『仏教思想のゼロポイント』の著者、魚川祐司氏が、テーラワーダ僧侶ウ・ジョーティカ師の書簡集を翻訳し、広く公開しているこのサイト。
まるで宝箱のようです。見つけて、すぐに二つをダウンロード。
ティクナットハン師の、読む人を優しく包み込むような文章とは、また違う趣き。仏教書というよりも、高尚な心理学の教科書のようにも感じます。
師の人生における葛藤が包み隠さず書かれている、直截で、それでいて温かな文章に、すぐさま魅了されました。
興味のある方は、ぜひ読んでみてくださいね。マインドフルネスを実践している方も。読むだけで、瞑想効果がありますよ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/f9/2976b59827f87b23294f259e8bd33e4e.jpg)
🔸🔸🔸
ただね、
実は、私、
許す
という言葉を見ると、
許さなければならないの?
と、心の中で反応が起きます。
師のおっしゃることは深い所で納得しますが、その深い所の別の場所で、反応というか、抵抗している部分があります。
物事のレベルにもよりますが、私は、きっと、とりあえずなんでも許すタイプでした。自分の感情を取り上げることよりも、許す大人であることを選んでいた、のかな。
笑顔で許しながら、実際には許せていない自分にすら気付かなかった。
でも、本当は、許せていなかったんですよ。そういう仕方での「許す」の後、師が言うように心が自由になったどころか、不自由になりましたから。
得体の知れない、濁った感情が、心の奥底に沈んでいきました。
本当は、責めたい
本当は、怒りたい
でも、許さなくてはならない
私は、許さなくてはならない
言うなれば、自分の本心を狭く暗い部屋に押し込めている状態です。
そして、そんな感情に出会いたくないから、特に、自分をぞんざいに扱う人、失礼な人、高圧的な人、感情的な人、つまり私を傷つける可能性が高いと察知する人の前で、萎縮し、そういう人たちが怖くなりました。
自分のこうした心の癖がわかると、「許さなくてはならない」という心の動きは、結局は、許しているわけでも何でもなくて、ただ相手のエネルギーに負けているということなんだ、ということが腑に落ちます。
🔸🔸🔸
それで、ある出来事を思い出します。
テニススクールに通い始めた頃、私は50代くらいのある女性とウォーミングアップで軽いラリーをすることなりました。
彼女は、すでに相当な技術があり、スクール歴も長そうで、コーチとも他のスクール生とも打ち解け、体全体から余裕と自信を漲らせています。
初心者の私の拙いボールさばきにイラついたのか、それでも済まなそうにしないのが生意気と映ったのか、途中から露骨に嫌な顔をしたり、横を向いてしまったりするのです。
焦りつつも、そんなにひどい球でもないしなぁ、と思っていたところ、いきなり、
「今は、ボレーの練習をしてるんですよっ」
と明らかに強い怒気を含んだ言葉を投げかけられました。一瞬固まってしまい、全身から血の気が引きそうでした。
反射的に、
上手い人からしたら初心者のタルい動きに苛立つのかも
と、いつもの癖で彼女の言動を正当化する理由、つまり、私を傷つけた人を「許さなくてはならない」理由を自動思考しました。
でもね、やっぱり、許したくないって言う心の声も強くて。
ウォーミングアップが終わった後、できるだけ卑屈にならないように、ある種嫌みも込めて彼女に近づいて言ってみたんです。
「初心者で、うまくできなくてすいません」
彼女はバツが悪そうに、目を泳がせ、横を向いて軽く頷きました。今度は、バツを悪くさせた私に怒っているようにも見えました。
その後、一時間のレッスン中、私の全身には怒りと惨めさと悲しさとが激しく渦巻いていました。テニスには身が入らないし、その人にばかり目がいくし、しかもその人のテニスは素晴らしい。
完全に、私の負け。その実感が一番こたえました。
ただ、レッスンの最後に面白い場面がやってきました。このレッスン最後のゲームが私に回ってきたのです。2ポイント先取のダブルス形式のゲーム。そして、彼女は、ネットを挟んだ向こうにいる。つまり対戦相手です。
いつもなら、やっぱりダメだろうな、とか、結局負けるんだろうな、とか思いがちな私が、この時、腹の底から思ったんです。相手との実力差は、全く話にならないのに、
絶対負けたくない。
絶対に勝つ。
ああ、あの時の自分の中に湧いたエネルギーを思うと、今でも泣きそうになる。
1ポイントとったあと、彼女の完璧なフォアのストロークが私に向かってきた時、私も向かっていった。そこに迷いはなかった。しかし、私ね、やっぱりまだまだテニスが下手クソなんで、返球したボールに勢いはなく、詰まるわけです。で、相手のネット際にフワンと落ちる。
でも、それが功を奏して、彼女は前のめりになってバランスを崩し、必死にラケットを伸ばすもボールに届かず。
2ポイント先取で私たちの勝利!
私、チームメートに向けてガッツポーズして、ハイタッチしました。こんな自分を、今まで知らなかった。
歓喜しつつも、でも、どこかで落ち着いていました。それで、確信したんです。
人には、絶対負けてはいけない時がある。
そして、私にとっては、
あのゲームの、あの瞬間がそうだった。
🔸🔸🔸
あそこで立ち向かわなかったら、気持ちで負けてたら、私、必ず引きずってましたからね。最初から「許すこと」を目指したら、「許さなくてはならない」という、不自然な思考に決着がつけられなかったかもしれません。
あの後、すぐに、心のわだかまりが消えたわけじゃないです。正直に言うと。
でも、許す許さない、ということとは少し違うのだけれど、大方どうでもよくなっていったわけです。彼女のことも、あの一件も。
師の言う「許すこと」が、自分の心を自由にさせてくれるというのは、とてもわかります。私も、いつかそういう人になりたいなあ、と心から思います。
ただ、人には必要なプロセスがあって、「許すこと」に意識を向けた途端、苦しい思考に捕まってしまうこともあります。(私のように。 )
それならば、「許すこと」以外の選択肢の中で、自分の心をいかに自由にするかを考えることもできるんですよね。私は、相手に負けないという体験によって、自分の心を解放しました。
もちろん、「許すこと」だって、そこに行き着くまでには、時間や葛藤が必要な事は、師がすでに語っているとおりで、「許すこと」までの道のりがまさに多彩なプロセスを孕んでいます。
そこに最初から抵抗がない人は、ダイレクトに目指せばいいのですよね。
さしずめ、私はまだ、例えば自分を傷つける人に対して、自分にとって何か理不尽さに出会った時にも、「許すこと」以外のプロセスを自分に許す段階なんだろうなあ、と感じているんですよね。
🔸🔸🔸
少し長くなったので、今回はこの辺で。おそらく、また続きを書くと思います。
まるで宝箱のようです。見つけて、すぐに二つをダウンロード。
ティクナットハン師の、読む人を優しく包み込むような文章とは、また違う趣き。仏教書というよりも、高尚な心理学の教科書のようにも感じます。
師の人生における葛藤が包み隠さず書かれている、直截で、それでいて温かな文章に、すぐさま魅了されました。
興味のある方は、ぜひ読んでみてくださいね。マインドフルネスを実践している方も。読むだけで、瞑想効果がありますよ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3e/f9/2976b59827f87b23294f259e8bd33e4e.jpg)
🔸🔸🔸
ただね、
実は、私、
許す
という言葉を見ると、
許さなければならないの?
と、心の中で反応が起きます。
師のおっしゃることは深い所で納得しますが、その深い所の別の場所で、反応というか、抵抗している部分があります。
物事のレベルにもよりますが、私は、きっと、とりあえずなんでも許すタイプでした。自分の感情を取り上げることよりも、許す大人であることを選んでいた、のかな。
笑顔で許しながら、実際には許せていない自分にすら気付かなかった。
でも、本当は、許せていなかったんですよ。そういう仕方での「許す」の後、師が言うように心が自由になったどころか、不自由になりましたから。
得体の知れない、濁った感情が、心の奥底に沈んでいきました。
本当は、責めたい
本当は、怒りたい
でも、許さなくてはならない
私は、許さなくてはならない
言うなれば、自分の本心を狭く暗い部屋に押し込めている状態です。
そして、そんな感情に出会いたくないから、特に、自分をぞんざいに扱う人、失礼な人、高圧的な人、感情的な人、つまり私を傷つける可能性が高いと察知する人の前で、萎縮し、そういう人たちが怖くなりました。
自分のこうした心の癖がわかると、「許さなくてはならない」という心の動きは、結局は、許しているわけでも何でもなくて、ただ相手のエネルギーに負けているということなんだ、ということが腑に落ちます。
🔸🔸🔸
それで、ある出来事を思い出します。
テニススクールに通い始めた頃、私は50代くらいのある女性とウォーミングアップで軽いラリーをすることなりました。
彼女は、すでに相当な技術があり、スクール歴も長そうで、コーチとも他のスクール生とも打ち解け、体全体から余裕と自信を漲らせています。
初心者の私の拙いボールさばきにイラついたのか、それでも済まなそうにしないのが生意気と映ったのか、途中から露骨に嫌な顔をしたり、横を向いてしまったりするのです。
焦りつつも、そんなにひどい球でもないしなぁ、と思っていたところ、いきなり、
「今は、ボレーの練習をしてるんですよっ」
と明らかに強い怒気を含んだ言葉を投げかけられました。一瞬固まってしまい、全身から血の気が引きそうでした。
反射的に、
上手い人からしたら初心者のタルい動きに苛立つのかも
と、いつもの癖で彼女の言動を正当化する理由、つまり、私を傷つけた人を「許さなくてはならない」理由を自動思考しました。
でもね、やっぱり、許したくないって言う心の声も強くて。
ウォーミングアップが終わった後、できるだけ卑屈にならないように、ある種嫌みも込めて彼女に近づいて言ってみたんです。
「初心者で、うまくできなくてすいません」
彼女はバツが悪そうに、目を泳がせ、横を向いて軽く頷きました。今度は、バツを悪くさせた私に怒っているようにも見えました。
その後、一時間のレッスン中、私の全身には怒りと惨めさと悲しさとが激しく渦巻いていました。テニスには身が入らないし、その人にばかり目がいくし、しかもその人のテニスは素晴らしい。
完全に、私の負け。その実感が一番こたえました。
ただ、レッスンの最後に面白い場面がやってきました。このレッスン最後のゲームが私に回ってきたのです。2ポイント先取のダブルス形式のゲーム。そして、彼女は、ネットを挟んだ向こうにいる。つまり対戦相手です。
いつもなら、やっぱりダメだろうな、とか、結局負けるんだろうな、とか思いがちな私が、この時、腹の底から思ったんです。相手との実力差は、全く話にならないのに、
絶対負けたくない。
絶対に勝つ。
ああ、あの時の自分の中に湧いたエネルギーを思うと、今でも泣きそうになる。
1ポイントとったあと、彼女の完璧なフォアのストロークが私に向かってきた時、私も向かっていった。そこに迷いはなかった。しかし、私ね、やっぱりまだまだテニスが下手クソなんで、返球したボールに勢いはなく、詰まるわけです。で、相手のネット際にフワンと落ちる。
でも、それが功を奏して、彼女は前のめりになってバランスを崩し、必死にラケットを伸ばすもボールに届かず。
2ポイント先取で私たちの勝利!
私、チームメートに向けてガッツポーズして、ハイタッチしました。こんな自分を、今まで知らなかった。
歓喜しつつも、でも、どこかで落ち着いていました。それで、確信したんです。
人には、絶対負けてはいけない時がある。
そして、私にとっては、
あのゲームの、あの瞬間がそうだった。
🔸🔸🔸
あそこで立ち向かわなかったら、気持ちで負けてたら、私、必ず引きずってましたからね。最初から「許すこと」を目指したら、「許さなくてはならない」という、不自然な思考に決着がつけられなかったかもしれません。
あの後、すぐに、心のわだかまりが消えたわけじゃないです。正直に言うと。
でも、許す許さない、ということとは少し違うのだけれど、大方どうでもよくなっていったわけです。彼女のことも、あの一件も。
師の言う「許すこと」が、自分の心を自由にさせてくれるというのは、とてもわかります。私も、いつかそういう人になりたいなあ、と心から思います。
ただ、人には必要なプロセスがあって、「許すこと」に意識を向けた途端、苦しい思考に捕まってしまうこともあります。(私のように。 )
それならば、「許すこと」以外の選択肢の中で、自分の心をいかに自由にするかを考えることもできるんですよね。私は、相手に負けないという体験によって、自分の心を解放しました。
もちろん、「許すこと」だって、そこに行き着くまでには、時間や葛藤が必要な事は、師がすでに語っているとおりで、「許すこと」までの道のりがまさに多彩なプロセスを孕んでいます。
そこに最初から抵抗がない人は、ダイレクトに目指せばいいのですよね。
さしずめ、私はまだ、例えば自分を傷つける人に対して、自分にとって何か理不尽さに出会った時にも、「許すこと」以外のプロセスを自分に許す段階なんだろうなあ、と感じているんですよね。
🔸🔸🔸
少し長くなったので、今回はこの辺で。おそらく、また続きを書くと思います。