すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

少女のお辞儀が教えてくれたもの

2005-09-30 01:10:44 | ひとりごと

施設の日帰り旅行で長野方面に出かけた。
利用者のほか、家族や関係機関なども一緒で、
カラオケあり、温泉ありの、楽しいバスの旅となった。

家族やボランティアの人たちと、雑談を交わしていた帰りのバスで、
ある光景に出会った。

両側一車線の比較的細い国道。信号が赤に変わり、バスはゆっくり停止する。
すると、目の前の横断歩道を、一人の少女が小走りに渡る。
背格好からすると、小学校に上がったばかりだろうか。
背負ったランドセルの方が大きく見えるほど、小さくて、かわいらしい。

少女が渡りきると、押しボタン式の歩行者用の信号機が、赤に変わる。
バスと反対車線の乗用車は発進の準備。

さっきの少女は、そのまま行ってしまうと思いきや、
突然車道の方にクルリと身を翻す。
なんだろう、と見ていると、まずは、自分の左のバスにペコリと一礼、
右の乗用車にも、ペコリと頭をさげた。
そして、帰る方角に向きを変えて、走り去っていく。

まるで風のようだった。

一瞬息を呑んだ。な、なに今の・・・。
なんともいえない衝撃が胸に走った。

私だけでなく、ボランティアの女性もその光景を見ていた。

「すごいね~。あんな子どもがいるんだね。
大人だって、あんなことしないのに。誰が教えるんだろう」

彼女が高揚した口調で言った。

少女が歩行者用信号機のボタンを押す、車が止まる、
少女が横断歩道を渡る、車が発進の準備をする、少女が車に頭を下げる。

言葉で説明すれば、ただそれだけの行為だ。
でも、ただそれだけの行為が、二人の大人の心を震わせたのだ。

少女は、道路を渡るために当然の権利を行使しただけ。
それなのにあんなに丁寧にお辞儀をして、感謝の気持ちを表す。

今の時代、多くの人が、
自分の権利を主張することがうまくなりはしたけれど、
それに反比例して当たり前のことに感謝したり感謝されることは
すっかり縁遠くなった。

だからこそ、あの少女の謙虚な姿は、新鮮な驚きだった。
そして、一瞬にして、私たちの目に焼き付けられたのだ。

感謝とは、こういうことを言うのです。
感謝とは、こんな風にするんです。

彼女の「感謝する姿」の向こうから、
そんな声が聞こえるような気がした。

きっとそれは、教育と呼ばれるものかもしれない。
ゆとり教育、個性重視の教育、いろんな教育が挫折した今の時代、
人の心をこんな風に動かしてしまえる教育は、
あたり前のことにあたり前に感謝することを教える教育は、
ひときわ輝いて見えた。



茂木健一郎「脳と仮想」を読む

2005-09-14 00:18:30 | 本・映画・音楽
心脳問題を研究する気鋭の科学者として注目を集める茂木健一郎の「脳と仮想」を読んだ。

きっかけは新潮社の雑誌「考える人」の編集長が書くメルマガだった。

そこには、この著書で第4回小林秀雄賞を受賞した茂木氏の、記者会見上でのエピソードが紹介されていた。

茂木氏は、東京大学理学部に入りながら途中で法学部に転部している。その理由をどこかの記者が質問すると、茂木氏は言いよどみながらも、話しはじめたのだとか。ようは、純粋培養の科学少年だった茂木氏が、あるとき恋に落ちた。

そしてその人は、茂木氏が学ぶ科学とは全く相容れない「法学部」的な価値観を信じる女性だった。

恋のとりこになった茂木氏は、その世界を深く知りたいと思い、そして、法学部に入りなおしたというのだ。

このエピソードを読んだだけで、もう普通に「いいなぁ」って思ってしまった。

恋に落ちるのは文学少年ばかりではない。科学少年だって恋に落ちるのだ。そこが面白い。

理性の世界で生きている人間が恋に落ちたとき、理詰めでは通らない出来事に遭遇して、一体何を悩み、苦しんだのだろう。

科学という自分が専門とするアプローチ方法ではあるもの、この本は、茂木氏が
若い頃に抱え込んだ課題を解き明かそうとする「あがき」が含まれているのでは、なんて、うがった見方をしてしまった。

文章は硬めで、専門用語が頻繁に登場し、茂木氏が研究テーマとする「クオリア」というキーワードもすんなり胸に入ってはこなかったけれど、でも、科学者でありながら科学周辺の領域に寛容に手を伸ばそうとするところには、茂木氏のやわらかさとか暖かさをを感じた。

本文中、心に残った文章を引いてみる。

【私たちが、他者の心を知ることは原理的にありえない。私たちは、ただ、他者の心が判ったことにするだけである。
そこに立ち現れる他者の心は、一つの仮想である。場合によっては、相手の実際の心とは似ても似つかないかもしれない仮想である。理解と誤解の間には、無限といっていいほどの諧調がある。

肝心なのは、理解ということを、世の中に確かに存在するはずの「他者の心」の把握という意味に捉えるならば、完全な理解など、決して存在しないということを認識することである。】

この手のことは、例えば心理学系や人生指南系の本などでは、よく書かれていることだ。

それは、大体は著書の直感であったり経験によって書かれており、脳よりも心の問題、人間関係の切り抜け方として扱われている。

茂木氏の文章は、あくまで脳科学という
科学から導かれた客観事実を基に書かれているので、また違った重みを感じる。

茂木氏は、科学という自分の使いなれた道具を使って、ここにたどり着いた人なんだな、という気がした。

そして・・・、

【押せば動くというような、単純な力学に従わない、やわらかい存在だからこそ、他者の心は自分にとって切実な意味を持つ。自らがコントロールできる対象ではない。相手には、相手の意志がある。価値判断がある。そのような、他者の心が、その独自の意志に基づいて自分に好意を寄せてくれる。だからこそ、恋愛の成就は、飛び上がるほどうれしい。】

この文章の中に、茂木氏をして心脳問題に深く関わらせ、この本を書かせた答えがあるように思えた。

恋愛エッセイのように甘かったり情緒的だったりはせず、あくまで冷たく硬い断定的な文体の中にだからこそ、茂木氏の生々しい体験とそこからもたらされた述懐がにじんでいるような印象を持った。



助けを求める勇気

2005-09-04 22:32:58 | ひとりごと

亡くなった父の自慢の一つは、
自分の肉親や知人のなかで、
なかなか関係が前に進まないままの状態でいる、
男女の肩を押して、結婚に結びつけることだった。

父の妹(私の叔母)も、その恩恵にあずかった。
妹はいわゆる適齢期で素敵な恋人がいながらも、
なかなか結婚できないでいた。
恋人に独身の兄がいて、
兄への遠慮から恋人が結婚に踏み切れないでいたからだ。

今は天皇家でも弟が先に結婚する時代だが、
昔は、結婚は上から順番が普通だったのだ。

そこで私の父が登場。
恋人には、「このままなら妹にお見合いをさせる」
とプレッシャーを与えた上で、恋人を後ろに従え、
その兄や両親に話しをつけに行ったのだ。
こだわっていたのは、兄よりも両親の方で、
父は必死に両親を説得したという。
そして、見事二人をゴールインさせたのだ。

その話を聞いた当時は、
「父もおせっかいだなぁ、
叔母たちだって恋愛とか結婚の話くらい二人でなんとかすればいいのに・・・」
と辟易した。でも、そうでもないのかな、と最近は思うようになった。
恋愛や結婚に限らず、それこそ介護や教育だって、
当事者たちだけでは、どうにもならない問題があるのは確かだ。

周囲が少し手を貸したら、すんなり物事が運ぶことって世の中にはたくさんある。
しかし、個の時代と言われる今、
問題解決に誰かの力を借りるという行為にでるのは、
結構難しかったりする。

他人の力を借りるということは、
自分が裸になって恥や悩みをさらす必要があるからだ。
裸になるのは相当が勇気がいる。
それができないで、一人で悩み苦しんでいる人って多いと思う。

最近読んだ、
井形慶子さんの「運命を変える言葉の力」(集英社)には、
この辺のことが上手に書かれていた。
心変わりしつつあった男性を引き止めるために、
女性の懇願に応えた父親が男性に手紙を書き、
心動かされた男性が戻ってきたというイギリスでのエピソードを引いて、

「信じていたものがゆらぐ時、SOSをどこに発信していいか分からない。
まして、この彼女のように実の親に助けを求めることもできない。
だが、サポートする人がいないことが第一の問題なのではない。
私たちが愛をインスタントなものと捕えているかぎり、
こんな協力者は決して現れないからだ。
これだけは失いたくないという信念があってこそ、
人は初めて本気で誰かに助けを求めることができるのではないか」

とあった。
人に助けを求めることは、恥ずかしいことではない。
それだけ、自分が真剣だ、大変だ、という証なのだから。
助けを求めることができれば、誰かが求めてくるときにも、
自分のことのように親身になれるはずだ。

ちなみに姉も父の恩恵に預かった。
私が、今だ独身なのは、おせっかいな父がいないからかも(笑)。