すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

私は私にどんな言葉を掛けているか。

2016-04-17 12:39:01 | ひとりごと
失敗した時、難しいタスクを背負わされた時、傷つく言葉を投げかけられた時、私の胸には、重苦しい実感が広がります。その実感に無意識でいると、身体全体に重苦しさが広がります。

これは、目の前の現象をジャッジした、その思考がキャッチされないまま、感情や体感に落とし込まれた状態です。


これを放置すると、私の中からエネルギーがどんどん奪われます。元気がなくなる時、私の場合、こうしたことが積み重なっていることが多いようです。

もちろん、思考のすべてが私のエネルギーを奪うわけではありません。エネルギーを奪うのは、何と言っても、「自分を責めたり、ジャッジする思考」。この思考が、不安や喪失感、苛立ちの感情や、重苦しい実感を生み、私のエネルギーをものすごい勢いで消費します。


思考の中でも、特に自分に向けて投げかける思考は、まさに自動的で、気付かないくらいの速さで瞬時に起こります。「思考」であると認識できないくらい、すでに私と一体化しているものが多いからですね。

そんな事から、こうした「自分を責めたり、ジャッジする思考」に気づくのは、だいたい体感・感情まで降りた後になるんです。


🔸🔸🔸

ここから思考の観察と置き換えを試みていきます。

まずは、体感や感情の種類から、思考をたどっていき、言葉にしてみます。

たとえば、何か失敗した時の自動思考は、こんな感じ。

あっ、またやった。
ダメなヤツ。
最近、失敗ばかり。
どうして、私はいつもこんな風なんだろ。
周囲から、「失敗ばかりする」と思われたかも。
また、失敗したらどうしよう。怖い。
対策、対策、ああどうしたら…。
どうせ、失敗してしまうよ。



難しいタスクを背負わされた時は、こんな風。

ムリムリ。
私には、荷が重いよ。
うまくできる気がしない。
助けてくれる人がいないかも。
クレーム、たくさん来るだろうな。
途方にくれてる自分の姿が目に浮かぶ。



これ、列挙するだけで、私が私をどんな人間だと思っているかがわかります(笑)。ちなみに、これらは全部事実ではありませんが、自動思考を私だと思っている限り、これは私の中の事実になります。


これを観察して距離を置くだけでもいいのですが、私は、違う思考への置き換えを試みます。


失敗の時は、

失敗しようとして失敗したわけじゃないよ。
私は、おっちょこちょいで失敗はよくするけど、大きな失敗はめったにしない。
あの人もこの人も、時には失敗してるよ。
疲れてるんだ、仕方ない。
失敗を責めたら、もっと失敗するから。



タスクだったら、

でも、あれだって、これだってできたよね。
意外と私はできる人かもよ。
助けてくれる人もいるでしょ。
100点とろうとしなきゃいい。
80点、60点でも十分。
最悪、どうにもならなくなったら「できません」って泣きつけばいいよ。
できるタスクしか降ってこないさ。


こんな風に、体感と感情が緩む思考を見つけて、自分の中に落とし込みます。そうすると、私の中のエネルギーがまた溜まり始めるのがわかります。元気が戻ってきます。


これが、あまりにかけ離れた思考だとダメなんです。「私は、絶対できる!」「必ずうまくいくはず!」とかね。自分の中になじまないだけでなくて、逆に緊張を生んだりしますからね。一歩だけ、半歩だけ、思考を変えて、自分が緩むのを確かめいく感じです。



最近、小さな失敗が重なって、こんなことを地道に実践しています。それで、つくづく思いますよ。

普段はもちろん、失敗した時や、困難に見舞われた時に、私が、私にどんな言葉をかけているのか。それが、本当に本当に重要なんだって。

私は、私から掛けられた言葉の集積によって造られるんです。そして、それを基盤にして、私がこの世の中をどう思うのか、私が他人をどう思うのか、が自動的に決まっていくんですよ。

私の人生、佇まい、もう、あらゆることが、私が私にどんな言葉を掛けて、私が、私をどう思っているか、に収斂されていきます。

だからこそ、私が、私に普段どんな言葉を掛けているか。小さくて、聞こえない言葉、やり過ごしている言葉の中に、私を責める声、私を貶める声、私を蔑ろにする声が大量に混じっていないか、に意識的に耳を傾ける必要があるんですね。




九州の空は、今日は快晴です。地震に痛めつけらた家々やひとの心に、優しい光が差し込んでいます。

熊本の傷はあまりに深く、癒えるにはまだまだ時間がかかりそうですが、被災された方たちが、ひとときでも、このすみきった青空を見上げ、明日の希望を見つけてくださることを、心から祈っています。

「私」を満たしながら。

2016-04-14 20:07:18 | ひとりごと
最近の自分の読書傾向のせいなのですが、こんなメッセージをよく目にします。


「私」なんていない。
「自我」を捨てる。
「マインド」が悪い。
「思考」が悪い。

「気づき意識」を育てる。
「魂」の声を聞く。
「真我」「ハイヤーセルフ」につながる。
「ハート」「仏心」で生きる。
すべての存在は「無我」。



全部、ぜーんぶ、ある一つの真実を伝えるメッセージだとは思うのですが、これだけだと、大切なことを受け取り損ねてしまうかも、と感じるんですよね。


それは、こういうこと。


私、自我、思考、つまり、私の介在によって起きる現象、「私」の世界が安定していないと、

もっと噛み砕いて言えば、「私は私」「私は私でいい」「私は価値がある」「私は善良だ」という、程よい自己肯定感と、「この世は比較的安全なところだ」「他人は概ね信頼できる」という、自分を取り巻く環境への基本的な信頼感が低いと、

「私」と自我と思考を超えた世界とつながることは難しいのではないでしょうか。


「私」が満たされていない人、自我が安定していない人、思考が極端にマイナスにふれる人が、いきなりそっちの世界を覗こうとすると、ものすごくバランスを欠いてしまう、ということが起こり得る気がするのです。

例えば、自我の弱い人に、自我を捨てなさいなどというメッセージは、さらに自己犠牲的な意識を課すかも知れません。そうなると、満たされていない自我が暴れだすか潜在意識に抑圧されるはずです。

自分を観察する、見つめる、というあり方も、ある程度安定した自我がいないと、観察ではなくてジャッジに傾きます。そして、その違いもわからなくて、途方に暮れることになるかもしれません。


🔹🔹🔹


子どもを見ていると、わかりやすい。彼らは、自我を全身にまとった存在です。その自我を満たしてやることなしに、彼らの心の成長はありません。

「私」なんてないのよ、などと子どもに教えても仕方がないと思うのです。まずは、自我のめざめを促し、「私」という土台を丈夫なものにしてやることの方が、うんと大切な気がします。

そして、満たすというのは、なんでもかんでも「私」の思い通りにする、ということではなくて、「私」の言い分を無視しない、「私」の声に丁寧に耳を傾けるということです。もちろん、必要であれば、その都度満たしながら。


結局は、大人も同じでね。

例えば、「私」を粗末にされてきた人、「私」を自分で粗末にしてきた人は、まずは「私」をはっきりと浮き上がらせることなんですよね。


「私」のために意見を言う
「私」の居心地のよい環境を選ぶ
「私」の好き嫌いを認める
時には、
「私」のために、怒る、泣く、戦う



自分に割り当てられた「私」をしっかり生きることをしないで、「空」だハイヤーセルフだと言っても、どこか虚しい。捨てたつもりになった自我の逆襲に合うだけなのかな、と。

つまり、「私」を蔑ろにしても、「私」は決して消えてなんてくれないし、逆に消そうとすればするほど、より力を得るのです。

「私はいない」という体験は、「私」が鮮明になって初めて、立ち現れる可能性を持つものなのかもしれません。


自我が安定している人も、悟りの領域に足を踏み入れている人も、人間というあり方を生きる限りは、「私」という土台を帳消しにはできません。自我から発せられる欲求がなくなるわけでもないでしょう。

どんな道も「私」を満たしながら進むもの、どんなあり方も「私」を満たしながら深めるもの。 そんな風に思うのです。












改めて、許すこと。

2016-04-06 07:51:01 | ひとりごと
前回紹介したウ・ジョーティカ師の書簡集「許すこと」を何度か読み返して、私なりにこんなことを考えました。

マインドフルを心掛ける時、自分を傷つける人や嫌な気分にさせる人、その人の言葉や行動に対して、人の意識は、こんな風に変化・成長していくんじゃないか、と。

反応する
(責める、仕返しする、怒る、自分を責める等)


離れる


構わない


許す


まずは、「反応する」。怒る、責める等は、いたって普通の反応。負の意味において、相手や相手の言葉、行動に積極的に関わっていく姿勢です。

自分の心には1番負荷の高い意識の状態ですが、無意識に反応し続けると、中々そこから抜け出せません。


そして「離れる」。相手や出来事から自分の心を離していくという意識。避ける、関わらないとも言えます。「嫌いな人とは距離を置きましょう」というフレーズは心理学の本でもよく出てきます。

ただし、距離を置く、避ける、という意識は、その相手や出来事がどうでもよくなったというわけではありません。嫌な人や嫌な環境から逃げ続けることを余儀なくされることもあります。


さらに「構わない」。これが、今、私が一番目指しているというか、気に入っている意識のあり方です。

自分を傷つける人、不機嫌な人、苦手な人、のその言動や態度には構わない。これは、関わらないというのと近いのですが、関わらないのが視界に入れない、そっぽを向くというイメージなのに対して、関わりはあっても、視界に入っても、こだわらない、自分の心にダメージを与えさせない、というイメージです。


最後の「許す」は、自分を傷つけた相手を理解して、慈愛を向け、共感するということを含みます。最初の反応が、負の関わりだとすると、こちらは正の関わりです。相手や内容によっては、簡単にできる場合もありますが、多くの場合は、最難関の道です。


これらの、意識のあり方は、相手や出来事によっても変わりますから、優劣を一概に言えるものではありません。

例えば、誰かにいじめられたら、まずは怒ることが必要な場合もありますし、何より関わらないことが最良な選択の場合もあります。

自分を誤魔化して許すふりをするくらいなら、反応する自分に素直になり、思い切って反論した方がずっといい場面だってあるわけです。


ただ、大ざっぱな言い方をすれば、下の意識に向かえば向かうほど、下の意識が自然になればなるほど、もう誰かに簡単に傷つけられる、傷つけさせる自分ではなくなっているということです。

自分の価値が、他人の言動に左右されない状態、他人に自分の心の平和を奪われない状態です。まさに自由の境地です。


🔸🔸🔸

ところで、
5年ほど前に、私、こんなブログ「許すとか、許さないとか」を書いていました。

結婚してから何年目かの、夫婦の危機があり、「許すこと」が、私にとって、大きなテーマになっていた頃です。

夫がしたことによって、私は傷ついた、傷つけられた、私は被害者なんだ、と大騒ぎしました。反応しまくりました。夫を責めて、責めて、責め倒しました。

夫がしたことは褒められたことではないけれど、世の中には、多分、同じようなことが起きても、それほど反応しない妻だったり、傷つけらたと思わない妻も一定数いるんだろうな、と今になるとわかります。

それなら、私と、その妻と何が違うか。それは、夫のしたことと自分の価値を結びつけるかつけないか、だと思うのです。自分を被害者にするか、しないか、だと思うのです。

もちろん、ある出来事には反応しない人でも、別な出来事になると多いに反応する、ということは普通にありうることだと思いますけどね。


そして、自分の文章を読み返して、はたと考えました。

今なら、今の私ならどうするだろう、夫が同じことをしたらどうするだろう。

まあ、その場にならないとわかりませんが、夫を責めたり、夫に呆れたりはしても、恐らく、私自身、昔みたいな傷つき方はしないだろうな、被害者にもならないだろうな、というのは感じます。

何故か。

それは、夫を含めて、他者の言動は自分の心に致命的な傷を与えられない、と少しは思えるほどに、私の心が強く、しなやかに、変化したからだと思うのです。この変化は、私の5年間の成長です。

この自分の心の変化を辿るとき、許すこと、の本質は、行為ではなくて、あり方なのかもしれないな、としみじみ思うのです。

自分の心を自分で守ることができる人、自分の心の平和を他者の言動に委ねない人は、他者に対して許すことを意識しなくても、すでに許している、許せる人なんですね。


ウ・ジョーティカ師は、「許すこと」の最後の方で、こう書いています。

私は、誰についても、もう許す必要もありません。私はオーケーということができる。

許す必要もないほど、すでに許しているということですね。師の心の境地です。


この人生の中で、とても、そんな境地にまでは辿りつけませんが、少しずつ、一歩ずつ、目指していけたらいいな。これが、私のマインドフルネス道でもあります。