去年の暮れ、
結婚以来、夫が私に隠し続けていた、あることがバレた。
その兆候は、具体的事実においても、私の心の「ザワザワ感」の中にも、
結婚以来ずっとあったのだけれど、
彼はその事実を隠すために、嘘に嘘を塗りかさねた。
私はその嘘を、半信半疑でやり過ごしてきた。
あらゆる意味において、それが明るみになるのに、
機が熟していなかったといってもいいのかもしれない。
「離婚されるのが怖かった」
「これまでの結婚生活が無駄だったと思われるのがつらかった」
夫の、言い訳だ。
素直な吐露であるだけに、彼の致命的な弱さを思い知らされた。
世の中に、隠し通せることはあるかもしれない。
それが、正真正銘、相手と自分のためになることであれば。
でも、そんな崇高な隠し事は、そうざらにあるものではない。
隠していることに、罪悪感が潜んでいれば、バレるのが定石だ。
機が熟す。
今回のことは、うん、この言葉しかない。
彼の告白という形ではなかったけれど、
ユング心理学でいうところの共時性とでもいうべきタイミングで、私は彼の隠し事を知らされた。
いろんな意味で、二人が夫婦として、子どもを育てる親として、ひとりの人間として、
お互いが向き合う、というよりも、
お互いが自分自身と向き合う時期、
人生のターニングポイントに立たされた時期に重なった。
もちろん、隠し事がさらされてからは地獄の日々だったけれど。
この2カ月間、お互いがそれぞれの理由で悶絶し、這い上がるすべを探した。
ただ、彼の方が客観的にも明瞭だ。
彼がするべきことは、具体的に行動すること、解決に着手することしかない。
私は・・・・、私はどうすべきか、いや、どうしたいのかを、
具体的にすることがないなかで、見出していかなくてはならない。
私が自分のためにできたことは、
日々、自分の気持ちを素直に自分に告白していくことによって、
自分と格闘し、自分を勇気づけることだった。
そして、私は、自分の中にある強さの芽、を見つけた。
この頃になって、やっとすがすがしい感じが自分に萌してきた。
まだ脆くはあるけれど、でも性急でない形で手に入れた、この感じ。
夫の心や隠し事を以前ほど忖度しない自分に開放感も覚えた。
夫の心の中はわからない。
今は、説明を求めたい気分でもないし、
本人も、自分自身をつかめていないのだと思う。
彼を責めて、謝罪させて、改心させて、、、と、
とにかく彼をどうにかすること、そのことにしがみついていた自分に嫌気がさした。
しがみつく感じが薄らいだら、自分が楽になった。
夫は夫のことをしっかりやればいい。
究極的には、夫がそれをやってもやらなくても私には関係のないことだ。
実質的には多少影響は被るけれど、
でも、
自分のしたことの責任は自分でとる、
自分がまいた種は自分で刈り取る、
の原点に立ち返れば、
私は、彼の動向を手を出さずに見つめていくしかない。
もちろん協力できるところはするけれど、
でも、彼がしたことの責任の主体はあくまで彼なのだ。
それよりも、
私は私のことをしっかるやる。それが一番大切なこと。
私は、自分の中に見出した強さの芽を、
しなやかに、丁寧に育てていくことに力を注ごうと、思い至った。
それが、きっと私自身の再生の道だ。