三日月ノート

日々の出来事を気ままに。

自転車:チーム練・・・キツかった。。。

2013年05月12日 18時02分50秒 | 自転車
本日のチーム練はチーム員5名、ビジターさん2名で宮ヶ瀬方面へ。

自転車の練習を再開してから1カ月ちょっと。
半年のブランクはなかなか埋められそうにありませんが、少しずつでも取り戻せているようなので精進あるのみですね。

今日も基本はツキイチで。
なにしろ千切れないでついていくことが目標です。
時々、前に出られそうな時や、出ないとイカン並びのときは頑張って出ましたが、やはり持続力がないです。

帰ってきてGARMINのデータを見ると、心拍が90%あたりだと続くのですが、93%以上になるとダメのようです。
心肺機能もまだ以前のようには戻っていないということですね

行きの宮ヶ瀬T字路の手前の上りでは、オエッとなる寸前
もうちょっとだったのですが・・・なかなか追い込めないもんですね。

途中休憩はいつものパン屋さんで。
なんだか食欲がなかったので、ドリンクのみ補給しました。

普通に先頭交代に加われるようになるまで、あとどのくらいかかるかなぁ。
やっぱり切れるの覚悟で入ったほうがいいのかな。

帰宅後は残った体力をふり絞って洗濯。
お昼の食器はそのままでゴロゴロ。
頭が痛いのでいつもの頭痛薬を服用。

気温が高くなると頭痛がしてくることが多いので、これからはツライ季節です・・・



映画:冷血

2013年05月11日 17時02分06秒 | 映画
製作:1967年
製作国:アメリカ
原題:IN COLD BLOOD

カンサス州で起きた一家惨殺事件。犯人は犯罪歴のある2人の若者で、彼らの育った家庭環境を交えながら犯行の詳細が語られていきます。
この映画では「犯行の詳細」は語られますが、それは「動機」ではなく、何故犯行に至ったのかは観る者の想像に任せられています。

最近、私は「こちら側に属する人間」と「あちら側に属する人間」ということについて考えたりしています。

例えばこの映画において犯人の二人を「あちら側に属する人間」とするなら、警察官、被害者、被害者を取り巻く人々、陪審員や検察官などは「こちら側に属する人間」で、こちら側の人間には「なぜこんなに残酷な犯罪を犯したのか“理解できない”」のです。

一般的には、

「被害者心理を考えると許されるべきものではなく、極刑は当然」
「育った家庭環境から同情すべきものもあるかもしれないが、理由にはならない」
「正義によって裁かれるべき」

といった感じでしょうか。

通常「こちら側」の人間にとって「あちら側」の人間は忌むべき者であり、自分とは違う世界の人間だと「なんとなく」思っています。

・・・果たしてそうなのでしょうか。

映画の中で、犯人の二人が、偶然ヒッチハイクで乗せた老人と少年と楽しく過ごすシーンがあります。
普通の優しい心を持ちながら、凶悪な犯罪を犯す二人。
これを「犯人の持つ二面性」と断じていいのでしょうか。

目を背けたくなるほどの残虐性は、ごく一部の「あちら側」の人間にしか存在しないのでしょうか。

人間の世界では、正義に基づき、法によって裁かれることが当たり前であり、それ以外に方法はありません。
映画では、法廷で旧約聖書を引用して「正義によって裁かれるべきである」と声高に訴えているシーンが象徴するとおりです。

しかし一方で死刑執行の直前に「ここにも神はいるのか?」と問いかけたときの「神」は旧約聖書(ユダヤ教)の神ではなく新約聖書(キリスト教)の神であり、「律法によって罰する神」ではなく「死の直前に悔い改めることで魂は救われる神」です。

死刑台に上る前に、「謝りたいんだ。でも誰に謝ったらいいのかわからない」と言いますが、それは特定された「誰か」ではなく、自分自身を含め、自分の良心に反した行いをした全ての人・物事に対してのように思います。

人間は、人間の信じる「正義」によって、正当に裁かれます。それが人間のできる最大限のことです。

しかし、それは死後における神の審判とは全く異なるものであり、「本当の裁き」は、真実を全て知ることができる神のみができることと言えるでしょう。

自分の心の中にある残虐性、それを見ようとしない心理、物事を見る角度によって変わる判断、決して真実に到達できない人間の限界。
そんなことを考えさせられる映画でした。

死刑執行を待つ間、窓ガラスに滴り落ちる雨が犯人の顔に陰影を作り、あたかも涙のように見えるシーンは秀逸でした。



パッとしない日々

2013年05月10日 15時34分46秒 | 転職活動
ここ数日、なんだかエネルギーが枯渇している気がします。
イマイチ何に対してもヤル気が出ないというか。

色んなことが重なってモヤモヤしてるからなんだろうなぁ。


そうこうしているうちに、6月から8月末までの派遣の仕事が決まりました。
コールセンターでの修理受付です

15:00~20:00の勤務なので、午前中はゆっくりできます
ただ、5月の最終週に1週間の研修があり、実質今月末からの勤務になるのですが、その期間だけは午前&午後通しですが・・・。

それと、勤務場所が駅から徒歩15分以上かかる場所なので、ママチャリで通うことにしました。
自宅からは6kmくらいなので、そのほうが早いし交通費もかからないので。

先日の職場見学と称する集まりでは、30代後半~40代と思われる女性が10数名来ていましたが、勤務は5時間ぶっ続けなので、面倒なつきあいもなく契約期間終了を迎えそうです。

さて、気分転換にローラーでもブン回してこようかな。



ホラーにトライ:Night of the Living Dead

2013年05月09日 13時53分29秒 | 映画
ホラー映画はあまり見ないジャンルなのですが、自分の知らない分野には新しい発見があったりするもので、今回はホラー入門編として友人から紹介してもらった映画を見てみました。

『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(原題: Night of the Living Dead)(1968年、アメリカ)

一言で言ってしまえば、死んだ人間が生き返って、生きた人間を殺して食べるというゾンビ映画なのですが、何故か「自分の身に起きてもおかしくないのでは?」という錯覚を起こさせる映画でした。

また、単純なストーリーの中で、人間のエゴや保身などがまざまざと浮き彫りにされていて、単なる「ゾンビ映画」ではなくなっています。

一軒家に逃げ込んだ男女6人(うち子供1人)が立てこもり、周囲を取り囲むゾンビからあの手この手で身を守ろうとするのですが、それと同時に、同じ屋根の下にいる者同士が見せる極限状態の人間性もまた、観る者の心に緊張感を与えてゆきます。

その閉ざされた空間に追い詰められた中で、かろうじてラジオやTVによって客観的に自分たちの置かれている状況を知るという部分は、ほんの少しでも外界と接触することは、生きる力を持ちこたえさせるために重要なんだなぁと再認識させられました。

ラストシーンですが・・・。
普通なら、「やった!助けが来た!!助かった~!!」と、ホッと安堵の溜息とともに「The END」となりそうなところですが、「そう来たか・・・」という終わりかた。
個人的には良かったです。

死んだ人間がどうして生き返ってしまったのかという理由、それを隠ぺいしようとする部分なども出てきたり、細部まで手を抜かない丁寧な作りは、洋画・邦画問わず、この時代の映画のいいところだなぁと思います。

・・・一つだけ後悔したのは、ゾンビたちが人肉をむさぼり喰うシーンのときに、ちょうどゴハンを食べていたということ。
サスガにいい気持ちはしませんでした。。。(逆に言うと、それもまたリアルだったということでしょうか・・・)


有閑マダム的休日?

2013年05月08日 16時38分45秒 | よしなしごと
本日はパステル画の体験クラスへ行ってきました。
最近色々と面倒な?日々が続いていたので、自転車仲間のもかさんが誘ってくれたのでした。


約2時間で、2枚描きました。
向かって左2枚が私、真ん中の2枚がもかさん、右側が先生の作品です。

パステルを茶こしで細かくして画用紙に指で塗っていくという作業は、水彩画や油絵、色鉛筆画とも全く違う技法でとっても新鮮でした。

最初は「できるかな・・・」と不安でしたが、テーマに沿って順序良く一緒に仕上げていくので、素人の私でもなんとか形になりました

以前から、気持ちがモヤモヤしているときには絵を描くとスッキリすることがあったのですが、やはり色彩には自分の気持ちを顕したり修復する作用があるようです。

その後、3人で近くのお店でランチ。
グラタン、ケーキ、珈琲のセットを注文したのですが、ケーキは絶品でした。


コーヒーカップ&ソーサーも上品ですが、スプーンの形にとても惹かれました。

お水のグラスも薄手のガラスでできていて、質の良さを感じさせるものでした。
たいてい、喫茶店やカフェで出てくるお水のグラスは、厚手で耐久性のあるものを使っているお店が多いですが、こういう部分に気を使っているお店は素敵だと思います。

というわけで、本日はパステル画教室、デザート付きランチと、(いつもとは全く違う)贅沢な時間を過ごしてしまいました。

【参考】
アトリエ花水木(Kako先生)
炭火焙煎珈琲と自家製ケーキ 珈琲屋ぼんねっと