さっきニュースで、東京・板橋区の15歳の少年が両親を殺害した事件について、
その動機についていろいろと報じていた。
それで、ふっとうちの施設の利用者のことを思い出した。
先日、30代の女性利用者がお父さんと口論になり、あげくに暴力をふるい、自らもリストカットをした。
その翌日、まだ感情がすりむけたままの彼女と、じっくり話をした。
目を潤ませながら、彼女はお父さんに対する、申し訳ないという思い、でも許せないという思い、
そのアンビバレンツな思いに消化不良を起こしている、心のうちをはき捨てていた。
そんな、彼女が一番恐れるのは、
―――最後には、自分は父親を殺してしまうんじゃないか
というもの。
わたしは彼女の手を握って、ただ言った。
―――あなたは絶対にそんなことをする人ではないよ。そんなことができる人ではない。
あなたがお父さんを殺すなんてありえないんだから・・・。
彼女は、「そうですかね」「そうですかね」といって、目から涙をあふれさせた。
この人が、父親を殺さないと断言できる根拠があるとして、それをわたしは持っていない。
それは、わたしがたとえば自ら死なないと断言できる根拠がないとの同じだ。
病名、これまでの生育暦、普段の生活態度をみてみても、たとえば第三者に客観的に示せる、彼女が父親を殺さない根拠はない。
でも、彼女は絶対に殺さない、と思う。
彼女は絶対に殺さないと、信頼できるに値する人だと、確信があるから。
それは、わたしだけでなく、彼女を取り巻く人々の何人かが、同じ確信を持っているはずなのだ。
一人の人間が将来、
どんなことを考え、どんな行動を行うかということについて、根拠なんかはないし、
絶対ということはありえない。
信じること、そのものにこそ、すばり根拠の意味があるのだと思った。
データーや、客観的材料を示さずして、精神論に流れているように聞こえるかもしれないが、
人間というのは、最後の最後の部分は、「信じる」あるいは、「祈る」ことでしか説明できないのだと思う。
15歳の少年には、「信じ」「祈って」くれる、誰かがいなかったのか、
いてもその誰かの思いを受け取る技術を身につけることができなかったのか、
その、どちらかだったのではないだろうか。