
強がりだった。永い付き合いの奈央には、バレバレだったらしい。
「はいはい、そういうことにしといてあげる」
憎たらしい口調の奈央。零はなにか言い返してやろうと口を開きかけたが、そのタイミングで瞳が帰ってきた。
「お待たせ。あら、どうかしましたか?」
「別に」
背もたれに深く寄りかかり、零が視線を逸らす。
「では、そろそろ出ましょうか。長くつき合わせても悪いし」
「もう、平気なのか?」
「はい」
零の問いに笑顔が帰ってきた。
会計を済ませて外に出ると、辺りは暗くなり始めていた。
二人とは店先で別れることになったが、その間際に零は瞳に話しかけた。
「周りがどう見ているか知らないが、近くにいる俺に云わせれば、あいつはサイテーな野郎だよ。人の話は聞かないし、軽薄だし、乱暴だし。それでも、良い所がないわけじゃない。心の奥底に潜んだそれに気付けるのは、あいつの彼女ぐらいと思ったが、意外といるもんだ」
通りを行く人達は三人を避けて、忙しなく通り過ぎていく。わざわざ足を止めて自分はなにをやっているのだろうと思ったが、それでも口にせずにはいられない想いがあった。
「あいつの良さに気付いた人間の共通点は、みんな輝いているってことさ。みんな道に迷って俺なんかの所に来るが、帰っていった後でちゃんと自分を取り戻し、眩しい光を放つんだ」
「なによ、それ。みんなって誰のことよ」
奈央が口を挟んでくる。しょうがないので、わかりやすい例を出してやった。
「ほら、今年卒業した先輩にいたろ、真木野って人」
「え!? あの人? あの人って確か、モデルかなんかした人だよね?」
驚いて目を丸くしている。そのくらいの有名人なのだ。零だってその名を知っていたくらい。
「だからさ、自信持っていいぜ。あんたはいい女だ。本気になれば、望むものが手に入るさ」
「今回は手に入らなかったけどね」
「今回は仕方ない。本気じゃなかったからな」
そうなの? と奈央は瞳の方を見た。
「本気なら、俺の所になんか来なかった。真っ直ぐに武内のところに行った筈さ。そうだろ」
「はい。そう思います」
迷いも、悔いもない双眸に、力強い光が宿っていた。
「じゃあ、これでお別れだ。ちょっと、野暮用が出来たんでな」
「ありがとうございました」
瞳の礼を背中に受けて、零が人込みへと去っていった。
「ヒトミ、あんた本当に平気なの?」
奈央が心配そうに瞳を見上げる。
「うん、もう大丈夫。それにしても、レイさんっていい人なんだね。恐い噂が多いから、正直どうしようかと思ってたんだけど」
「あいつはね、理解するのが大変だけど、付き合いやすいいい奴だよ。それにしても、武内ってホントにモテるんだね。真木野先輩も好きだったなんて、ビックリだよ」
「本当にね。真木野先輩って軽音部の人だよね。あの先輩自身かなりモテてたのに」
その一言に奈央の動きが止まった。
「軽音部? あれ、確かレイって一年の時、軽音部の先輩に惚れていなかったっけ」
記憶を探る。確かにそんな話があったはずだ。上手くいかなかった、となにかの時に聞いた気がする。
「え? まさか」
二人の視線が消えていった背中を追う。独りを愛する同級生の姿は、もうどこにもない。
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