すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

自分を裏切るということ

2006-04-29 23:08:04 | ひとりごと

自分の感情を裏切ると、
後から必ずしっぺ返しにあう。
そして、そのツケは必ず支払わされる。

週末ごとに、
本当は行きたくもないゴルフ接待に付き合う。
それを一度ならず何度も何度も繰り返す。
「行きたくない」という感情は、
何度も何度も裏切られて、
心に蓄積される。
最初は「行きたくない」という
不快レベルだったものが、
やがて形を変えて、
手に負えないものになっていく。

例えば、
ゴルフ接待をさせた人に嫌悪感をいだく。
あるいは、会社や、仕事に嫌悪感をいだく。
人間関係が悪くなる人も、
仕事への意欲がうせている人も、
自分の感情を裏切ってないかどうか、
意味のない我慢ばかりをしていないかどうか、
検証してみる価値はある。

嫌悪感はやがて憎しみに変わる。
「あいつのせいだ!あいつが憎い!」
「会社のせいだ!会社が憎い!」
裏切った感情が、
なだめられるでもなく大事にされるでもなく、
そのままに放置されれば、反乱せざるをえない。
「あいつを殴りつけてやる!」
「こんな仕事はやめてやる!」
なんてことになるかもしれない。

こうなったら、相当深刻だ。
問題の本質は、
猛々しい感情の下にすっかり埋もれてしまう。

嫌悪、憎悪にまでふくらまないように、
不快レベルの感情に対して、
自分でできることはしておくに限る。

自分の中に芽生えた嫌悪感や憎しみを、
周囲のせいにする人たちは、
自分を蝕むことはない。
自分を傷つけることはない。
何度か痛い経験をして、
自分の問題である、という気づきにいたったときに、
(いたらない人も結構いるが・・・)
問題が解決できることはある。

仕事人間で特にまじめな人の場合がやっかいだ。
「行きたくない」という思いすらかき消し、
理由もわからず他人や会社に嫌悪感や憎しみを抱く自分を、
その感情を、否定し、責めるようになる。
そして、混乱する。

裏切られた感情は自分の中に舞い戻ってきても、
温かく迎えられるどころか、
激しくつっぱねられ、
あるいは無視され、
行き場をなくしてしまう。
そして、身体の不調や心の疾患などに、
摩り替えられてしまうことになる。

もちろん、
社会で生きている限り、
自分の感情を最優先できることばかりじゃない。
ゴルフの接待だって、
いつも断れるわけでもない。

でも、自分の感情がどんなメッセージを発しているかには、
敏感であってもいい。
時には、周囲に迷惑にかけないように上手に断る方法も必要だ。
あるいは、
「これは、自分が心から望んでいる出世のためだからさ、
そんなに嫌がらないで、頼むよ!
帰ってきたら、好きなビールで一人乾杯して自由を満喫させて
あげるからさ」
といった具合に、感情と取引をしたり、
巧みに納得させることも大事だ。

感情は生き物。
生きているものは大事に扱わないといけない。
そして、感情は素直で正直だ。
人間と同じで素直で正直な人は、
反応もストレートだから、裏切るとあとが怖い。

人を裏切るのもいけない。
でも、自分を裏切ることが一番いけないことなのかもしれない。



映画「かもめ食堂」

2006-04-28 01:31:28 | 本・映画・音楽
いやぁ、よかった、よかった。「かもめ食堂」。
レディスデーで千円だったので、
友だちと小さな映画館まで出かけてきました!
(もう、すごい行列・・・)

劇的なストーリー展開があるわけでもないし、
恋愛のエピソードが描かれてるわけでもない。
どんな話?と聞かれても、
言葉に詰まってしまうような、
そんな映画なのだけど、
でも、とにかく理屈ぬきでいいんだな、これが。

舞台はフィンランドという非日常の設定なのだけど、
内容は、「かもめ」という名の食堂を舞台にした、
まるっきり日常の世界。
まさに、生活の一コマ一コマの点綴だ。

こんなにも豊かで、ぜいたくな普通を生きられるなら、
大金もちや、セレブといわれる人たちが、
気の毒に思えてきたりする。(なあんて・・・)

もちろん、
普通を楽しむのも、
日常を豊かにするも、
実はそうは簡単なことじゃない。
それには、とっても大事なコトがある。

自分にとっての幸せを良くわかっていること。
そして、肩肘張らずに、
目の前にあることを、
楽しみと喜びをもって丁寧に淡々とこなし、
さらに、自分自身や自分が掲げる信念や目標、夢なんかを、
あせらず、ゆるぎなく、
信じ切れる力を持っていることかな。
これ、簡単なようで、難しい。
難しいけど、
ありのままの自分を掘り当てて、
そこに充分に浸かることができたら、
見えてくることはあるかも。

ところで、
主人公の女性を演じたのは、
三谷幸喜夫人でもある小林聡美さん。
独特の雰囲気をもつ、素敵な女優さんだ。
ドラマの「すいか」を見たときにかなりほれ込み、
今回いっそうファンになった。
決して美人女優というくくりの中にはいる人ではないけど、
愛らしくて、あたかかで、キュートで、
でも、決して折れない、
しなやかで強い心の芯を持っていそうな女の人だ。

そのイメージ、「かもめ食堂」の主人公と、
そっくりそのまま重なる。まさにはまり役だね。
だから、演技も映画の空気も、
あんなに自然なんだよなぁ。

今日は、わたしも贅沢な時間をもらったぁ。
日常、万歳!普通、バンザイ!

自分も大事にする

2006-04-26 23:24:44 | ひとりごと

自分を大事にするのが下手な人がいる。
いやなことはすべて自分が引き受けたり、
常に与える側、我慢する側に回ったり。
自分は、常に後回し、後回しの人。

まるで、
他人が幸せになるためには、
自分が不幸でないとならないと思っているみたいだ。
他人が不幸である限り、
自分は幸せになってはいけないと思っているみたいだ。

確かに、
「自分を抑えて他人を優先させる」
みたいなことって、
学校や家庭で教えられた。
ことあるごとに、
大人たちから教えられた。

美徳ではある。
それが大切な場合もあるだろう。
でも、自分を後回しすることが、
周囲にとって必ずしもいいことではなかったりもする。

じゃんけんをして何かの当番を決めるとき、
勝負を降りて、
わざわざ自分がやるって言わなくたって良い。
そこにいるみんなが、
等分の責任を負うことも
みんなの成長にとって必要なことだ。

他人も大切にする、
でもその前か後か、
同じくらいの割合で自分も大切にする。
それって当たり前のこと。

自然、地球、友だち、家族、恋人、仕事、ふるさと、
自分にとってかけがえのないものたち。
自分にかかわるすべてのものを大事にしようって決めるのなら、
自分自身を除外するのはおかしい。
むしろ、自分もその中に積極的に入れるべきなのだ。

自分を大事にするから、
それ以外のことも大事にできる。
自分の面倒をちゃんと見てあげられるから、
それ以外の面倒もちゃんと見てあげられる。

自分が後回しの時があってもいいし、
自分が一番の時があっても良い。
とにかく、
大事なものにちゃんと自分も入れるんだ。
自分のことも、
自分が大事にしているものと同じように、
時には、
それ以上に大事にしていい。



どんな人も、世界に影響を与えている

2006-04-26 00:25:50 | ひとりごと

この世で何も成し遂げていない。
何も生み出していない。
誰にも影響を与えていない。
だから、自分はいてもいなくても同じ。
この世界にとって、この宇宙にとって、
いてもいなくても、大して変わらない存在。
むしろ、迷惑ばかりかける、
やっかいでお荷物な存在。

人生のなかで何度か、
そんな風にため息をつきたくなることはある。
常に、そう思っている人もいるかもしれない。
わたしも、以前はそうだった。
非生産的な自分が恨めしかった。
いろんなことを成し遂げ、生み出し、
多くの人に影響を与えている人が眩しかった。
でも、それは一つの見方にすぎないのでは、
と思うようになった。

人間は、ただ存在しているだけで、
世界にたいして、宇宙にたいして、
ものすごいことをしてしまっている。
意図しなくても、意識しなくても、
ただいるだけで、
ものすごい影響を与えてしまっている。
いや、気休めじゃなくて。
実際に、そうなのだと思う。

成し遂げたこと、
生み出したもの、
影響を与えたこと、
は、目に見える部分に過ぎない。
人間の心の意識と無意識の関係と同じで、
人が人に与えうる影響というのは、
実際は、目に見える部分よりも見えない部分のほうが、
はるかに広大で、深遠だったりするのだ。

例えばの話。
中学に入学したわたし。クラスは3組。
もし、わたしが存在しなかったら、
3組には別の人が入っていた。
その人を、仮にAさんとする。
わたしがいた場合には2組だったAさんが、
わたしがいないために3組に入れられる。
となると、Aさんのいない2組には、
また別の人が入ることになる。

こんなふうに、わたしがいるいないとで、
同じ学年のあらゆる人に際限なく影響が及ぶ。

Aさんの未来の人生も、
3組と2組とでは大きく変わるかもしれない。
わたしがいて2組ですごしおかげで、
Aさんは、
担任の先生にあこがれて教師を目指したかもしれない。
将来の奥さんになる人との出会いがあるのかもしれない。
友だちとけんかをして不登校になるかもしれない。
体育の授業で大怪我をするかもしれない。
そして、そうした出来事が、
AさんとAさんにつながる人たち、
またその人たちからつながる別の人たちに、
水の波紋のように影響を与えていく。

もちろん、それはわたしがしたことによる結果ではない。
わたしが意図したことによる結果ではない。
ただ、わたしが存在するという、
それだけで生まれ得た結果だ。
わたしの存在が、結果の直接要因ではないにしても、
不可欠な要素であったことはまちがいない。

わたしが誰かに「ありがとう」と言葉を掛けること、
わたしがお店で一点もののセーターを買うこと、
わたしが通勤の電車にのること、
わたしが大学の受験に失敗したこと、
わたしが第一志望の会社に就職したこと、
それらのすべては、
そのこと自体は取るに足りないことでも、
知らないところでいろいろな人々に、
大きな影響を及ぼしているのかもしれない。

そして、
日本の選手がオリンピックで金メタルを取ったことに、
わたしの存在が絶対に関係していないとは言い切れない。
多くの人が亡くなった列車事故の大惨事に、
私の存在が絶対に関係していないとは言い切れない。

濃くも薄くも、
人と人がつながっている限り、
自分がいるという、そのことが、
誰かの幸せにも不幸にも関わっている可能性がある。

だから、生きているだけですごい、
というのは、
大げさでもなんでもなくて、
本当のことだったりするのだ。
そして、一つ確かなのは、
わたしがいることが前提として世界が、宇宙が、
今動いているということ。
まずは、そのことを大事にしなくてはいけない。

その上で、
何かを成し遂げること、
何かを生み出すこと、
人に影響を与えることがしたいのなら、
好きなだけすればいい。
そういうことなのかもしれない。



過去も変えられない?!

2006-04-24 23:28:19 | ひとりごと

「他人と過去は変えられない」
の過去についてはどうだろう。
確かに、変えられない。
他人を変えること以上に、難しい、
というよりも、
過去は、物理的に絶対に変えられない。

ただ、過去起きたことの意味を、
変えることはできる。
見方を変えるというか、
善悪の基準をはずすと言うか。

それには、ひとつ重要なことがあるのだけれども。
「今」というキーワード。


小学生の頃鉄棒から落ちて両腕を骨折したこと。
親が望むとおりの高校に進学したこと。
高校でいじめにあったこと。
第一志望の大学に合格したこと。
初恋の人に告白したら即効拒否されたこと。
大恋愛の末に大好きな彼と結婚したこと。
一番大事だった友達と喧嘩わかれしたこと。
なりたかった職業に就けたこと。
交通事故をして片足が不自由になってしまったこと。
結婚式直前に婚約破棄されたこと。
失恋に苦しむ友達を励まして感謝されたこと。
死のうとして腕をリストカットしたこと。

たとえば、こんな過去の事実があったとする。
変えたくても、変えようがない。
消したくても、消しようがない。
自分の記憶からはなくなっても、
誰かが覚えているかもしれないし、
自分の無意識は覚えていて、
あるときひょっと立ち上がってきて、
その存在感をアピールするかもしれない。

経験したときは、
それぞれ、
嬉しい出来事であり、苦しい出来事だった。
楽しい出来事であり、悲しい出来事だった。

そして、
嬉しい、楽しい出来事は、良い出来事、
苦しい、悲しい出来事は、悪い出来事、
そんな風に思っていただろう。

でも、全部は、良くも悪くもなく、
ただ、
自分が起こした、
自分がおかれた環境や他の人との間で起きた、
そのときの、それなりの理由があって起きた、
過去の出来事にすぎない。
いろんな感情を味わい、
そこから次の世界へと自分を向かわせた出来事にすぎない。

ただ、今の自分が、
ここにいるために、
ここにこうして生きているために、
起きた出来事にすぎない。
ひとつでも欠けたら、
今の自分は、いなかったかもしれない、
そんな出来事たちなのだ。

ということは・・・、
今の自分が、
どこにいて、何をして、
どんな心のあり方をしているのか。
今の自分が、過去を定義することになる。
つまり、今の自分が変われば、
過去も変わるということになるのだ。

今、自分は幸せ。
そんな風にいえる人の過去の出来事は、
善でも悪でもなく、
ただ、
今の幸せを作るための材料だったということになる。



他人は変えられない?!

2006-04-23 21:22:37 | ひとりごと

生きづらさを抱えている人。
過去の後悔や罪悪感にとらわれている人。
抱える問題に立ち行かなくなっている人。
他人や未来が信頼できない人。
思い込みで自分自身を縛り付けている人。

はたから見て、
変わった方がいいと思う人はたくさんいる。
その人が、
自分にとってかかわりのある人、
つながりの深い人であればあるほど、
自分の力で、変えてあげたい、
と思うこともある。

それが、危険な関係に陥ってしまうこともあるが、
時に、そういう気持ちになるのが、
人間ってものだ。
人とかかわりを持つってことの
喜びや面白さであり、
歯がゆさ、辛さでもある。

でも、一般的には、
「他人と過去は変えられない」
といわれる。
人は、自分で変わるしかない。
変わる必要を感じたときに、
変わらざるを得ない出来事に遭遇したときに、
自分の意思で、自分の力で、
変わるしかない。

周囲は、助けを求められれば手を貸し、
それ以外は、見守ってあげたほうがいいのだ。
その人の中に眠っている力を信頼することに、
ただ徹してあげればいいのだ。

確かに、そう。
基本は、そう。
病気の人や危機的状況にある人じゃない場合なんかは、
そうだろう。

ただ、他人を絶対に変えられないか、
といったらそうでない場合もある。

その人が変わっていく場面に立ち会ったり、
そのきっかけを作ったりすることはできることもある。
その人に変わる準備ができていて、
でも、自分で変わるすべを知らないとき、
思いつかないとき、何かが邪魔してそれができないとき、
その引き金を引く役割を担うことはできる。

おせっかいでも、少し強引でも、
その人の奥深くにある
「このままじゃいられない」
という部分に働きかけることが、
その人の「変わりたい」スイッチをオンにすることはある。

もちろん、それが失敗に終わる事だってある。
嫌われたり、拒絶されたり、
恨みを買ったりすることだってあるかもしれない。
何もしないであげたほうがよかった、と
自分を責め、後悔することもあるだろう。

「でも、それでも、なんとかしたい!」
自分のなかの何かが執拗にそう叫ぶときは、
きっと、何かあるのだろう。
そういう時は、
自分の思いに任せることがあっていい。
関係が、そうやって成長することだってあるのだから。

他人と過去は変えられない。
だから、何もしない、じゃなくて、
葛藤や喧嘩だって、すればいいのかもしれない。
感情をぶちまけあうあうのだって、わるくないのかもしれない。
そうして散々何かをした後で、
その人が、自分で立ち上がることを信じる、
ってことにしてもいいのだ。

方法はどうであれ、
相手を思う気持ちがそうさせるなら、
その気持ちが純粋であるならば(時には自分のエゴであっても・・・)、
それは、何らかの形で相手の中に入りこむだろう。

今、その人が変わらなくても、
その人が、変わりたいときに、
大きな力を発揮するかもしれない。

人間はそんなに簡単には変わらないから、
ほとんどの場合、
自分がその人に働きかけたことの結果はすぐにでないものだ。
それこそ、数年後だったり、数十年かかったりすることもある。
あるいは、目に見える形で影響を及ぼさないこともある。

でも、少なくとも、
その人に関わろうとした事実は、
自分の中にも、相手の中にものこる。

変わる、というと、
なんだか現在のその人を否定しているように聞こえるが、
本来のその人に戻る、とか、
その人にとってふさわしい方向に成長する、とか
変わる、ということを、
そんな風に考えたらいいのかもしれない。



「信じる」って・・・

2006-04-23 00:43:27 | ひとりごと

「信じる」ということは、一体どういうことだろう。
最近、時々考える。

ドラマや小説、それに日常会話でもよく聞くし、
私も結構安易に使っている。
ただ「信じる」という言葉を使っている人が、
「信じる」の意味を本当に理解できているのか、
また実践しているのかは、ちょっと疑わしかったりする。
自分だって、怪しいものだ。

例えば、
「自分はこの難局を乗り切れると信じる」
「息子が○○大学に合格するのを信じる」
「別れた彼が自分の元に戻ってくるのを信じる」
なんていう場合。

信じる対象の人や物事の中に、
起きてほしいことと起きてほしくないことの両面があって、
「信じる」とは、起きてほしい方に意識をあわせることだと思う。
起きてほしくないことが存在しなければ、
そもそも信じる必要はないし・・・。

起きることが決まっていないことを、
自分の直感や具体的事実、経験、知恵などを通して、
当然起きるかのように感じられること、確信できることが、
「信じる」ことにつながる。

本当に信じられることを信じるときには、
心のどこか奥深いところにスっと力がはいり、
自分のなかに簡単には折れない芯ができあがる。
そうなると、あまり揺れないし、信じている自分を疑わない。

自分が総合的な判断ではじき出した、
「信じる」に値する確信があるから、
決心したあとは、結構楽になれたりする。
そして、結果も「信じる」に値することがおきてくれたりする。

一方で、信じているといいながら、
信じていない心が自分の多くを占めると、
「信じるぞー」と脅迫的に思ったり、
じりじり念じたりする。

信じられない自分にうずもれてしまうのが怖いから、
不安だから「信じる」「信じる」と唱える、
というか自分に無理やり言い聞かせる。

でも、それは本心では、
「信じられない」「信じられない」「あーどうしよう」と、
言ってるだけなのかもしれない。

「信じる」自分の居心地が悪かったら、
いっそのこと「信じている」ふりをしないで、
信じていない心とちゃんと向き合うのがいいのかも。

そういう心と、
対決したり、葛藤したり、具体的に行動したり、検証したり、
そうして、自分が「信じたい」ことが、
本当に「信じる」に足ることなのか、
自分が「信じたい」相手はそれを心の底から欲しているのか、
そもそも「信じる」という言葉を当てはめるのが適当な事なのか、
そのへんを詰めていけばいい。

たとえば、自分に利益がもたらされるという、
それだけの引き換えに「信じる」のだったら、
それは「信じる」とは違うようが気がする。

「信じる」ことで、
自分や相手を追い詰めたり苦しめたるするのなら、
それもやっぱり「信じる」というのに無理がある。

あらゆることはした。あらゆる疑問も取り払った。
自分には、もう「信じる」という以外に、
とるべき道はないぞー。

そいうというところまできたときに初めて、
「信じる」ということができるのかもしれない。
穏やかで、ゆるぎない気持ちで、
「信じる」ことに自分を預けられるのかもしれない。

そして、
自分という人間を自分は信じられるか。
「信じる」の最後の鍵はそこなのかもしれない。



ネガティブさん、こんにちは。

2006-04-20 00:46:10 | ひとりごと

「落ち込んでばかりいたら、だめよ」
「プラス思考でいかなくっちゃね」
「笑顔が一番」
いろんなとこで、こんなことばかり言われると、
落ち込んでる自分や、マイナス思考の自分は“だめな自分”
という気がしてくる。

全然だめじゃないのに、
プラスとマイナス、両方あって当然なのに、
でも、だめなんだ・・・と落ち込んでしまう。

“だめな自分”はいやだから、
心に浮かぶネガティブな感情そのものを、
見ないようにしたり、毛嫌いしたり、
「こんなのは自分の感情じゃない!!」って、
存在することすら否定したり。

でも、皮肉なことに、そんなことを長くつづけていると、
ネガティブな感情はやがて反乱を起こして、
心を占拠してしまう。なんたる、矛盾!!!

最近、あることがすっと胸に降りた。
ネガティブな感情もポジティブな感情も、
どっちも私。だから、どっちも大事。
そうだ、そうだよ。

ポジティブばかり大事しないで、
ネガティブもちゃんと大事に扱うことにしよう。
そう、決めた。

たしかに、
「痛い」「苦しい」「嫌い」「行きたくない」
「会いたくない」「怖い」「辛い」・・・・、
はとってもやっかいな感情で、
できたら仲良くなんてなりたくない。

でも、どれも自分の心から出ていることには間違いない。
つまり自分が出していることに、疑いはない。
「楽しい」「嬉しい」「気持ちいい」と同じように、
自分の心が出している。そうなのだ。
それを、自分が認めなくて、どうするの?って感じだ。

そんなわけで、ネガティブ感情との付き合い方を考え付いた。
ネガティブな感情がわき上がってきたときは、
まずは「ネガティブさん、こんにちは」と挨拶して、
それから、じっくりその感情を味わってみる。

味わうのがしんどくなったらネガティブ感情を前において、
「ああ、いま苦しんだね」
「仕事に行きたくないんだね」
と、心で会話する。

で、さらに、
「さあ、どうしよっか?もう少しここにいる?
さっさと出て行っちゃう?
それとも、他に何かいい案ありますかね~」
ってな風に、相談というか交渉をする。

いまのところ、ほとんどが抵抗せずに、
素直に出て行ってくれている。
もちろん、出て行ってくれるときには、
「ありがとうね」
という感謝の言葉も忘れない。

感情も生き物なんだよね。
ポジティブな感情だけじゃなく、
ネガティブな感情だって、
ちゃんといることを認めてあげたら和解できるんだよ、うん。
そんなにやっかいでもなければ、
聞き分けが悪いわけでもなかったりするんだ。