胃カメラを飲んだ。
飲んだといっても、鼻からのやつ。痛みや不快感は想定内だった。ただ、胃に空気を注入する音なのか、なんだかすごい音がするし、目の前には自分の胃や食道が映し出されて気持ち悪いし、ただ、そのおどろおどろしい感じに閉口した。
非びらん性胃食道逆流症という病名がついた。
胃はいたって綺麗で、症状があるものには、こういう病名がつくらしい。
2週間以上、胃の不調が続いていた。食欲不振、胃酸過多、げっぷ、口の酸っぱい感じ、みぞおちの痛み等々。
もともと胃は弱いけれど、ここまで長びくのは初めて。年齢も年齢だし、テレビでは児玉清さんが胃がんで亡くなってるし、
「もしや私も胃がん?」
そう思い始めたら、最後。
いてもたってもいられず、ネットであちらこちらの情報をひっかきあつめ、自分の病名、最悪の病名も頭に描いてしまう。
そのせいもあってか、胃の調子は悪くなる一方。胃カメラを飲む日までは、生きた心地がしなかった。結局、取り越し苦労になったわけだけれども。
自分にまつわるいろんなことに、最悪の状況を思い描くのが結構多い。マイナス思考という単純な話しではなく、いいことを思い描いて結果が悪かった場合、その落差に絶望するのはご免という感じ、
いわゆる防衛機制的な面もあるのだと思う。
こと、体の変調に関しては特にその傾向が強くて、年中、頭の中では「がん」にかかっている。
それにしても、私は、何が怖いのかな。
「がん」は怖い。それは認める。けれど、死ぬのが怖いか?という質問まで切り詰めていくと、わからない、となる。
「がん」というものの、その破壊的なイメージのせいだろうか。がんと同じように死亡率の高い心臓病、脳梗塞は、それほどまでに怖いと思えない。
たとえば、飛行機がおちる、というのはどうだろう。
それは、とてつもない恐怖。それって死への恐怖なのだろうか。うん、やっぱり死の恐怖のような気もする。感覚的な恐怖。
そうなんだ、死は感覚的な恐怖なんだ。
理屈を超えた恐怖なんだ。
池田晶子さんは、死が怖くない、死などそもそもない、と言っていた。
治療はしていたようだが、最後まで、がんと積極的に闘うでもなく、逝った。
死が怖くない池田さんも、最初の告知の時はどんな心境だったんだろう、なんて考える。飛行機が落ちそうになったら、心臓がバクバクしたりしないだろうか、とか。
池田さんだけじゃない。
死を怖くない、という人は結構いる。
「だからあなたも生き抜いて」の大平光代さんも、天国の存在を否定して最近話題になっていたホーキング博士も、死は怖くないと断言する。
子どものためだったり、まだしたいことがたくさんあったり、まだ、生きていたいとは思うけれど、特段死は怖くないと。
そういう人たちは、がんを告知された時、飛行機が落ちそうになった時、どうなんだろう。それは、それなりに恐怖を覚えるのだろうか。
その恐怖と死は必ずしもつながらないのだろうか。
死生観の話しが出てくると、必ずと言っていいほど、
「今を生きること」こそが大切、というような結論に持っていかれる。
池田さんの本にも、僧侶であり作家の玄侑さんの本にも、最近読んだ「父親が息子に伝える17の大切なこと」という本にも、そんなニュアンスの文章が並んでいた。
私としては、軽い肩すかしをくらった気分になる。
厳密に言えば、死を見つめることと、今を生きる、という二つがどうしてつながるのかわからない。
ただ、私の敬愛する人たちが口をそろえて言っているのだから、きっとそこには、広大無辺で深遠な、何かがあるのだろう。
胃カメラから、ずいぶんは話がそれてしまったけれど、何が言いたいのか、というと・・・。
私もそろそろ人生の折り返し地点にいる。感覚的な死への恐怖を超えて(少しずつ克服して)、自分なりの死生観を築いていく時期に足を踏み入れたのかな、
なんて思い始めているのだ。