深く付き合える友だちが欲しい。
バリバリできる仕事がしたい。
でも、叶っていない。だから悶々とする。自分がダメな人間に思える。
たとえばこんなこと。
欲しい、したい。
自分の欲求の正体って、実は複雑だったりする。
自分の身の丈、自分の普段の感覚にあった欲求は、自分の行動次第で満たされることが多い。努力やらなにやら、とにかく少しずつでも動いたら、自分の欲求にしたがって素直に動いたら少しずつでも手に入る。
叶っていない、としたら、それはどういう意味があるだろう。
自分の行動にブレーキをかけるものがあるってこと。
それは、自分、本当の自分、無意識の自分だ。したいのは自分なのにに、どうしてブレーキかけるのも自分なのよ。
確かに。
したい自分、欲しい自分と、もっと奥深くにいる自分がかみ合っていない。
そもそも、したい自分、欲しい自分って、誰?
それ本当に、したい?それ本当に、欲しい?
したい、欲しいって願ってるのは、自分の本心?
深く付き合える友だちがいないのは人としてまずい、って。
バリバリ仕事してる人はかっこいい、って。
自分以外の人が考えていそうだから、常識ではそうだろうから、だったら自分も・・・ってなってたりしないかな。
自分の本当は、どうだろう。
深い付き合いになる煩わしさを怖れてるのかも。
バリバリ仕事をできる体力も気力も足りないことを知っているのかも。
そうだとしたら、本当に自分が感じていることを認めてみたほうが、苦しまなくていいと思う。
自分以外の人が考えていそうなこと、っていうのも、実は自分の思い込みが強かったりするから。
深く付き合える友人がたくさんいる人も、仕事をバリバリしている人もいるにはいるけれど、それは、その人たちが、本当にそういうことを望んでいるからそうなってる。
逆にそうじゃないひとだってたくさんいる。そうじゃない人でも、素敵な人はたくさんいる。そうじゃないのに、素敵な人は、そうじゃない自分を認めている人だ。
さて、私はどうだろう。
私は、私を認める生き方をしてるかな。