すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

善く生きる。

2013-09-16 23:45:27 | My メソッド
たとえば、医師になるためのするような勉強は、もうできない。

生活のために必要な、経済を支えるために必要な、資格取得の勉強ももういい。

アカデミックな哲学も、今更勉強する気はない。

ヨガに通ったり、新しい趣味を無理やりみつけるのもやめる。

手作りのお菓子や、手芸も、一過性の趣味にすぎない。そんなに好きじゃないことを素直に認めよう。

まるで人生を半分降りたような言い草だけれども、私にはできることがある、と気づきを得た。

善く生きること。

善く、生きる、それを続ける努力をして行くということ。

おもらし

2013-09-15 19:04:26 | 育児・母稼業

息子のおもらしが、またひどくなった。毎日のように、着替えのパンツで降園してくる。下洗いしてくれる先生に、申し訳ない、というか、うんざりされてやしないか、と滅入る。

「三歳にもなって、お漏らしなんて恥ずかしいよ」

私の口調は荒くなり、息子は、次はしない、と言って、またやらかす。私の説教口調は、怒号にかわる。

ふと、気づく。
私のこの言い草は、息子に偏見を植え付けている。息子が、私の言葉の通りに育てば、息子は、三歳でお漏らしをする子は、恥ずかしい子なんだ、と信じるようになる。その偏見は、自分自身だけでなく、間違いなく、他人にも向けられる。

男の子が○○したら、恥ずかしいよ。
○○したら、お友達に嫌われるよ。

本当に、そうなんだろうか。私は、その言葉をきちんと吟味して息子に届けているのだろうか。

こんな言葉を、ともだちにしたり顔で言う子どもに、息子をさせたくない。そう感じるなら、その言葉は正しくないんだ。

男の子でも三歳でも○○する時はあるし、そうした条件を外しても○○してしまう子はいる。
息子が、そんな友達に出会っても、簡単に排除しない心性をもってもらいたい。

それと、もうひとつ。

友達を叩いた時。
集団行動で逸脱行為をしたとき。
私は、はげしく息子をしかる、というより、なじる。しつこいほどに。

見かけ上は、悪いことをした息子のその行為を叱っている。悪を追及するために、駆逐するために、叱る。でも、本当は違う。自分でも気づいてる。私は、他者(それはママ友であったり、幼稚園の先生であったり)から向けられているような気がする悪意を一身に受け止めなければならないことに極度に反応し、息子に八つ当たりをしているようなものなのだ。

その悪意は、私が勝手に想像するもの。実際にそんな悪意があるのかどうかもわからない。

こういうのは、よくない。やめなければ。でないと、私は自分の都合で怒鳴り散らす鬼母でしかなくなってしまう。
息子が、本当に悪いことをして叱るとき、彼にひびくだろうか。いや、それ以前に、私は彼の悪と対面したときに、なじるのではなく、真剣に叱るということができるだろうか。その気迫に、不純物がないと息子が感じてくれるだろうか。

私自身がまず、自分を、自分の感覚を、使っている言葉を見つめてみること。ひとたび、本当に大切なことをつかんだのなら、自分の感覚を、他者や常識よりもまず、その自分を何よりももっと頼りにしてもいいんだよな、と思う。


いじめと中島義道。

2013-09-01 10:09:28 | 本・映画・音楽
中島義道氏の本を、以前、何冊か読んだ。シニカルな内容が、その時の自分の精神状態になじんでいて、面白かった。

何冊目かで、異常なくらい女性に固執される、それくらい自分はもてたんだって言いたげな内容に、少々げんなりして遠のいていた。

「人生に生きる価値はない」で、久しぶりにこの人の本を読んだ。シニカルさは、いくぶんマイルドになっていた。

いじめの原因は、「みんな一緒主義」と看破するぐだりが、ひどく腑におちた。標準、常識、空気を読む力。

そこに重きを置く大人の意識にこそ、いじめの根がある。

そうだなあ。本当に、そう。

自分をも追い詰めるその意識は、必ずや他人も追い詰めている。私の中にも確かにある意識も、いじめに加担しているんだ。

そうした事に自覚的になること。突破口は、これに尽きる。