女性アナウンサーの自殺のニュースを見ていて、ある人の話していたことを思い出した。
精神を病み、自殺未遂を繰り返した彼女が、ようやく社会復帰できたころだったろうか。
「うつで死にたい時って言うのは、もう、それしか頭にない。とにかくどうにかして死ななくちゃ、それをやりとげねばって、それしかないの。
だからね、そんな人に向かって説得なんかしたって無駄だよ。死に向かっている人間の、その勢いってすざまじいんだから。やっぱり、病気ってことだよ。
だから、もしこの人やばいって思ったら、その確信があったのなら、とにかくどうにかして、入院させるしかない。
でも、その判断って本当に難しいよね。相手が自殺未遂を繰り返していたり、完全にうつ状態だったりする場合は別だけど、そんなのプロの精神科医でもわからないんだから」
マクロの自殺対策は必要だと思う。自殺者3万人という数字を重く受け止め、改善策を打ち出すことも。
でも、安易に、
「どうして周りは助けてあげられなかったのか?」
って、言わないほうがいい。兆候はあった。そりゃそうだろう。
でも、家族や友人がそれに気づけていたとして、彼女の、その、すさまじい勢いで死に突進していった心を、止められたかどうかはわからない。
「どうして助けてあげられなかったのか?」
周りの人たちは、ただでさえその疑問を自分にぶつけてしまうもの。自分たちの非力さを責めてしまうもの。
周りの親しい人以外の第三者が安易に言うべきことでない。
周りの人は十分に傷ついている。特に家族や、彼女の身近にいた人たちは、ずっと、ずっと、なぜ今、どうして彼女が・・・、そんな「なぜ」と直面していかなければならない。
疑問は湧き上がっても、回答はない。
もしかして、自殺した本人もわからなくなっていたのかもしれない。
彼女の不幸は、崩れていくプロセスで、
完全に心が壊れきることができなかったこと。仕事に行けるほどに、体が動いてしまっていたこと。
前日にもテレビに出ていた。か細い声ではあっただろうけど、ちゃんとしゃべっている。ちゃんと原稿を読めている。悲劇だ。
でも、私たちはあんなふうに教育されてきたよな。弱音をはかない。涙を見せない。つらいときも笑顔を。そんな風に教え込まされたよ。
自殺対策の原点て、「教育」なのかもしれないな、って、そんな風にも思う。