すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

いい人やってちゃだめ。

2016-09-01 22:13:38 | ひとりごと
昔、仕事仲間のだれかから、

上に行きたいなら、いい人やってちゃダメなんだよ

って言われたことがあった。

その時は、悪い人をやるくらいなら、上になんていかなくていい、って、心の中で反発していた。

でも、上に行くかどうかは別にして、確かにいい人ばかりをやっていたら、自分が行きたいところにはいけない。

今は、そう強く思う。

いい人は、良い人でも、善い人でもない。
いい人、それは自分を殺す人だ。何よりも真っ先に自分を殺す人のこと。

それがクセになりすぎて、自動的になりすぎて、いい人というあり方が、自分を殺している自覚すらないかもしれない。

でも、殺したつもりの自分は決して死んだりしない。心の深いところに窮屈に窮屈に仕舞われていく。そして、じわじわ染み出てきては、勝手に人生の舵を切っていく。不幸な方へ、望まない方へ。私が、本当は行きたくない方向へ。

いい人ばかりやってくると、いい人をやめることはものすごくこわい。自分を殺した方がずっと楽に感じてしまうかもしれない。でも、その積み重ねは、殺した自分からの返り血を色んな形で浴びることでしかない。

いい人をしてきた人ほど、やってみよう。

あいさつしたくなかったらしない
お世辞が言いたくなかったらいわない
沈黙に責任を感じて話題を提供しなくていい
自分が悪くないなら謝らなくていい
笑いたくない時に笑わなくていい
要らないものは要らないという
できないことはできないという

悪ぶることとは違う。他人を殺すことでもない。ただ、自分の心のままに、その欲求に従ってあげるだけ。

自分につながる人たちとの関係の中で、社会の中で、自分を「いい人」という名の調整弁にしてはいけないんだ。

「いい人」に殺されてきた自分を救おう。


子育てのポジティブ担当、ネガティヴ担当。

2016-05-01 15:46:02 | 育児・母稼業
カレンダーは、五枚目までやってきました。ゴールデンウィークの真っ只中ですね。

わが家のひとり息子も、一年生になって、そろそろ3週間ほど経ちました。ポツリポツリと学校であったことを話すようになりました。概ね楽しそうな内容ですが、不満やネガティヴコメントもチラホラ。

そして、夫にはどちらかと言うとポジティブな内容ばかり、私には時々ポジティブ時々ネガティヴを混ぜてきます。

これはもう明らかに、子どもに対する私たち夫婦の眼差しの質に対応しています。

夫は、基本息子はどこにいても大丈夫だと思っている。一時的に大丈夫じゃなくても、どうせトータルとしては大丈夫だと思っている。

私は、大丈夫が半分、心配も半分。時と場合によって、心配に大きく傾くことも。

だから、自然に役割が決まってしまうんですね。別に夫に愚痴や不満を話しずらいのではなくて、夫の「大丈夫」のエネルギーを前にして、息子もネガティヴな気持ちに焦点が当たらなくなるんだろうな、と思います。

🔹🔹🔹

そんなわけで、ある日、こんなことを息子が私にポツリと話します。

「○○君が、仲間はずれにするんだよ。ボクだけなんだよー」

これが、客観的事実かどうかはわかりませんが、少なくとも息子にとっては、正真正銘の事実。

私も、その現象が事実かどうかはさておいて、まずは息子に共感します。

「そうなんだ。何それっ。腹立っちゃっうねー」

と言った感じで。まずは、感情のガス抜きです。

「そうなんだよー」と、息子。


この息子の体験が、こだわりになると面倒なのかもしれないな、と感じます。

あの子は、ボクを○○するヤツ。ボクは、○○されるヤツ。加害者と被害者の構図、特に、ボクは○○されるヤツ、という被害者の自己イメージはやっかいです。


ここで、私は、

「仲間外れにする友だちって、○○(息子の名前)が嫌な気持ちになることをする友だちってことでしょ。

だったら、無理に仲間に入れてもらおうとしなくていいんじゃない。

○○が嫌がることをしない優しい友だちを探して、遊んだらどう。

すぐに見つからなかったら、一人で遊ぶのだってよくない?」

と、できるだけ、押し付けがましくないように気を配りながら言います。

ネガティヴな出来事や相手の子と一旦心の距離をとりなさい、自分に選択権がある事を思い出しなさい、というメッセージを送ります。

私の声掛けの効果かどうかはわかりませんが、そうすると、しばらくして、息子の中でその出来事や相手へのこだわりが薄らいでいくのがわかります。

これは想像なんですが、自分は「仲間はずれにされた」という息子によるストーリーが最初にあって、そこが傷になっていたところを、「関わらない」という視点を得たことで、息子の思考にパラダイムシフトが起きるんじゃないかな、と思います。

「仲間はずれにされる自分」という意識は無力で惨めさを漂わせますが、「ボクは仲間はずれをするヤツとは遊ばない」という意識にシフトできると、逆に自尊感情を呼び起こします。

もっと深刻さを増して、加害者と被害者の構図が固定化された場合には、出来事に積極的に対処する事が必要になるのでしょう。

でも、それ以前の段階なら、ネガティヴに偏った視点を変えてやること、息子の自己肯定感を守ってやることが大切なんだろうな、と。

それと、実はここが一番大事なのですが、息子への声かけの中身って、実は私のためのものなんです。この言葉が、息子のネガティヴコメントと私との間にスペースを作り、私の反応心を鎮め、自己肯定感も守ってくれるんですね。

というのも、母親というのは因果なもので、子どもがネガティヴな発言をすると、多かれ少なかれエゴが反応してしまいます。私もそうです。

「そんなひどいことする子がいるのー!」
「この子は、いじめられっ子気質なのかしら」
「うちの子が、そんな思いをしてるなんて、かわいそう」
「そんな弱虫、うちの子じゃない。やりかえしなさいっ」

たとえば、こんな風に、エゴが雄叫びをあげます。

この声が自分の過去から来ているエゴだと気づかずにいると、このエゴの勢いに私自身も、そしてちょっぴり友だちについてボヤいただけだったかもしれない息子の意識をも巻き込まれます。

息子が幼稚園の頃、この種のエゴと私が一体化してしまい、辛い思いをしたことがありました。表面的に何か重大なことか起きたわけではありませんでしたが、とにかく私が引きずりました。

そこで学んだのは、出来事や相手に焦点を当てると解決はできないなってことです。出来事による感情は起きますから、そこは受け入れますが、一番大切なのは、その出来事をジャッジするこちらの意識の在り方をまず観察すること、そして、それを自分にとってより良いものに変えることなんですよね。

これは、相手や外部に全く働きかけないってことではありません。わざわざ被害者のポジションに自分を置かない、自分の力を取り戻す、というイメージかな。

私の意識を変えると、息子の意識が変わり、やっぱり現象面も違って見えてきます。

🔹🔹🔹

ちなみに、ポジティブ担当の夫。この夫とは、子育てのことで何度か意見の食い違いを繰り返してきました。

たとえば、私が「息子が、一人で寂しそうに遊んでいた」という話をすると、夫はそういう場面はめったに拾わない。「息子が○○君と楽しそうに遊んでいた」という場面によく出くわします。

二人の脳は、違う認知傾向があって、そのまま違う世界を拾っていたんですね。これに気づくまでには時間がかかりましたが、気づいてからは、もう、なんというか、私がいない方が、夫だけで育てた方が、息子は幸せな子に育つのかもなー、なんて思いましたよ(笑)。

不満や愚痴って、吐き出すのが大切って考えがちですが、大丈夫とか安心エネルギーに包まれたら、それはもう不満も愚痴も超えられちゃうんですよ。夫が息子に向けているエネルギーは、愚痴を言わせないエネルギーではなくて、それを溶かすエネルギーなのかもしれない。

それならネガティヴ担当は要らない?となりますが、うん、うちの息子には要らないとも言えそうです。

だから、子育てにおいてネガティヴ担当な私は、その役割を自分のために引き受けているんです。息子のネガティヴ面に触れて、自分のネガティヴな部分と対面する機会を得ているんですね。私が。

私にとっての子育てって、ずっとそうだった気がします。自分の中の思い込み、傷、とらわれ、恐れに再会させられて、それを解消しながら前に進んできた感じです。子育ての悩みが、私の人生の復習、再試験みたいなものです。

もちろん、楽しいこと、嬉しいこともたくさんあって、息子も、可愛いくてたまらない。だからこそ、ネガティヴな自分とも必死に向き合えてきたのでしょうね。

夫ばかりズルい、と時々腐りたくなりますが、そういう夫の安定感、大丈夫エネルギーがあるからこそ、私もネガティヴ担当を心置きなくやれるわけですからね。夫婦とか家族というのはスゴいバランスなんだな、と改めて思ったりします。




















私は私にどんな言葉を掛けているか。

2016-04-17 12:39:01 | ひとりごと
失敗した時、難しいタスクを背負わされた時、傷つく言葉を投げかけられた時、私の胸には、重苦しい実感が広がります。その実感に無意識でいると、身体全体に重苦しさが広がります。

これは、目の前の現象をジャッジした、その思考がキャッチされないまま、感情や体感に落とし込まれた状態です。


これを放置すると、私の中からエネルギーがどんどん奪われます。元気がなくなる時、私の場合、こうしたことが積み重なっていることが多いようです。

もちろん、思考のすべてが私のエネルギーを奪うわけではありません。エネルギーを奪うのは、何と言っても、「自分を責めたり、ジャッジする思考」。この思考が、不安や喪失感、苛立ちの感情や、重苦しい実感を生み、私のエネルギーをものすごい勢いで消費します。


思考の中でも、特に自分に向けて投げかける思考は、まさに自動的で、気付かないくらいの速さで瞬時に起こります。「思考」であると認識できないくらい、すでに私と一体化しているものが多いからですね。

そんな事から、こうした「自分を責めたり、ジャッジする思考」に気づくのは、だいたい体感・感情まで降りた後になるんです。


🔸🔸🔸

ここから思考の観察と置き換えを試みていきます。

まずは、体感や感情の種類から、思考をたどっていき、言葉にしてみます。

たとえば、何か失敗した時の自動思考は、こんな感じ。

あっ、またやった。
ダメなヤツ。
最近、失敗ばかり。
どうして、私はいつもこんな風なんだろ。
周囲から、「失敗ばかりする」と思われたかも。
また、失敗したらどうしよう。怖い。
対策、対策、ああどうしたら…。
どうせ、失敗してしまうよ。



難しいタスクを背負わされた時は、こんな風。

ムリムリ。
私には、荷が重いよ。
うまくできる気がしない。
助けてくれる人がいないかも。
クレーム、たくさん来るだろうな。
途方にくれてる自分の姿が目に浮かぶ。



これ、列挙するだけで、私が私をどんな人間だと思っているかがわかります(笑)。ちなみに、これらは全部事実ではありませんが、自動思考を私だと思っている限り、これは私の中の事実になります。


これを観察して距離を置くだけでもいいのですが、私は、違う思考への置き換えを試みます。


失敗の時は、

失敗しようとして失敗したわけじゃないよ。
私は、おっちょこちょいで失敗はよくするけど、大きな失敗はめったにしない。
あの人もこの人も、時には失敗してるよ。
疲れてるんだ、仕方ない。
失敗を責めたら、もっと失敗するから。



タスクだったら、

でも、あれだって、これだってできたよね。
意外と私はできる人かもよ。
助けてくれる人もいるでしょ。
100点とろうとしなきゃいい。
80点、60点でも十分。
最悪、どうにもならなくなったら「できません」って泣きつけばいいよ。
できるタスクしか降ってこないさ。


こんな風に、体感と感情が緩む思考を見つけて、自分の中に落とし込みます。そうすると、私の中のエネルギーがまた溜まり始めるのがわかります。元気が戻ってきます。


これが、あまりにかけ離れた思考だとダメなんです。「私は、絶対できる!」「必ずうまくいくはず!」とかね。自分の中になじまないだけでなくて、逆に緊張を生んだりしますからね。一歩だけ、半歩だけ、思考を変えて、自分が緩むのを確かめいく感じです。



最近、小さな失敗が重なって、こんなことを地道に実践しています。それで、つくづく思いますよ。

普段はもちろん、失敗した時や、困難に見舞われた時に、私が、私にどんな言葉をかけているのか。それが、本当に本当に重要なんだって。

私は、私から掛けられた言葉の集積によって造られるんです。そして、それを基盤にして、私がこの世の中をどう思うのか、私が他人をどう思うのか、が自動的に決まっていくんですよ。

私の人生、佇まい、もう、あらゆることが、私が私にどんな言葉を掛けて、私が、私をどう思っているか、に収斂されていきます。

だからこそ、私が、私に普段どんな言葉を掛けているか。小さくて、聞こえない言葉、やり過ごしている言葉の中に、私を責める声、私を貶める声、私を蔑ろにする声が大量に混じっていないか、に意識的に耳を傾ける必要があるんですね。




九州の空は、今日は快晴です。地震に痛めつけらた家々やひとの心に、優しい光が差し込んでいます。

熊本の傷はあまりに深く、癒えるにはまだまだ時間がかかりそうですが、被災された方たちが、ひとときでも、このすみきった青空を見上げ、明日の希望を見つけてくださることを、心から祈っています。

「私」を満たしながら。

2016-04-14 20:07:18 | ひとりごと
最近の自分の読書傾向のせいなのですが、こんなメッセージをよく目にします。


「私」なんていない。
「自我」を捨てる。
「マインド」が悪い。
「思考」が悪い。

「気づき意識」を育てる。
「魂」の声を聞く。
「真我」「ハイヤーセルフ」につながる。
「ハート」「仏心」で生きる。
すべての存在は「無我」。



全部、ぜーんぶ、ある一つの真実を伝えるメッセージだとは思うのですが、これだけだと、大切なことを受け取り損ねてしまうかも、と感じるんですよね。


それは、こういうこと。


私、自我、思考、つまり、私の介在によって起きる現象、「私」の世界が安定していないと、

もっと噛み砕いて言えば、「私は私」「私は私でいい」「私は価値がある」「私は善良だ」という、程よい自己肯定感と、「この世は比較的安全なところだ」「他人は概ね信頼できる」という、自分を取り巻く環境への基本的な信頼感が低いと、

「私」と自我と思考を超えた世界とつながることは難しいのではないでしょうか。


「私」が満たされていない人、自我が安定していない人、思考が極端にマイナスにふれる人が、いきなりそっちの世界を覗こうとすると、ものすごくバランスを欠いてしまう、ということが起こり得る気がするのです。

例えば、自我の弱い人に、自我を捨てなさいなどというメッセージは、さらに自己犠牲的な意識を課すかも知れません。そうなると、満たされていない自我が暴れだすか潜在意識に抑圧されるはずです。

自分を観察する、見つめる、というあり方も、ある程度安定した自我がいないと、観察ではなくてジャッジに傾きます。そして、その違いもわからなくて、途方に暮れることになるかもしれません。


🔹🔹🔹


子どもを見ていると、わかりやすい。彼らは、自我を全身にまとった存在です。その自我を満たしてやることなしに、彼らの心の成長はありません。

「私」なんてないのよ、などと子どもに教えても仕方がないと思うのです。まずは、自我のめざめを促し、「私」という土台を丈夫なものにしてやることの方が、うんと大切な気がします。

そして、満たすというのは、なんでもかんでも「私」の思い通りにする、ということではなくて、「私」の言い分を無視しない、「私」の声に丁寧に耳を傾けるということです。もちろん、必要であれば、その都度満たしながら。


結局は、大人も同じでね。

例えば、「私」を粗末にされてきた人、「私」を自分で粗末にしてきた人は、まずは「私」をはっきりと浮き上がらせることなんですよね。


「私」のために意見を言う
「私」の居心地のよい環境を選ぶ
「私」の好き嫌いを認める
時には、
「私」のために、怒る、泣く、戦う



自分に割り当てられた「私」をしっかり生きることをしないで、「空」だハイヤーセルフだと言っても、どこか虚しい。捨てたつもりになった自我の逆襲に合うだけなのかな、と。

つまり、「私」を蔑ろにしても、「私」は決して消えてなんてくれないし、逆に消そうとすればするほど、より力を得るのです。

「私はいない」という体験は、「私」が鮮明になって初めて、立ち現れる可能性を持つものなのかもしれません。


自我が安定している人も、悟りの領域に足を踏み入れている人も、人間というあり方を生きる限りは、「私」という土台を帳消しにはできません。自我から発せられる欲求がなくなるわけでもないでしょう。

どんな道も「私」を満たしながら進むもの、どんなあり方も「私」を満たしながら深めるもの。 そんな風に思うのです。












改めて、許すこと。

2016-04-06 07:51:01 | ひとりごと
前回紹介したウ・ジョーティカ師の書簡集「許すこと」を何度か読み返して、私なりにこんなことを考えました。

マインドフルを心掛ける時、自分を傷つける人や嫌な気分にさせる人、その人の言葉や行動に対して、人の意識は、こんな風に変化・成長していくんじゃないか、と。

反応する
(責める、仕返しする、怒る、自分を責める等)


離れる


構わない


許す


まずは、「反応する」。怒る、責める等は、いたって普通の反応。負の意味において、相手や相手の言葉、行動に積極的に関わっていく姿勢です。

自分の心には1番負荷の高い意識の状態ですが、無意識に反応し続けると、中々そこから抜け出せません。


そして「離れる」。相手や出来事から自分の心を離していくという意識。避ける、関わらないとも言えます。「嫌いな人とは距離を置きましょう」というフレーズは心理学の本でもよく出てきます。

ただし、距離を置く、避ける、という意識は、その相手や出来事がどうでもよくなったというわけではありません。嫌な人や嫌な環境から逃げ続けることを余儀なくされることもあります。


さらに「構わない」。これが、今、私が一番目指しているというか、気に入っている意識のあり方です。

自分を傷つける人、不機嫌な人、苦手な人、のその言動や態度には構わない。これは、関わらないというのと近いのですが、関わらないのが視界に入れない、そっぽを向くというイメージなのに対して、関わりはあっても、視界に入っても、こだわらない、自分の心にダメージを与えさせない、というイメージです。


最後の「許す」は、自分を傷つけた相手を理解して、慈愛を向け、共感するということを含みます。最初の反応が、負の関わりだとすると、こちらは正の関わりです。相手や内容によっては、簡単にできる場合もありますが、多くの場合は、最難関の道です。


これらの、意識のあり方は、相手や出来事によっても変わりますから、優劣を一概に言えるものではありません。

例えば、誰かにいじめられたら、まずは怒ることが必要な場合もありますし、何より関わらないことが最良な選択の場合もあります。

自分を誤魔化して許すふりをするくらいなら、反応する自分に素直になり、思い切って反論した方がずっといい場面だってあるわけです。


ただ、大ざっぱな言い方をすれば、下の意識に向かえば向かうほど、下の意識が自然になればなるほど、もう誰かに簡単に傷つけられる、傷つけさせる自分ではなくなっているということです。

自分の価値が、他人の言動に左右されない状態、他人に自分の心の平和を奪われない状態です。まさに自由の境地です。


🔸🔸🔸

ところで、
5年ほど前に、私、こんなブログ「許すとか、許さないとか」を書いていました。

結婚してから何年目かの、夫婦の危機があり、「許すこと」が、私にとって、大きなテーマになっていた頃です。

夫がしたことによって、私は傷ついた、傷つけられた、私は被害者なんだ、と大騒ぎしました。反応しまくりました。夫を責めて、責めて、責め倒しました。

夫がしたことは褒められたことではないけれど、世の中には、多分、同じようなことが起きても、それほど反応しない妻だったり、傷つけらたと思わない妻も一定数いるんだろうな、と今になるとわかります。

それなら、私と、その妻と何が違うか。それは、夫のしたことと自分の価値を結びつけるかつけないか、だと思うのです。自分を被害者にするか、しないか、だと思うのです。

もちろん、ある出来事には反応しない人でも、別な出来事になると多いに反応する、ということは普通にありうることだと思いますけどね。


そして、自分の文章を読み返して、はたと考えました。

今なら、今の私ならどうするだろう、夫が同じことをしたらどうするだろう。

まあ、その場にならないとわかりませんが、夫を責めたり、夫に呆れたりはしても、恐らく、私自身、昔みたいな傷つき方はしないだろうな、被害者にもならないだろうな、というのは感じます。

何故か。

それは、夫を含めて、他者の言動は自分の心に致命的な傷を与えられない、と少しは思えるほどに、私の心が強く、しなやかに、変化したからだと思うのです。この変化は、私の5年間の成長です。

この自分の心の変化を辿るとき、許すこと、の本質は、行為ではなくて、あり方なのかもしれないな、としみじみ思うのです。

自分の心を自分で守ることができる人、自分の心の平和を他者の言動に委ねない人は、他者に対して許すことを意識しなくても、すでに許している、許せる人なんですね。


ウ・ジョーティカ師は、「許すこと」の最後の方で、こう書いています。

私は、誰についても、もう許す必要もありません。私はオーケーということができる。

許す必要もないほど、すでに許しているということですね。師の心の境地です。


この人生の中で、とても、そんな境地にまでは辿りつけませんが、少しずつ、一歩ずつ、目指していけたらいいな。これが、私のマインドフルネス道でもあります。