離婚&再婚に関するカトリック教会の教義については過去ブログに記載したとおりで、先日、主任司祭とは、教会を転籍するときに名字をどうすべきか話しをしていたところでした。
(過去の記事はコチラ→(その1)→(その2)→(その3)
司祭との面談後、色々と考えた末、私は教会とは距離を置くことにしました。
カトリックの教義からすると、私の方こそ破門に値するのかもしれませんが。
そして、次回の面談のキャンセルをお願いするため、司祭へは手紙を書いて送ることにしました。
長文ですが、こんな感じです。
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お伺いしました際には、A教会から自宅最寄りの教会(B教会)への移籍に伴って、離婚、再婚による氏名の変更の取扱い(旧姓:C、婚姻時:D、現在:E)についてお調べいただけるようお願いしているところでしたが、あれから諸々検討いたしまして、教会の籍はそのままにしておきたくご連絡致しました。
現状、カトリック教会における婚姻が有効であり、現在、再婚しているという状況から、カトリック教会の教義に照らし、聖体拝領等の秘跡にあずかることはできないという事は厳然たる事実であり、それを知ってしまった以上、知らなかった事にはできないと思っています。
教会としては、それでも教会共同体へ参加する意義はあるという考えのようですが、現実としてミサに参加した際に、聖体拝領せずに黙って座っているということがどういう事を引き起こすか申し上げるまでもないと思います。
また、そのような状況であり今後もその状況が変わる事がない以上、私にとって教会に行く事には何ら意味を見いだせないというのが結論です。
もちろん「教会に行く義務がある」という考えがあるのかもしれませんが、それについては、私はあえてNoという立場を取らせていただきます。
教会がこれまで一貫して守ってきた掟に対して私は何も申し上げることはありませんし、神の御旨はそのような形で示されることと理解しています。
また、本件のようなケースに対し、教会は非常に難しい立場であることもよくわかります。
このような中で個人としてどのような態度を取ればいいのかという「正解」は先ほど申し上げたとおり、教会に参加し続けるということなのかもしれません。
しかしそれは当人にとって決して赦しの場ではありません。
むしろ決してこの世では赦されることがないことを実感しに行く場となるのではないでしょうか。
私は今の状況でも十分神の恵みをいただいておりますし、最後まで神に希望を置いています。神の憐れみを疑うことはできません。
「神は生かすかたです」という言葉は、私が以前修道生活を考え霊的指導を受けていたときに、某修道会にいらっしゃった神父様からいただいた言葉です。
そのお言葉のとおり、教会に行き、秘跡にあずかることは神の恵みの一つであって、恵みは決してそれだけにとどまらず、柵の外でウロウロしている羊に対しても柵の中の羊と同じように日々の恵みを与えてくれることでしょう。
このようなことから、一方的なお話で大変申し訳ありませんが、次回の面談のお約束はキャンセルさせていただけると有り難く存じます。
寒い日が続きますが、心身共にご自愛ください。
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聖書の中で、イエスがどのようなことを一貫して言っておられたのか。
徴税人、売春婦、罪人と一緒に食事をし、それを非難する人たちに厳しい言葉を向けていたイエスは、今この時代におられたなら何と言うでしょう。
教会の掟を守れる人だけが秘跡にあずかれるとするなら、誰が秘跡にあずかれるのでしょうか。正しい人はどこにいるのでしょうか。
「私は秘跡にあずかる資格がある」と思っている人こそ、福音書の中でイエスが非難していた人々ではなかったでしょうか。
私が言える立場ではないですが(笑)
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司祭との面談後、色々と考えた末、私は教会とは距離を置くことにしました。
カトリックの教義からすると、私の方こそ破門に値するのかもしれませんが。
そして、次回の面談のキャンセルをお願いするため、司祭へは手紙を書いて送ることにしました。
長文ですが、こんな感じです。
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お伺いしました際には、A教会から自宅最寄りの教会(B教会)への移籍に伴って、離婚、再婚による氏名の変更の取扱い(旧姓:C、婚姻時:D、現在:E)についてお調べいただけるようお願いしているところでしたが、あれから諸々検討いたしまして、教会の籍はそのままにしておきたくご連絡致しました。
現状、カトリック教会における婚姻が有効であり、現在、再婚しているという状況から、カトリック教会の教義に照らし、聖体拝領等の秘跡にあずかることはできないという事は厳然たる事実であり、それを知ってしまった以上、知らなかった事にはできないと思っています。
教会としては、それでも教会共同体へ参加する意義はあるという考えのようですが、現実としてミサに参加した際に、聖体拝領せずに黙って座っているということがどういう事を引き起こすか申し上げるまでもないと思います。
また、そのような状況であり今後もその状況が変わる事がない以上、私にとって教会に行く事には何ら意味を見いだせないというのが結論です。
もちろん「教会に行く義務がある」という考えがあるのかもしれませんが、それについては、私はあえてNoという立場を取らせていただきます。
教会がこれまで一貫して守ってきた掟に対して私は何も申し上げることはありませんし、神の御旨はそのような形で示されることと理解しています。
また、本件のようなケースに対し、教会は非常に難しい立場であることもよくわかります。
このような中で個人としてどのような態度を取ればいいのかという「正解」は先ほど申し上げたとおり、教会に参加し続けるということなのかもしれません。
しかしそれは当人にとって決して赦しの場ではありません。
むしろ決してこの世では赦されることがないことを実感しに行く場となるのではないでしょうか。
私は今の状況でも十分神の恵みをいただいておりますし、最後まで神に希望を置いています。神の憐れみを疑うことはできません。
「神は生かすかたです」という言葉は、私が以前修道生活を考え霊的指導を受けていたときに、某修道会にいらっしゃった神父様からいただいた言葉です。
そのお言葉のとおり、教会に行き、秘跡にあずかることは神の恵みの一つであって、恵みは決してそれだけにとどまらず、柵の外でウロウロしている羊に対しても柵の中の羊と同じように日々の恵みを与えてくれることでしょう。
このようなことから、一方的なお話で大変申し訳ありませんが、次回の面談のお約束はキャンセルさせていただけると有り難く存じます。
寒い日が続きますが、心身共にご自愛ください。
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聖書の中で、イエスがどのようなことを一貫して言っておられたのか。
徴税人、売春婦、罪人と一緒に食事をし、それを非難する人たちに厳しい言葉を向けていたイエスは、今この時代におられたなら何と言うでしょう。
教会の掟を守れる人だけが秘跡にあずかれるとするなら、誰が秘跡にあずかれるのでしょうか。正しい人はどこにいるのでしょうか。
「私は秘跡にあずかる資格がある」と思っている人こそ、福音書の中でイエスが非難していた人々ではなかったでしょうか。
私が言える立場ではないですが(笑)