久しぶりの更新です。
錦織選手の今シーズンが終わった今日。ツアーファイナルの準決勝で、ついこの間まで世界ランキング一位のジョコビッチに、あっと言う間に勝ちを持ち去られました。惨敗ってやつです。チリッチに負けた時に感じた予感は、「やっぱり」という実感とともに現実となりました。
すっきりとした気持ちでシーズンオフを迎えたかったけれど、澱のように心を覆う悔しさと寂しさとモヤモヤ。一ファンの私はもちろん、ご本人も今頃似たような重い感情エネルギーを抱えていると思います。でも、どこかでこの感情に徹底的に浸るのも悪くないなぁと思っています。
いやいや、オリンピックの銅メダルをはじめ今年の錦織選手の活躍は評価すべき点の方が多いでしょ、なんて頭で感情を説得するよりも、この不快さを感じ切る。たとえ感じ切れず、残ったままでも、その不快さを受け入れる気持ちがあれば、その感情は、やがて違うもの、もっと素晴らしいものに姿を変えますからね。
まあ、どっちにしても、来年もファンはただただ応援するのみ。色んな感情を味わうのみ。逆に言えは、色んな感情を味わいたくて、錦織選手を応援してるんですからね。
すいません、独りよがりなテニスネタで(苦笑)。
さて、錦織ネタはここまで。
🔸🔸🔸
今日は、「行動」をキーワードに書いてみようと思います。
自分の中に湧き上がる感情や思考に意識を向けることは、瞑想に長けた人や、自分の内面と向き合うことが上手な人は、得意かもしれませんね。
ある出来事によって不快な感情が起きた時に、その感情を作り出した思考、さらにはビリーフ(自分が深いところで信じていること)を突き止める、というのは、自分の心のパターンをつかむ方法の定番中の定番かもしれません。
でも、パターンはつかんだけれど、なかなかそのパターンから抜け出せないってことも、あるんじゃないかしら。いや、そっちの方が多いかもね。何をかくそう、私もそれ(笑)。
見たら終わっていく
気づきを入れたら消える
なんてメッセージは理想ですが、長年のパターンが染み付いた心は、そんなに簡単でもない。
まあこれはこれとして、もっとシンプルな方法もあるんですよね。もちろんシンプルですけど、簡単ではありません。楽チンでもありません。(笑)
それは、自分の行動を見ていく
さらに、その行動を止めるということです。
たとえばね、
メールはすぐに返信する
愛想笑いがクセ
贈り物にはすぐにお返しする
自分だけ違うメニューを頼めない
体調が悪くても休めない
頼みごとをしない
仕事を手伝ってほしいと言えない
文句が言えない
先に帰ることができない
必ず自分からあいさつする
誘われたら断れない
手紙もメールも前置きが長い
などなど。
こうした行動から、自分が深いところで何を信じているのか、何を怖がっているかが見えます。
相手のために、とか、常識だから、とか、善悪のジャッジも外して、ただ自分がそう行動せざるを得ない理由、自分が何を信じているかを見ていきます。
たとえば、愛想笑い、という行動には、「無愛想な顔は、生意気と思われる」「どんな時でも笑顔でいることが大切」「笑顔でいれば敵を作らない」「素直な感情を顔に出してはいけない」といったビリーフがあるかもしれません。
でね、このビリーフが自分にあることを認めて、これは必ずしも事実ではないよな、思い込みの部分が大きいよな、さらには、このビリーフは自分を大切にしないよな、傷つけているよな、捨てた方がいいよな、と頭で理解できたとします。それは大きな前進ではあるけれども、自分のパターンは大概ビクともしません。
ためしに、その行動を止めようとする時に、どんな感情が湧いてくるのか想像してみます。多分、「怖さ」か「罪悪感」が強く湧き上がるはずです。少し湧き上がるけだけで、行動は止められる、というレベルのものなら、悩みの種にもなりませんし、生きずらさや何らかの心の症状も生まないでしょうね。
その行動をせざるをえない理由は、深いところで自分のビリーフが事実だと認識しているからで、そのビリーフから生まれてくる圧倒的な不快な感情を避けるためです。別の言い方をすれば、自分が作り出した架空の危険状態に自分が晒されないよう、健気なまでに「怖いこと」と「罪悪感を感じてしまうこと」を避け続けています。
でも、これは心の盲点なんですが、避ければ避けるほど、「それ」は怖くなり、実体を持ち、ビリーフを強化します。自分と自分の心を守るためにしてきたはずの「避ける」ための行動が、結局はもっと自分を危険に晒し、自由を奪い、生きずらさを植え付けます。
じゃあ、どうするのか。
はい、その行動を止めるしかありません。
止めたら何が起きるのか。
恐怖や罪悪感がやってきます。わんさわんさと出てきます。はっきり言って苦痛です。ジャッジしないように、とか、感覚として感じる、というアドバイスもよく聞きますが、どっちにしても気持ちのいいものではありません。だから、シンプルだけど、簡単ではないし、ラクでもないんです。でも、だからこそ逃げないで、あえて自分から迎えに行くつもりで、その恐怖と罪悪感を受け入れにいきます。
私は、PMSなど体調が不安定になると「忘れ物をする恐怖」と「過度に確認してしまう」という強迫観念と強迫行為がやや出てくる傾向があって(この話はまた機会があれば書きます)、少し認知行動療法の暴露療法も勉強しましたが、暴露療法では、こんな風にあえて不安にさらすことは「不安に慣れるため」で、さらされ続けることで不安が軽減されると説明されています。
私的には、不安に慣れる、というよりは「感情を味わう」「感じきって手放す」という表現の方が好きですね。感じたら感じた分だけ自分のなかにある不安の総量が減って自由になる、というイメージがご褒美感を与えてくれます(笑)。
心屋さんの言ってる「逆をやる」「やりたい事をやるためには1番やりたくない事をやる」や、セドナメソッドほかさまざま感情解放ワークも、EFTなどのエネルギー療法も、避けていること、抑圧している感情を受け入れるためのメソッドなんですね。おおざっぱに言えば。
避けていることをやるのは大変なことですが、でも、その避けているところにこそ宝物が眠っています。自分が注ぎつづけているかけがえのないエネルギーが眠っているんです。
色々試してみるのもよし、一本釣りもよし、ですが、どちらにしても、どのやり方にしても自分と向き合うことは外せません。そのための勇気と意志はもちろん、これは忘れがちになるんですが、続けられなかったり投げやりになりそうになる自分も認める、自分への寛容さが物凄く大事です。
この寛容さ、自己愛とも言えますが、この土台がないと、自分と向き合うというのはただの苦行になりますからね。子育てには父性と母性の両方が大切ですが、それと似ているかもしれません。
頭ではなくて、
行動して、体験して、
実感として受け入れたら終わる、
のでしょうね。
そして、そのためには、ドリカムではないけれど、「何度でも」「何度でも」「何度でも」です。
錦織選手の今シーズンが終わった今日。ツアーファイナルの準決勝で、ついこの間まで世界ランキング一位のジョコビッチに、あっと言う間に勝ちを持ち去られました。惨敗ってやつです。チリッチに負けた時に感じた予感は、「やっぱり」という実感とともに現実となりました。
すっきりとした気持ちでシーズンオフを迎えたかったけれど、澱のように心を覆う悔しさと寂しさとモヤモヤ。一ファンの私はもちろん、ご本人も今頃似たような重い感情エネルギーを抱えていると思います。でも、どこかでこの感情に徹底的に浸るのも悪くないなぁと思っています。
いやいや、オリンピックの銅メダルをはじめ今年の錦織選手の活躍は評価すべき点の方が多いでしょ、なんて頭で感情を説得するよりも、この不快さを感じ切る。たとえ感じ切れず、残ったままでも、その不快さを受け入れる気持ちがあれば、その感情は、やがて違うもの、もっと素晴らしいものに姿を変えますからね。
まあ、どっちにしても、来年もファンはただただ応援するのみ。色んな感情を味わうのみ。逆に言えは、色んな感情を味わいたくて、錦織選手を応援してるんですからね。
すいません、独りよがりなテニスネタで(苦笑)。
さて、錦織ネタはここまで。
🔸🔸🔸
今日は、「行動」をキーワードに書いてみようと思います。
自分の中に湧き上がる感情や思考に意識を向けることは、瞑想に長けた人や、自分の内面と向き合うことが上手な人は、得意かもしれませんね。
ある出来事によって不快な感情が起きた時に、その感情を作り出した思考、さらにはビリーフ(自分が深いところで信じていること)を突き止める、というのは、自分の心のパターンをつかむ方法の定番中の定番かもしれません。
でも、パターンはつかんだけれど、なかなかそのパターンから抜け出せないってことも、あるんじゃないかしら。いや、そっちの方が多いかもね。何をかくそう、私もそれ(笑)。
見たら終わっていく
気づきを入れたら消える
なんてメッセージは理想ですが、長年のパターンが染み付いた心は、そんなに簡単でもない。
まあこれはこれとして、もっとシンプルな方法もあるんですよね。もちろんシンプルですけど、簡単ではありません。楽チンでもありません。(笑)
それは、自分の行動を見ていく
さらに、その行動を止めるということです。
たとえばね、
メールはすぐに返信する
愛想笑いがクセ
贈り物にはすぐにお返しする
自分だけ違うメニューを頼めない
体調が悪くても休めない
頼みごとをしない
仕事を手伝ってほしいと言えない
文句が言えない
先に帰ることができない
必ず自分からあいさつする
誘われたら断れない
手紙もメールも前置きが長い
などなど。
こうした行動から、自分が深いところで何を信じているのか、何を怖がっているかが見えます。
相手のために、とか、常識だから、とか、善悪のジャッジも外して、ただ自分がそう行動せざるを得ない理由、自分が何を信じているかを見ていきます。
たとえば、愛想笑い、という行動には、「無愛想な顔は、生意気と思われる」「どんな時でも笑顔でいることが大切」「笑顔でいれば敵を作らない」「素直な感情を顔に出してはいけない」といったビリーフがあるかもしれません。
でね、このビリーフが自分にあることを認めて、これは必ずしも事実ではないよな、思い込みの部分が大きいよな、さらには、このビリーフは自分を大切にしないよな、傷つけているよな、捨てた方がいいよな、と頭で理解できたとします。それは大きな前進ではあるけれども、自分のパターンは大概ビクともしません。
ためしに、その行動を止めようとする時に、どんな感情が湧いてくるのか想像してみます。多分、「怖さ」か「罪悪感」が強く湧き上がるはずです。少し湧き上がるけだけで、行動は止められる、というレベルのものなら、悩みの種にもなりませんし、生きずらさや何らかの心の症状も生まないでしょうね。
その行動をせざるをえない理由は、深いところで自分のビリーフが事実だと認識しているからで、そのビリーフから生まれてくる圧倒的な不快な感情を避けるためです。別の言い方をすれば、自分が作り出した架空の危険状態に自分が晒されないよう、健気なまでに「怖いこと」と「罪悪感を感じてしまうこと」を避け続けています。
でも、これは心の盲点なんですが、避ければ避けるほど、「それ」は怖くなり、実体を持ち、ビリーフを強化します。自分と自分の心を守るためにしてきたはずの「避ける」ための行動が、結局はもっと自分を危険に晒し、自由を奪い、生きずらさを植え付けます。
じゃあ、どうするのか。
はい、その行動を止めるしかありません。
止めたら何が起きるのか。
恐怖や罪悪感がやってきます。わんさわんさと出てきます。はっきり言って苦痛です。ジャッジしないように、とか、感覚として感じる、というアドバイスもよく聞きますが、どっちにしても気持ちのいいものではありません。だから、シンプルだけど、簡単ではないし、ラクでもないんです。でも、だからこそ逃げないで、あえて自分から迎えに行くつもりで、その恐怖と罪悪感を受け入れにいきます。
私は、PMSなど体調が不安定になると「忘れ物をする恐怖」と「過度に確認してしまう」という強迫観念と強迫行為がやや出てくる傾向があって(この話はまた機会があれば書きます)、少し認知行動療法の暴露療法も勉強しましたが、暴露療法では、こんな風にあえて不安にさらすことは「不安に慣れるため」で、さらされ続けることで不安が軽減されると説明されています。
私的には、不安に慣れる、というよりは「感情を味わう」「感じきって手放す」という表現の方が好きですね。感じたら感じた分だけ自分のなかにある不安の総量が減って自由になる、というイメージがご褒美感を与えてくれます(笑)。
心屋さんの言ってる「逆をやる」「やりたい事をやるためには1番やりたくない事をやる」や、セドナメソッドほかさまざま感情解放ワークも、EFTなどのエネルギー療法も、避けていること、抑圧している感情を受け入れるためのメソッドなんですね。おおざっぱに言えば。
避けていることをやるのは大変なことですが、でも、その避けているところにこそ宝物が眠っています。自分が注ぎつづけているかけがえのないエネルギーが眠っているんです。
色々試してみるのもよし、一本釣りもよし、ですが、どちらにしても、どのやり方にしても自分と向き合うことは外せません。そのための勇気と意志はもちろん、これは忘れがちになるんですが、続けられなかったり投げやりになりそうになる自分も認める、自分への寛容さが物凄く大事です。
この寛容さ、自己愛とも言えますが、この土台がないと、自分と向き合うというのはただの苦行になりますからね。子育てには父性と母性の両方が大切ですが、それと似ているかもしれません。
頭ではなくて、
行動して、体験して、
実感として受け入れたら終わる、
のでしょうね。
そして、そのためには、ドリカムではないけれど、「何度でも」「何度でも」「何度でも」です。
一度でも自分の心の声を優先する行動をしたら、すこしづつでも変われるかもしれませんね。やってみます!
どんな事も、少しずつって、のがミソですよね!どうしても、すぐ結果が欲しくなりますものね。私も日々試行錯誤てす。