ソチオリンピックの選手の活躍もそうですし、色んな場面で最近「感動をありがとう」という言葉を見かけるのですが、どうしてもその言葉に違和感がありました。
ありがとうと感謝すること自体は素晴らしいと思います。
また、選手のパフォーマンスを見て感動したこともウソじゃない。
でも、その二つが私の中でどうしても結びつかないんですよね。
日本の文化では、「いただきます」というように、相手が見えなくても、相手が自分個人を意識していなくても、感謝するという精神性があると思いますが、それとも何か違う気がします。
ここ数日、時々このことを自分の中で蒸し返して考えてるのですが、答えは見つからず。
一つだけ、もしかして。。。と思うのは、感動することに飢えてる人たちが、何か感動できそうなものを探してて、上手いこと感動できるものに出会えたときに「ありがとう!」って言ってるかのような。
どこか自分が、多くの人たちが発する「ありがとう!」のウラに、感動するということに対する飢餓感を感じてしまうからかも知れません。
それが、スポーツをする側のストイックさ、純粋さと相容れないものを感じるからなのかなぁ。
もらい泣きして、ありがとうってあまり聞かないですしね。
何か変なの。
ありがとうと感謝すること自体は素晴らしいと思います。
また、選手のパフォーマンスを見て感動したこともウソじゃない。
でも、その二つが私の中でどうしても結びつかないんですよね。
日本の文化では、「いただきます」というように、相手が見えなくても、相手が自分個人を意識していなくても、感謝するという精神性があると思いますが、それとも何か違う気がします。
ここ数日、時々このことを自分の中で蒸し返して考えてるのですが、答えは見つからず。
一つだけ、もしかして。。。と思うのは、感動することに飢えてる人たちが、何か感動できそうなものを探してて、上手いこと感動できるものに出会えたときに「ありがとう!」って言ってるかのような。
どこか自分が、多くの人たちが発する「ありがとう!」のウラに、感動するということに対する飢餓感を感じてしまうからかも知れません。
それが、スポーツをする側のストイックさ、純粋さと相容れないものを感じるからなのかなぁ。
もらい泣きして、ありがとうってあまり聞かないですしね。
何か変なの。