今の私は、
幼稚園児の「母」と、「ライター」としてのわずかな仕事と、日常生活に困難を抱えている人を対象にした「相談援助」の仕事の三つが生活の要になっている。あっ、一応、妻も、か。妻業は、相当、かなり、物凄ーくさぼっているけど。
稼ぎはとても少ないけれど、このバランスがこの上なく心地いい。育児も含めて三つとも好きなことだから仕事というより趣味に近いかも。じんわりとした達成感がいつもある。
いいトコ取りの生活で、ストレスをめったに感じなくなった。体調が悪かったりすると仕事しない日もあるし、NHKの「あさイチ」についつい見入ってしまった日には、今日の仕事はお昼食べてからにしよー!なんてこともしょっちゅう。気功とかママ友との付き合いとかがあると、いそいそと出かけていく。
ライター稼業の納期やら約束の訪問時間はもちろん真面目に守るけれど、どれもゆったりめなものしか受けないから、ほぼ自分の裁量で自分の1日を組み立てられる自由さがある。
以前の私だったらこんな自分を心から許可するなんてとてもできなかった。けれど、最近はそうでもない。変われば変わるもんだなぁとしみじみ思う。
人生の折り返しに来て、若い頃には美徳としていたシャカリキさに疲れたからか、違う価値観に比重を置くようになったからか、多分どちらもなんだよね。罪悪感もほとんどない。
こんな自分で、こんな毎日で、困ったことになったらその時考えようと思ったのだけど、今のところちっとも困ったことにならない。
むしろ、私の精神状態はすこぶるいいし、そのせいか不思議と夫も息子も楽しそうに見える。見えるだけでもないような気がするけど、どうなんだろう。会社や幼稚園は私の生活ほどは自由でもないけれど、だからといって2人から「ズルい」とも言われない。
今年の春まではフルタイムに近い状態で福祉系の事務仕事をしていた。朝早く起きて息子の弁当を作り、満員電車に乗り、夜になると延長保育に迎えに行き、インフルエンザシーズンには息子がかかって仕事を休む羽目になったらどうしようかとヒヤヒヤして、幼稚園が夏休みや午前保育の時には幼稚園児の息子の預け先を確保するために奔走したり。
お給料はそこそこもらって、「働いているママ」の顔ができて、自分の専門も役に立って、というのは確かに魅力だった。でも、肝心の私の気分、気持ちは置いてきぼりだったかも。
その仕事の契約更新をしないでゴールデンウィークに辞めた。更新を促されたとき「勤務日を週3にしてほしい」と条件を出したけれど飲んでもらえなかったのだ。勤務先が公的機関なので、イレギュラーの雇用が無理なのはわかっていたけれど、その条件を引っ込めてまで働くつもりもなく、再び無職になった。
自分が望んだこととはいえ、でも、実は、専業主婦に戻るのは怖かった。稼げない自分、外で働いていない自分、子どもとすごす時間が長くなるのが怖かったのだ。
怖い、怖い、と言いながら、でも腐らずになんとなく「やりたいかな」ということをやっていくことだけを考えた。そしたら、今の自由で満足度の高い生活が出来上がっていったというだけだった。
例えば、「ダンナが稼いでるからできるのよ」って言われたら、「正解」と答えるしかない。
でも、ダンナは稼ぐのが好きで得意なんだから、感謝はしても、卑屈になって自由な自分の居心地を悪くすることもない。
自由とくると、やっぱり義務は?となるのかな。
個人的には、
自由と義務は等分のセットなんだと思い込んで、というか、思い込まされてきたけれど、必ずしもそうでもないのでは、なんて思い始めている。
自由の範囲を広げてさらにそれに満喫すると、対極の義務は義務というより自由を美味しくしてくれるスパイスみたいなものになるんじゃないかな。だからスパイス担当の義務は等分である必要はない。入れすぎると辛くなるから、むしろ少なくするに越したことはない。ゼロにはできなくても、思い切って少なくしたって大丈夫。意外に怖いことは起こらなかったりする。
来年は、この生活を大切にして、「稼ぐ」にも少しだけこだわりたいな。どこまで行けるかな*\(^o^)/*
↑こんなラジコンがクリスマスプレゼントに欲しいらしい。
幼稚園児の「母」と、「ライター」としてのわずかな仕事と、日常生活に困難を抱えている人を対象にした「相談援助」の仕事の三つが生活の要になっている。あっ、一応、妻も、か。妻業は、相当、かなり、物凄ーくさぼっているけど。
稼ぎはとても少ないけれど、このバランスがこの上なく心地いい。育児も含めて三つとも好きなことだから仕事というより趣味に近いかも。じんわりとした達成感がいつもある。
いいトコ取りの生活で、ストレスをめったに感じなくなった。体調が悪かったりすると仕事しない日もあるし、NHKの「あさイチ」についつい見入ってしまった日には、今日の仕事はお昼食べてからにしよー!なんてこともしょっちゅう。気功とかママ友との付き合いとかがあると、いそいそと出かけていく。
ライター稼業の納期やら約束の訪問時間はもちろん真面目に守るけれど、どれもゆったりめなものしか受けないから、ほぼ自分の裁量で自分の1日を組み立てられる自由さがある。
以前の私だったらこんな自分を心から許可するなんてとてもできなかった。けれど、最近はそうでもない。変われば変わるもんだなぁとしみじみ思う。
人生の折り返しに来て、若い頃には美徳としていたシャカリキさに疲れたからか、違う価値観に比重を置くようになったからか、多分どちらもなんだよね。罪悪感もほとんどない。
こんな自分で、こんな毎日で、困ったことになったらその時考えようと思ったのだけど、今のところちっとも困ったことにならない。
むしろ、私の精神状態はすこぶるいいし、そのせいか不思議と夫も息子も楽しそうに見える。見えるだけでもないような気がするけど、どうなんだろう。会社や幼稚園は私の生活ほどは自由でもないけれど、だからといって2人から「ズルい」とも言われない。
今年の春まではフルタイムに近い状態で福祉系の事務仕事をしていた。朝早く起きて息子の弁当を作り、満員電車に乗り、夜になると延長保育に迎えに行き、インフルエンザシーズンには息子がかかって仕事を休む羽目になったらどうしようかとヒヤヒヤして、幼稚園が夏休みや午前保育の時には幼稚園児の息子の預け先を確保するために奔走したり。
お給料はそこそこもらって、「働いているママ」の顔ができて、自分の専門も役に立って、というのは確かに魅力だった。でも、肝心の私の気分、気持ちは置いてきぼりだったかも。
その仕事の契約更新をしないでゴールデンウィークに辞めた。更新を促されたとき「勤務日を週3にしてほしい」と条件を出したけれど飲んでもらえなかったのだ。勤務先が公的機関なので、イレギュラーの雇用が無理なのはわかっていたけれど、その条件を引っ込めてまで働くつもりもなく、再び無職になった。
自分が望んだこととはいえ、でも、実は、専業主婦に戻るのは怖かった。稼げない自分、外で働いていない自分、子どもとすごす時間が長くなるのが怖かったのだ。
怖い、怖い、と言いながら、でも腐らずになんとなく「やりたいかな」ということをやっていくことだけを考えた。そしたら、今の自由で満足度の高い生活が出来上がっていったというだけだった。
例えば、「ダンナが稼いでるからできるのよ」って言われたら、「正解」と答えるしかない。
でも、ダンナは稼ぐのが好きで得意なんだから、感謝はしても、卑屈になって自由な自分の居心地を悪くすることもない。
自由とくると、やっぱり義務は?となるのかな。
個人的には、
自由と義務は等分のセットなんだと思い込んで、というか、思い込まされてきたけれど、必ずしもそうでもないのでは、なんて思い始めている。
自由の範囲を広げてさらにそれに満喫すると、対極の義務は義務というより自由を美味しくしてくれるスパイスみたいなものになるんじゃないかな。だからスパイス担当の義務は等分である必要はない。入れすぎると辛くなるから、むしろ少なくするに越したことはない。ゼロにはできなくても、思い切って少なくしたって大丈夫。意外に怖いことは起こらなかったりする。
来年は、この生活を大切にして、「稼ぐ」にも少しだけこだわりたいな。どこまで行けるかな*\(^o^)/*
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