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內田百閒(うちだ ひゃっけん) 1889/M22-1971/S46 小説家・随筆家
【「エライ人を斬る」】は次の3部構成から成る ()内は人数
Ⅰエライ人を斬る(12) Ⅱ公開書簡(7) Ⅲべらんめ時評(10)
今日は、「べらんめえ時評」から「芸術院会員辞退事件・百鬼園先生に脱帽」
"内田百閒先生が芸術院会員を断わった。近頃胸のすく痛快事。
辞退理由が'イヤだからイヤ'と簡単明瞭、ヘソ曲がりに徹して小気味よい。
勲章・表彰・ナントカ大賞・・・名誉と権威から文芸は超越すべきであろう。
それがペンを持って立つ者の'志'でなければならない。
動脈硬化、脳味噌軟化した爺サマが、犬の首飾りぶら下げるはコッケイ。"
"ウチの息子が、'芸術院ってどこにあるの'と訊く。
'昔はエライ芸術家だった人が、トシとってから入るところだ'
'養老院みたいなところ?’ '場所じゃない。資格をもうんだな'
'それじゃ、つまんないでしょ。誰も入らないね'
'ところが、みんな入りたがるんだな' ’どうして?’ '早く寝ろ!'・・・”
・・・労氏の記述は以下省略して百閒先生作品のYoutube朗読にリンク・・・
(動画中に出て来る出隆ーいでたかしーは哲学者)
▶1975/S50年 45歳
・「沖縄ーうた・祭り・放浪芸」取材録音に沖縄へ
・「琉球フェスティバル75春/嘉手苅林昌独演会」企画構成
・盲目の放浪芸人里国高の出演交渉に赴いた奄美で警官と乱闘。
「悪魔の報道」を載せた毎日新聞から謝罪文を取る。
奄美の歌者 里国隆「あがれゆぬはる加那」
・「琉球フェスティバル75夏」開催。
(「春」の多額の赤字にもかかわらず中止できなかった。なぜならそれは、
"興行"ではなく、"運動"だったから」。)
・沖縄島うたの集大成を企画構成解説からテープ編集まで独力で行う
「嘉手苅林昌の世界」他LP34枚+SP一枚に四百数十曲を収録。
「飄 ~嘉手苅林昌の世界 その2 その3」ダイジェスト試聴
▶1976/S51年 46歳
・山上伊太郎終焉の地フィリピンへ
・「アジア懺悔行」連続上映のためシンガポール、マレーシア、タイへ
・羅針盤主催「大殺陣大会」に嵐寛寿郎・片岡知恵蔵・河津清三郎らと出演
・「日本映画縦断 山上伊太郎の世界」上梓
▶1978/S53年 48歳
・「あさくさ博覧会/田谷力三コンサート」(木馬亭)企画構成
・若者とともに沖縄・奄美へセミナーツアー「琉球幻視行78」出発
▶1979/S54年 49歳
・「戒厳令の夜」(五木寛之原作)映画化のため、(株)白夜プロダクション設立
ゼネラル・プロデューサー就任。シノプス・イメージ・シナリオ執筆
「戒厳令の夜」オープニング映像・・・夢野京太郎=竹中労のシナリオ筆名
今日はここまで。それでは明日またお会いしましょう。
[Rosey]