久住零は変に恥ずかしがり屋なところがある。食事をしているところを見られるのも、見てしまうのも恥ずべき行為と感じている。
学校でも昼食はひとりだ。購買で買うという行為すら人に見られるのを嫌い、毎朝自分で弁当を作り、学校に持っていく。それを人気のないところで食べる。
その隠れっぷりは天才的で、高校に入学してからの一年と三ヶ月、誰にも見つかったことはない。
ただ一度だけ、おせっかいな同級生の女子が零を探しに学校の敷地内を走り回ったときは危なかった。不運に不運が重なって、あとちょっとの所で見つかるところだった。その時は中身が半分残っていた弁当箱をプールの中に投げ捨てるという荒技で回避した。
そんな彼だから、真夜中のコンビニでちょっとした日用品を買った帰り、人通りのなくなった住宅街の路地でそれを目撃したときはびっくりして足を止め、瞬間的に顔を朱くした。
「わ、悪い」
小声で呟き、慌てて目を逸らす。
胸のドキドキが治まらない。急いでこの場を離れたいのに、思うように足が動かない。
まるで他人の情事を目撃してしまった初心な高校生なようだったが、実際に見たものは違う。
それは食事の場面であった。
まだ若い女性。黒を基調としたジャケットにパンツ。一見するとスマートなOL風という感じではあったが、不思議なことにどこかその服は薄汚れている印象があった、アイロンもかけられてなく、よれよれの。
ここ数日家に帰っていないかのようであったが、そんな女性が路上で立ったまま食事をしていた。
基本的なテーブルマナーをひとつも守らず、手掴みでそれを持ち、一心不乱にむしゃぶりついていた。
自らの食欲を隠そうともしないその姿は、零からすれば破廉恥そのもので、同じ場にいることがいたたまれない。
零は無理して一歩を踏み出した。
いま見たものを忘れて、自らの日常に帰ろうとした。
そうはさせじと音が追ってくる。
バリ、ボリ、と骨を咀嚼している音。
ぬちゃ、むちゃ、と肉を食み、ズズ、と血を啜る音。
女性が食しているもの。零があえて目線を逸らし、意識の外に追いやろうとしたものは、明らかに人であった。
血に染まり、辛うじて原形をとどめているぐらいのスーツ。真新しい、零にはよくわからなかったが高そうなブランド物のズボン。街灯の灯りでなお光る黒の革靴。傍らに落ちている、薄型のノート型パソコンなんかが入っていそうな鞄からみて、おそらくそれは男性のサラリーマンかなんかだろう。ほろ酔い気分だったかどうかはしらないが、家路の途中で襲われたのだろう。
無残に引き裂かれていた。肩口から腰の辺りにかけてバックリと。
如何な力がそれを行ったのか、血色の肉の内側から白い骨が覗き、臓物はだらしなく垂れ下がっている。
女性はその死体を特に美味そうというわけでもなく、残すのがもったいないという感じで全てを貪り食おうとしていた。
その瞳に禍々しいほど金色の光を宿し、両手口元は云うに及ばず、胸元と果ては足元を鮮血に染め上げて。
すでに頭部は食べ終わり、左の肩に取り掛かっていた。
常人であれば卒倒しておかしくない光景である。
だが零は思春期の少年よろしく、頬を朱らめて、その場を立ち去ろうとするのみであった。
その足が強く掴まれた。
悲鳴をあげるかと思いきや。零は平然としていた。
視線を向けると、ほっそりとした右手が目に入った。人差し指、中指、小指の三本にゴールド、シルバーの高そうな指輪をはめている。
「お願い。助けて」
すがるような声の主の顔は、少し視線をずらして目に入った。
ずいぶんと派手な化粧をしていたらしいが、それも涙で剥げ落ち、見るも無残な姿となってしまった女性の顔がそこにあった。
先ほどから酔いそうなほど強い血の匂いが零の鼻を刺激していたが、それに負けないほど強烈な香水の匂いをまとっている。着ているものもかなり派手めで、おそらく自身のボディラインにそうとうの自信があるのだろう。それを強調する衣装をまとっていたが、惜しげもなくコンクリートの地面に這い蹲り、零の足を掴んだまま、懇願するような目つきで見上げている。
どこから現われた、と零は一瞬訝しんだが、すぐに先ほど見た光景の端に映っていた女性の存在を思い出した。
と同時に取った行動は、あまりにすげないものだった。
「あっ、いや、そういうの得意じゃないから」
はにかみながらそう告げて、女性の手を引き剥がす。
零にとっていまの状況は、三角関係のもつれに巻き込まれた、ぐらいのものであった。そうであればあの女性が激昂し、鬼女さながらに男を襲っているのも説明がつく。
そうであるなら、それは当事者同士で解決する問題だ。
血なまぐさい騒ぎを起こすのはどうかとも思うが、それをいえば三角関係も零にとってはどうかと思える話だ。
あまり上品とはいえないそういったトラブルは、自分を巻き込まずに解決して欲しい。
「そんな……」
無慈悲な零に向け、悲しそうな女性の声。それを聞く零の鼻を、ツンと刺すような異臭が襲う。血の匂いや香水の香りとは明らかに違うアンモニアの匂い。
考えてみればそれも当然だ。零のように平静でいられる方がどうかしているのだ。この状況に合って、尿を漏らすことなど人として当たり前といえた。
それでも零のうちにあるのは、恥ずかしいという思いだけだった。
こんな見たくもなければ見せたくもない恥部を、まざまざと見せつけられようとは。
仲間が見たら間と非難されるかもしれない。
したければしろ。
零にとってなにより嫌なことは、恥ずかしいことだった。自分や他人の恥部にいつまでも関わっていたくない。人間として最低の行為だとしても、ここは見捨てていく。
引き剥がした手を突き放し、零は歩み去ろうとした。
状況がそれを許さなかった。
いつのまに移動したのか、零の行く手に人喰いの女性が立ち塞がっていたのだ。
それまで大人しくしていた人喰いの女性を、零は見ないように感じないように、あえて意識の外においておいた。だから、その気配が動いたことに気づくことがなかった。
「に……にく、……おと……こ」
吐息と共に漏れる声は掠れ掠れであったが、夜の静寂に消されることなく、零の耳に届いた。
「やれやれ、男であれば誰彼かまわずか。はしたないにも程がある」
零は心底うんざりしたようにぼやく。
「さ……、……ま」
再び洩らす女の姿は、声が零に届くと同時に、霞み如く消え去った。
それを目撃した零と道端にへたり込んでいる女性がはっとする間もなく、人喰い女は零の背後に出現した。まるで獲物を狙う肉食獣のように、爪を立てた右手を振りかざして。
振り下ろされる一撃はまさに必殺。零の頭部はスイカみたいに脆く粉砕され、傍らの這いつくばっている女性の顔に、血と脳漿の雨を降らせる。
かのように見えた。
しかし零は背後に気配を感じると同時に、身を投げ出すように地面を転がり、ぎりぎりで危機を脱出していた。
考えて取った行動ではなく、若いながらも特異な人生を過ごし、その過程で身につけた経験が反射的にそうさせたのだ。
「おまけに問答無用か。まったく、これだから女って奴は」
服の汚れも気にせず地面を転がり、いまだ片膝をついた状態でありながら、とても十七歳とは思えない言葉を零は口にした。
「にが、にが……」
たどたどしい口調を補うかのように、女の行動は迅速だった。
放たれた弾丸の如きスピードで零に迫り、再び死の一撃を。
だが、その死のなんとか弱きことよ。
零にとっては一度躱わした攻撃だ。二度目を躱わすほうが造作ない。
今度は横に転がり、零は女との距離を取った。そこでスクと立ち上がる。
「にが、にが、逃がさないか。言葉もままならぬほどの憎悪にその身を焦がすってのはホント憐れだね。それに巻き込まれた俺も憐れだけど」
恥ずかし屋でありながら堂々と語る。道の端などでなく、脇の街灯に二本に照らされた、夜の闇を感じさせない路上の真ん中で。
まるで街灯をスポットライトに見立てたスターのようだが、本人が意識してのことではない。その内に流れる両親の血がそうさせているのだろう。
「逃がしてくれないなら、俺も立ち向かう。恥ずかしいのは嫌だが、厄介事を引きずるのは、もっと御免だ」
零の右手が静かに上がる。地味な黒ぶち眼鏡の奥の瞳に、妖しげな光が宿る。
ただならぬ雰囲気を察してか、女が前に出た。声ならぬ絶叫を上げ、獣のような獰猛さで。
零は怯むことなく、顔前にかざした指をパチンと鳴らした。
同時に厳かなる声で夜気を震わした。
「払い給え」
女の突進が止まった。自身の意思ではないのか、女が不審そうな顔をしている。いや、苦しみに顔を歪めているのか。
次いで零は左手を垂直に上げた。そしてパチンと夜気を裂く。
「清め給え」
目に見えぬ衝撃が女を襲った。全身を震わし、更なる激痛で苦悶の相を浮かべている。
「う……、うが……」
女の自由は完全に奪われていた。のた打ち回ることも出来ず、痛みに声をあげることも出来ない状態で、女は必死になって耐え続けていた。見ている者が先に悶死してしまいそうなほどの形相で、それでも諦めきれず、果てには目から血を流しながらも持ち堪えていた。
「驚いた。あなたの執着はそれ程なんだ。いっそ捨ててしまえば楽だろうに。捨て去ることは出来ないんだね」
零の声に寂しさの翳が降りた。目の前にあるのは初めて見る光景ではない。であるからこそ、寂寥が拭えない。
そんな零を前に、女はこの世のものとは思えぬ絶叫を上げた。その波動は世界の隅々まで行き渡り、夜の全てを破壊してしまうかのようだった。
「やはり、そうなるか」
咆哮とも呼べる叫びと共に、女は自由を取り戻していた。奪還した四肢の感触を確かめるように軽く動かした後、金色の瞳で零を射抜いく。
その視線に込められた意味を、零は正確に理解した。
本音を云えば、望むことではない。こんな場所で、目撃者もいるような状況で、大立ち回りは恥ずかしすぎる。
だが、すでに巻き込まれてしまった。事がきちんと片付かないというのも嫌だし、禍根が大きくなり、面倒事が増えるのも嫌だ。なにより、女に寂しさを感じてしまった。それは喉に刺さる魚の小骨のように、零の日常に微かな痛みを与え続けるだろう。
自分には力がある。全てを断ち切る力。痛みを昇華させる力。
零はそのことを自覚している。その意味も使う時も理解している。
そして、零には覚悟がある。
恥ずかしさを推して、力を行使する覚悟がある。
女の視線にこもるのは決意だ。
いまここで零を打ち滅ぼそうという断固たる決意だ。
逃げられぬ。逃げたくはない。
であるならば、応えるほかはない。
禍々しき金色に負けない強い光を瞳に宿し、零の両手が上がった。
女の重心が下がり、力を蓄えているのがわかった。
両者共に準備万端。
次の一撃で雌雄を決する。
そこに横槍が入った。
閑散とした真夜中の住宅街。人通りの絶えたかに見えた路地も、零がそうであったようにまだまだ家路にもちいる者もいる。
遠くから近づく人の気配に気づいたのは、両者同時であった。
女が殺気を解いた。いまさら人の目を気にするようにも見えなかったが、機を逸したというのが察せられたのだろう。
たどたどしくも小さく吐き出し、まるで忍者のように建物の屋根を飛び跳ねて、夜の闇に消えていった。
同じように去り時だというのは零にもわかったから、ゴタゴタしている間にいつの間にか落としていたコンビニ袋を掴み、その場を後にしようとした。
そうしながらも気になるのは、最後に女が残した言葉。
『わ……れな……、サ……ヤマ……ユウゴ』
名前の部分だけにやけにはっきりしていた。
――誰だよ、サヤマユウゴって。
とは思ったが、当然答えなどある筈がなく、零はいつになく足を早く動かす。
頭で別のことを考えていても、身体は本能が動かしてくれる。地面に付いた血の後などから、後の歩行者がそれなりの騒ぎを起こすだろうが、知ったことではない。零にとって、自分が巻き込まれなければ後はどうでも良いのだ。
あくまで自分本位。そんな零が足を止めた。とても重要なことを忘れていることに気づいたのだ。
駆け足で現場に戻り、思った通り放心から目覚めつつある犠牲者の片割れである女性に近寄った。
「云い忘れてたけど、いまのことは綺麗さっぱり忘れてね。よろしく」
最後に軽く指を鳴らし、零は今度こそ本当に夜の闇に消えて行った。
学校でも昼食はひとりだ。購買で買うという行為すら人に見られるのを嫌い、毎朝自分で弁当を作り、学校に持っていく。それを人気のないところで食べる。
その隠れっぷりは天才的で、高校に入学してからの一年と三ヶ月、誰にも見つかったことはない。
ただ一度だけ、おせっかいな同級生の女子が零を探しに学校の敷地内を走り回ったときは危なかった。不運に不運が重なって、あとちょっとの所で見つかるところだった。その時は中身が半分残っていた弁当箱をプールの中に投げ捨てるという荒技で回避した。
そんな彼だから、真夜中のコンビニでちょっとした日用品を買った帰り、人通りのなくなった住宅街の路地でそれを目撃したときはびっくりして足を止め、瞬間的に顔を朱くした。
「わ、悪い」
小声で呟き、慌てて目を逸らす。
胸のドキドキが治まらない。急いでこの場を離れたいのに、思うように足が動かない。
まるで他人の情事を目撃してしまった初心な高校生なようだったが、実際に見たものは違う。
それは食事の場面であった。
まだ若い女性。黒を基調としたジャケットにパンツ。一見するとスマートなOL風という感じではあったが、不思議なことにどこかその服は薄汚れている印象があった、アイロンもかけられてなく、よれよれの。
ここ数日家に帰っていないかのようであったが、そんな女性が路上で立ったまま食事をしていた。
基本的なテーブルマナーをひとつも守らず、手掴みでそれを持ち、一心不乱にむしゃぶりついていた。
自らの食欲を隠そうともしないその姿は、零からすれば破廉恥そのもので、同じ場にいることがいたたまれない。
零は無理して一歩を踏み出した。
いま見たものを忘れて、自らの日常に帰ろうとした。
そうはさせじと音が追ってくる。
バリ、ボリ、と骨を咀嚼している音。
ぬちゃ、むちゃ、と肉を食み、ズズ、と血を啜る音。
女性が食しているもの。零があえて目線を逸らし、意識の外に追いやろうとしたものは、明らかに人であった。
血に染まり、辛うじて原形をとどめているぐらいのスーツ。真新しい、零にはよくわからなかったが高そうなブランド物のズボン。街灯の灯りでなお光る黒の革靴。傍らに落ちている、薄型のノート型パソコンなんかが入っていそうな鞄からみて、おそらくそれは男性のサラリーマンかなんかだろう。ほろ酔い気分だったかどうかはしらないが、家路の途中で襲われたのだろう。
無残に引き裂かれていた。肩口から腰の辺りにかけてバックリと。
如何な力がそれを行ったのか、血色の肉の内側から白い骨が覗き、臓物はだらしなく垂れ下がっている。
女性はその死体を特に美味そうというわけでもなく、残すのがもったいないという感じで全てを貪り食おうとしていた。
その瞳に禍々しいほど金色の光を宿し、両手口元は云うに及ばず、胸元と果ては足元を鮮血に染め上げて。
すでに頭部は食べ終わり、左の肩に取り掛かっていた。
常人であれば卒倒しておかしくない光景である。
だが零は思春期の少年よろしく、頬を朱らめて、その場を立ち去ろうとするのみであった。
その足が強く掴まれた。
悲鳴をあげるかと思いきや。零は平然としていた。
視線を向けると、ほっそりとした右手が目に入った。人差し指、中指、小指の三本にゴールド、シルバーの高そうな指輪をはめている。
「お願い。助けて」
すがるような声の主の顔は、少し視線をずらして目に入った。
ずいぶんと派手な化粧をしていたらしいが、それも涙で剥げ落ち、見るも無残な姿となってしまった女性の顔がそこにあった。
先ほどから酔いそうなほど強い血の匂いが零の鼻を刺激していたが、それに負けないほど強烈な香水の匂いをまとっている。着ているものもかなり派手めで、おそらく自身のボディラインにそうとうの自信があるのだろう。それを強調する衣装をまとっていたが、惜しげもなくコンクリートの地面に這い蹲り、零の足を掴んだまま、懇願するような目つきで見上げている。
どこから現われた、と零は一瞬訝しんだが、すぐに先ほど見た光景の端に映っていた女性の存在を思い出した。
と同時に取った行動は、あまりにすげないものだった。
「あっ、いや、そういうの得意じゃないから」
はにかみながらそう告げて、女性の手を引き剥がす。
零にとっていまの状況は、三角関係のもつれに巻き込まれた、ぐらいのものであった。そうであればあの女性が激昂し、鬼女さながらに男を襲っているのも説明がつく。
そうであるなら、それは当事者同士で解決する問題だ。
血なまぐさい騒ぎを起こすのはどうかとも思うが、それをいえば三角関係も零にとってはどうかと思える話だ。
あまり上品とはいえないそういったトラブルは、自分を巻き込まずに解決して欲しい。
「そんな……」
無慈悲な零に向け、悲しそうな女性の声。それを聞く零の鼻を、ツンと刺すような異臭が襲う。血の匂いや香水の香りとは明らかに違うアンモニアの匂い。
考えてみればそれも当然だ。零のように平静でいられる方がどうかしているのだ。この状況に合って、尿を漏らすことなど人として当たり前といえた。
それでも零のうちにあるのは、恥ずかしいという思いだけだった。
こんな見たくもなければ見せたくもない恥部を、まざまざと見せつけられようとは。
仲間が見たら間と非難されるかもしれない。
したければしろ。
零にとってなにより嫌なことは、恥ずかしいことだった。自分や他人の恥部にいつまでも関わっていたくない。人間として最低の行為だとしても、ここは見捨てていく。
引き剥がした手を突き放し、零は歩み去ろうとした。
状況がそれを許さなかった。
いつのまに移動したのか、零の行く手に人喰いの女性が立ち塞がっていたのだ。
それまで大人しくしていた人喰いの女性を、零は見ないように感じないように、あえて意識の外においておいた。だから、その気配が動いたことに気づくことがなかった。
「に……にく、……おと……こ」
吐息と共に漏れる声は掠れ掠れであったが、夜の静寂に消されることなく、零の耳に届いた。
「やれやれ、男であれば誰彼かまわずか。はしたないにも程がある」
零は心底うんざりしたようにぼやく。
「さ……、……ま」
再び洩らす女の姿は、声が零に届くと同時に、霞み如く消え去った。
それを目撃した零と道端にへたり込んでいる女性がはっとする間もなく、人喰い女は零の背後に出現した。まるで獲物を狙う肉食獣のように、爪を立てた右手を振りかざして。
振り下ろされる一撃はまさに必殺。零の頭部はスイカみたいに脆く粉砕され、傍らの這いつくばっている女性の顔に、血と脳漿の雨を降らせる。
かのように見えた。
しかし零は背後に気配を感じると同時に、身を投げ出すように地面を転がり、ぎりぎりで危機を脱出していた。
考えて取った行動ではなく、若いながらも特異な人生を過ごし、その過程で身につけた経験が反射的にそうさせたのだ。
「おまけに問答無用か。まったく、これだから女って奴は」
服の汚れも気にせず地面を転がり、いまだ片膝をついた状態でありながら、とても十七歳とは思えない言葉を零は口にした。
「にが、にが……」
たどたどしい口調を補うかのように、女の行動は迅速だった。
放たれた弾丸の如きスピードで零に迫り、再び死の一撃を。
だが、その死のなんとか弱きことよ。
零にとっては一度躱わした攻撃だ。二度目を躱わすほうが造作ない。
今度は横に転がり、零は女との距離を取った。そこでスクと立ち上がる。
「にが、にが、逃がさないか。言葉もままならぬほどの憎悪にその身を焦がすってのはホント憐れだね。それに巻き込まれた俺も憐れだけど」
恥ずかし屋でありながら堂々と語る。道の端などでなく、脇の街灯に二本に照らされた、夜の闇を感じさせない路上の真ん中で。
まるで街灯をスポットライトに見立てたスターのようだが、本人が意識してのことではない。その内に流れる両親の血がそうさせているのだろう。
「逃がしてくれないなら、俺も立ち向かう。恥ずかしいのは嫌だが、厄介事を引きずるのは、もっと御免だ」
零の右手が静かに上がる。地味な黒ぶち眼鏡の奥の瞳に、妖しげな光が宿る。
ただならぬ雰囲気を察してか、女が前に出た。声ならぬ絶叫を上げ、獣のような獰猛さで。
零は怯むことなく、顔前にかざした指をパチンと鳴らした。
同時に厳かなる声で夜気を震わした。
「払い給え」
女の突進が止まった。自身の意思ではないのか、女が不審そうな顔をしている。いや、苦しみに顔を歪めているのか。
次いで零は左手を垂直に上げた。そしてパチンと夜気を裂く。
「清め給え」
目に見えぬ衝撃が女を襲った。全身を震わし、更なる激痛で苦悶の相を浮かべている。
「う……、うが……」
女の自由は完全に奪われていた。のた打ち回ることも出来ず、痛みに声をあげることも出来ない状態で、女は必死になって耐え続けていた。見ている者が先に悶死してしまいそうなほどの形相で、それでも諦めきれず、果てには目から血を流しながらも持ち堪えていた。
「驚いた。あなたの執着はそれ程なんだ。いっそ捨ててしまえば楽だろうに。捨て去ることは出来ないんだね」
零の声に寂しさの翳が降りた。目の前にあるのは初めて見る光景ではない。であるからこそ、寂寥が拭えない。
そんな零を前に、女はこの世のものとは思えぬ絶叫を上げた。その波動は世界の隅々まで行き渡り、夜の全てを破壊してしまうかのようだった。
「やはり、そうなるか」
咆哮とも呼べる叫びと共に、女は自由を取り戻していた。奪還した四肢の感触を確かめるように軽く動かした後、金色の瞳で零を射抜いく。
その視線に込められた意味を、零は正確に理解した。
本音を云えば、望むことではない。こんな場所で、目撃者もいるような状況で、大立ち回りは恥ずかしすぎる。
だが、すでに巻き込まれてしまった。事がきちんと片付かないというのも嫌だし、禍根が大きくなり、面倒事が増えるのも嫌だ。なにより、女に寂しさを感じてしまった。それは喉に刺さる魚の小骨のように、零の日常に微かな痛みを与え続けるだろう。
自分には力がある。全てを断ち切る力。痛みを昇華させる力。
零はそのことを自覚している。その意味も使う時も理解している。
そして、零には覚悟がある。
恥ずかしさを推して、力を行使する覚悟がある。
女の視線にこもるのは決意だ。
いまここで零を打ち滅ぼそうという断固たる決意だ。
逃げられぬ。逃げたくはない。
であるならば、応えるほかはない。
禍々しき金色に負けない強い光を瞳に宿し、零の両手が上がった。
女の重心が下がり、力を蓄えているのがわかった。
両者共に準備万端。
次の一撃で雌雄を決する。
そこに横槍が入った。
閑散とした真夜中の住宅街。人通りの絶えたかに見えた路地も、零がそうであったようにまだまだ家路にもちいる者もいる。
遠くから近づく人の気配に気づいたのは、両者同時であった。
女が殺気を解いた。いまさら人の目を気にするようにも見えなかったが、機を逸したというのが察せられたのだろう。
たどたどしくも小さく吐き出し、まるで忍者のように建物の屋根を飛び跳ねて、夜の闇に消えていった。
同じように去り時だというのは零にもわかったから、ゴタゴタしている間にいつの間にか落としていたコンビニ袋を掴み、その場を後にしようとした。
そうしながらも気になるのは、最後に女が残した言葉。
『わ……れな……、サ……ヤマ……ユウゴ』
名前の部分だけにやけにはっきりしていた。
――誰だよ、サヤマユウゴって。
とは思ったが、当然答えなどある筈がなく、零はいつになく足を早く動かす。
頭で別のことを考えていても、身体は本能が動かしてくれる。地面に付いた血の後などから、後の歩行者がそれなりの騒ぎを起こすだろうが、知ったことではない。零にとって、自分が巻き込まれなければ後はどうでも良いのだ。
あくまで自分本位。そんな零が足を止めた。とても重要なことを忘れていることに気づいたのだ。
駆け足で現場に戻り、思った通り放心から目覚めつつある犠牲者の片割れである女性に近寄った。
「云い忘れてたけど、いまのことは綺麗さっぱり忘れてね。よろしく」
最後に軽く指を鳴らし、零は今度こそ本当に夜の闇に消えて行った。
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