ブログを放置した一か月半の間に、夫の転勤が決まった。そして、夫婦ですったもんだした結果、私と息子も一緒についていくことになった。
場所は、ああ、遠いところ。行ったこともないところ。知り合いもいないところ。
時期は7月。
もう、すぐだ。
春先には、ほぼ今年は転勤なし、と聞かされていただけに、夫から告げられた時の動揺は大きかった。夫本人もまさに青天の霹靂人事で、異動を告げる声が少し震えていた。
「はっ?えっ?今何て言った?」
聞いた瞬間は驚きすぎて、驚けなかった。妙に落ち着いた私がいた。
自分の仕事の事、息子の幼稚園の事、幼稚園のPTA仕事の事、その他あれやこれやのこと。
そうしたことを、全然気持ちの準備ができていないのに、夫の内示までの短期間の間に処理しなくてはならないことを想像しただけで、もう頭が真っ白になったのだった。
けれど、人間の適応能力は大したもの。というか、多分、私という人間が、本当は転勤族にとても向くタイプの人間なのだろう。
今回の事が決まり、私自身どんどん落ち込んでいくのかと思いきや、どんどん元気に前向きになっていったのだから。
3年、4年で環境が変わっていくというのは、それも自分の意思や都合ではなく突然知らない土地に行かなくてはならないというのは、多くの人にとってはストレスだと思う。
私だってもちろんそうなんだけれど、無意識のところで、このサイクルで環境が変わることを楽しんでいる自分を感じる。
自分ではとても選択しない一大事を前に、捨てるタイミングを逃したままの生活用品はもちろん、人間関係も、仕事も、生活スタイルも、必要なものと必要でないものをよりわけていく作業に、自分を容赦なくコミットすることができるのだ。
元々、腰の重い人間で、年を重ねる毎にそれを痛感するようになったから、こうした強制執行が実はありがたいのかもしれない。
そして、今は新しい生活を思い描く楽しさよりも、今のここでの日々、ここで出会った人たちとの関係をしみじみと味わう時間が愛しい。
終わりを意識しながら自分の周りを眺めるというのは、こういう感覚なんだな、と改めて思う。死を意識した人間の潔さ、美しさは、今、ここ、に集中できるということと、日常から慣れ、惰性を排除できるということなんだなあ。
終わりが近いと思うと、雨の日の幼稚園の送り迎えも、PTAのやっかいな仕事やもめごとも、相談場面での利用者さんのいつにない長話や愚痴も、ぜんぶぜんぶかけがえのないものだと感じるから。
それと、去っていく私にいろんな人が普段は口にしない言葉を送ってくれるのも大きなギフトだ。
私のどんな部分がその人に記憶されているのか、私の行いがどんな風にその人の役に立ったのかということ。
終わりがなかったら、知ることのない言葉たちは、少しこそばゆい気持ちになるけれど、どれも温かで鮮明でキラキラしている。
こうした、小さな死と生を繰り返すみたいな感じを味わえるのが、転勤族の醍醐味なのかな。
小さな死の次に待っている、小さな生。新生活。新しく生まれるものに、多少の産みの苦しみがあることも、もちろん覚悟はしている。
今年の夏は、新しい土地でどんな暮らしを送ってるかな。
phone by pakutaso
場所は、ああ、遠いところ。行ったこともないところ。知り合いもいないところ。
時期は7月。
もう、すぐだ。
春先には、ほぼ今年は転勤なし、と聞かされていただけに、夫から告げられた時の動揺は大きかった。夫本人もまさに青天の霹靂人事で、異動を告げる声が少し震えていた。
「はっ?えっ?今何て言った?」
聞いた瞬間は驚きすぎて、驚けなかった。妙に落ち着いた私がいた。
自分の仕事の事、息子の幼稚園の事、幼稚園のPTA仕事の事、その他あれやこれやのこと。
そうしたことを、全然気持ちの準備ができていないのに、夫の内示までの短期間の間に処理しなくてはならないことを想像しただけで、もう頭が真っ白になったのだった。
けれど、人間の適応能力は大したもの。というか、多分、私という人間が、本当は転勤族にとても向くタイプの人間なのだろう。
今回の事が決まり、私自身どんどん落ち込んでいくのかと思いきや、どんどん元気に前向きになっていったのだから。
3年、4年で環境が変わっていくというのは、それも自分の意思や都合ではなく突然知らない土地に行かなくてはならないというのは、多くの人にとってはストレスだと思う。
私だってもちろんそうなんだけれど、無意識のところで、このサイクルで環境が変わることを楽しんでいる自分を感じる。
自分ではとても選択しない一大事を前に、捨てるタイミングを逃したままの生活用品はもちろん、人間関係も、仕事も、生活スタイルも、必要なものと必要でないものをよりわけていく作業に、自分を容赦なくコミットすることができるのだ。
元々、腰の重い人間で、年を重ねる毎にそれを痛感するようになったから、こうした強制執行が実はありがたいのかもしれない。
そして、今は新しい生活を思い描く楽しさよりも、今のここでの日々、ここで出会った人たちとの関係をしみじみと味わう時間が愛しい。
終わりを意識しながら自分の周りを眺めるというのは、こういう感覚なんだな、と改めて思う。死を意識した人間の潔さ、美しさは、今、ここ、に集中できるということと、日常から慣れ、惰性を排除できるということなんだなあ。
終わりが近いと思うと、雨の日の幼稚園の送り迎えも、PTAのやっかいな仕事やもめごとも、相談場面での利用者さんのいつにない長話や愚痴も、ぜんぶぜんぶかけがえのないものだと感じるから。
それと、去っていく私にいろんな人が普段は口にしない言葉を送ってくれるのも大きなギフトだ。
私のどんな部分がその人に記憶されているのか、私の行いがどんな風にその人の役に立ったのかということ。
終わりがなかったら、知ることのない言葉たちは、少しこそばゆい気持ちになるけれど、どれも温かで鮮明でキラキラしている。
こうした、小さな死と生を繰り返すみたいな感じを味わえるのが、転勤族の醍醐味なのかな。
小さな死の次に待っている、小さな生。新生活。新しく生まれるものに、多少の産みの苦しみがあることも、もちろん覚悟はしている。
今年の夏は、新しい土地でどんな暮らしを送ってるかな。
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