すれっからし手帖

「気づき」とともに私を生きる。

春は別れの季節です。

2015-01-30 20:21:32 | 育児・母稼業
ただでさえ少ないママ友の一人が、この週末にお引っ越しをすることになった。彼女の息子くんは、幼稚園を転園するので、園行事やお迎えでばったり顔を合わせることもなくなる。

彼女と話す時の、ほっこりできる時間を失ってしまうことが、悲しい、寂しい。このところ弱り気味のせいもあって、彼女がいなくなることを考えると、たちまち涙腺がゆるむ。

だから、私、春は嫌なのだ。

息子たちの仲は一緒にいれば遊ぶ程度で、大して仲良くはなかった。でも、私とそのママ友とは妙にウマがあった。息子たちはおまけの関係だった。

もともとママ友付き合いが積極的ではない二人だから、出会いから3年近くたつ最近になってやっと気の置けない関係になってきた感じだ。

互いの嗅覚で認めあった「この人とは合いそうだ」という勘を頼りに、のんびり少しずつ距離を縮めてきたのだと思う。

多分、二人とも、人間関係にはどこか慎重で、身構えている。でも、人付き合いが悪くないママを多少背伸びしながら演じてきた節はある。それが、大きな共通点かもしれない。

私の家に親子で遊びにきた時に、「春って苦手なんだ」と私が言うと「私も」と彼女が言い、「一人で行動するのが結構好きで」と彼女が言うと、「同じく」と私が言った。

そして、二人で顔を見合わせて、「えー、そうなの?」と言って、声を上げてゲラゲラ笑った。息子たちは、お菓子の取り合いでケンカ中だったのに、そんなのお構い無しで。


そんな彼女から、昨日、短いメッセージがLINEに乗ってやってきた。


いつでも会える気がしているから、別れの言葉はありません。

でも、○○ちゃん(私の名前)には今まで癒されたよ。それだけは伝えたい。

息子といっしょで、集団行動が苦手な私だけど、それでも友達ができるのねー。よかったー。ホントにありがたかった。

今まで、色々ありがとう。そして、これからもよろしくね。



ウルウルしつつ、私も、ああそうだな、と思った。大人になってからでも、人付き合いが苦手でも、出不精でも、友だちはできるってこと。

親しくなるときに小さな勇気を出す瞬間はあるけれど、自分をごまかさなかったら、自分を安売りしなかったら、素のままの自分にぴったり息の合う友だちはできるものなんだ。


将来息子がもし友だちのことで悩んだら話してあげよう。私と、このママ友のことを。

友だちがいっぱいいる人が眩しく感じても、自分がちゃんと自分をやっていたら、そんな自分にふさわしい本当の友だちはできるよって。焦らず待っててごらんって。


ママ友からのおみやげ。彼女のチョイスは、なぜかいつも息子のハートを強烈につかむ。












閉じています。

2015-01-29 12:54:12 | My メソッド
このところ少々辛気くさい記事がつづいています。私の気分がそのまま文章に現れてる自覚は十分にあるわけで。

この気分、何とかならないものかと考えていたところ、数日前に、はたと気づいたことがあります。私の、この低空飛行の気分は、「○○だから」という明確な理由があるのではなさそうだということです。

家族のこととか、人づきあいとか、持病のこととか、日々確かに面倒なことはありますが、それが原因かと言われるとしっくりこない。そうした面倒なことを全く気にしないでいられる時期もあるのですから。むしろ、そっちの方が断然多いのです。

では、これはどういう状態なんだろう。子どもを持つまでは、確かにこんなこと何度かありました。

私は、春が近づいて来ると、エネルギーが減りやすいという生体リズムを持っているようなのです。いつからか、そんな自分のリズムを自覚するようになりました。思えば気分が不調になるのは決まって春先。

新しい門出、晴れがましい季節。この春を帯びた生暖かい風は、不快なザワザワ感を私の心にもたらし、エネルギーを奪っていったものでした。

出産してからは子育てホルモンみたいなのが分泌されて、私のこのリズムを平坦にしてくれていたのかもしれません。

昔、参加した「うつ」の勉強会で精神科のドクターが抑うつ状態をダムに見立ててわかりやすく説明してくれました。

ダムの水が人間のエネルギー。ダムに沈む色んな岩が日常生活の面倒なこと。水がいっぱいの時には、多くの岩は見えないけれど、ダムが少ないと普段は見えない小さな石までも見えてしまって、面倒だらけ、問題ばかりになる。

そういう状態の時は、岩や石ころを何とかしようとしてはいけない。また水が満ちてくるのをゆっくり待ちましょう。焦らなければ、水は必ず増えてきます。人の心はそんな風にできています。


病院でうつという診断名をもらうことになるような人は、岩や小さな石ころを取り除こうと必死になって、ダムが干上がってしまった状態とも言えます。

私のダムは、まだ干上がるようなレベルではありません。このブログも書けていますし、日常生活のタスクを100とすると、少なくとも50くらいはできています。

ただ、残り50の、普段はなんともないことが、億劫で仕方ありません。この億劫感というのは、健康な時の面倒臭いという感じとは質が違って、それをやるには普段の三倍くらいはエネルギーを使うイメージです。

メールを書く、友だちとランチをする、幼稚園にいく、運動をする、ライティングの仕事をする。

億劫な50にあたるこれらをしようとすると、体が「いやだ」と硬直します。強行するとどんな状態に行くかの予想はできるので、できるだけ罪悪感をもたないで「いやだ」を叶えています。

ただしこの罪悪感がなかなか強敵ではあります。

先週、誘われたランチがありますが「その日は仕事が入ってるから」と断りました。「悪いな」と少しばかり思ったせいか、理由を細かく書いたり、次こそは!を力説した感じの返信になりました。

すると、なんと私の都合に合わせるとの再返信がきてしまい、それでまた、断わる理由に苦労するということになりました。

こういうときは、サラッと書くことが肝心ですね。断わることや、嘘の理由に罪悪感が強くなると、どうしても言い訳がましくなる。それが相手にひっかかりを残してしまい、すんなりOKとは言わせない事態を招いてしまうのかもしれません。

こんな自分の状態を心底「仕方ない」と開き直れたら、罪悪感も落ち着きます。罪悪感をうまくやりすごすことは、エネルギーがまた自分に満ちてくるまでの時間を短くしてくれますから、ゆったりそんな境地を目指します。

また、あえて、誰かにわかってもらおうとすることもしません。わかってもらおうとするには莫大なエネルギーを使うので、気を使わない関係以外には自分をできるだけ閉じておくのがいいみたいです。

できることは坦々とやって、できないことはできるだけやらない。この仕分けがうまくできれば、また、ダムの水が満ちてくることは知っているので、ひたすら待ってみようと思います。


ところで、このブログについてですが、一方的に書くのは億劫ではないのですが、いただいたコメントにレスをする自信が今の所ありません。ほかの人間関係と同じく、しばらくの間、閉じさせてもらいます。いつもコメントを残してくださる方、ゴメンなさい。

代わりにと言ってはなんですが、気紛れでブログランキングに参加してみたので、記事に共感いただけた場合にはクリックしていただけると励みになります。

今日は、お知らせみたいになってしまいました。これからも、よろしくお願いします。








流れに乗ったと思えばいいね。

2015-01-26 09:12:59 | My メソッド
できなくでもいいやって思っていたことができなくても大して傷つかない。

でも、こうありたいという自分がそうあれないとき、これはやめたいと思っていることをがやめられなかった時には、深く傷つく。

こうありたいのは、毅然とした態度。
やめたいのは、卑屈さと媚び。

その二つができないときに、自分は自分を守れなかったんだ、自分の大事にしたいものが大事にできなかったんだと感じて落ち込む。

たとえば、

人から嫌なことをされても嫌と言えないとき。
体調か悪くても作り笑いをするとき。
弱い立場の人を助けてあげられないとき。
素直に「助けてください」って言えないとき。


毅然とできない私に、媚びて卑屈になる私に、一番厳しい視線を送るのが私。

あの人ならこんな無様なことはしないだろうと、さらに追い打ちを掛けるのも私。


本当に大切なことは、なりたい自分になれない自分、できないことをやめられない自分を責めないことなんだよね。そうやって自分を台無しにしないことだよね。

責めるくらいなら、最初からなりたい自分なんて設定しない方がいい。媚びる自分も卑屈な自分も、全部自分だねって力を抜いた方がいい。

媚びてうなづいた私も、流れに乗った、流れに身を任せただけなんだ、と大らかに構えていたほうがずっといいんだね。

そのたまたま乗った流れの中で、一個一個また自分にとって最良の選択をしていけばいいんだから。時々、作り笑いしたり、負けたり、情けないな、なんて自分を優しく茶化しながら。

自分が自分につらく当たらない限り、自分が自分を見捨てない限り、私はダメになったりしないんだから。

母と娘 外野の立場から。

2015-01-25 17:01:29 | 世の中のこと
最近、よく目につくのが、母と娘についての本やテレビの特集。なかでも、毒母を論じた本やノンフィクション、小説の類はブームのようになっている。

実際に手に取ったのは、記憶にあるものでざっとこんなところ。

『母が重くてたまらない―墓守娘の嘆き』信田 さよ子

『インナーマザー―あなたを責めつづけるこころの中の「お母さん」』斎藤 学

『毒になる親 一生苦しむ子供』スーザン・フォワード

『放蕩記』村山 由佳

『母がしんどい』田房 永子

専門家が書いた上3冊は、これほどブームになるより前に読んだ。なるほど、なるほど、と首を何度も縦に振りながら読んだ。やっぱりな、だからか、なんて自分が見聞きした母と娘のうまくいかない関係が読み解けて、爽快ですらあった。

そして、いわば当事者の自伝的要素の強い下2冊はブームが来てから読んだ。膝を打つような共感よりも、激しい衝撃とそれに続く後味の悪さに辟易した。特に、「放蕩記」の方はすさまじかった。

母親サイドから語ればまた違う風景が見えるのだろうが、娘が記憶する母との日々が、娘の中にはこうした事実として残るという、その関係を思うと、いたたまれない気持ちになった。

こうしたテーマに多数の人が関心を向けるというのは、程度の差こそあれ、こうした母と娘の関係がいたるところで存在するということなのだ。

私が援助職をしていた職場の精神障害の人たちには、母との関係が症状に影響を与えている人が多かったし、私の昔からの友人たちを思い浮かべても、母親との関係をうまくいかない人生や生きずらさの元凶として、引きずっている人は多かった。

彼女たちは、みんな母親の聞こえない声を聞きながら、その影と戦っている風にも見えた。嫌いだけど好き。重いけど捨てられない。そんなアンビバレンツな感情に揺れていた。

私は、母との関係は悪くない。

正義感が強く情に厚い反面、若い頃は感情の不安定さ、激しやすさなどを抱えていた人で、子どもとしては大変な面があった。ただ、その影響は、ほとんど姉が引き受けてくれたのだと思う。

次女という立場のおかげもあって、母に対しては、好きとか嫌いとか、こじれた感情も、激しい思慕もない。

私には娘もいないから、母と娘の問題は実際には外野の立場でしかない。でも、母と娘は厄介なものと考えている節はあった。だから、息子がお腹にいて性別がわかった時、ほっとした、というと言いすぎだけれど、やっぱり女の子は来ないよね、とは思った。

元々私は自分が親になる姿を想像できないくらいに、親になることに違和感があった。自分にも自信がなかったから、自分が影響を与えてしまう存在を産みだすことが怖かったのかもしれない。

そんな私が息子を育てていて思うのは、やっぱり男の子は楽、育て易い、ということだ。多分一般的に言われていることとは逆だと思う。

一般的に女の子が母親にとって育て易いといわれるのは、体力的に楽というのと、自分も女の子だったから子どもの気持ちを理解しやすいというものだろう。

体力面は、確かにそうだろうけれど、「理解しやすい」という面が曲者だったりする。

私は、小さな女の子を見ていると、自分がその頃に感じていたこと、考えていたことが生々しく浮かび上がってきて、なんだか胸がいっぱいになる。楽しいことだってたくさんあったけれど、悲しみや傷の方がより鮮明た。

大人を見るまなざし、友だちとのやりとり、その心の中で動いていることが、自分に起きているような錯覚を起こす。姪を見ていてもこれだから、自分の娘だったらと思うとたまらない。

また、少し大人びた女の子に出会うと、どきまぎする。同じ女性として、値踏みされるのではと身構えてしまう。大人対子供という立場を越えた、女対女の対等かつ誤魔化しがきかない雰囲気が落ち着かない。いわゆる女子力の低い私は、こんな女の子が娘だったら、きっと負ける、もたないはず、と弱気になる。

体力勝負は否めないけれど、宇宙人である異性の子どもは最初から理解を諦めている。だから、自分の過去がシンクロしない。しかも、彼らの母親への眼差しはあまりにゆるい。

公園通いの日焼けが辛くても、ピンクやレースの子ども服が買えなくても、私にとっては、この二つのメリットに救われているのだ。

こんな私は少数派で、世間では、娘を産みたがる人が圧倒的に多い。男の子しかいないママで男の子育児の魅力を語る人にも、本当は女の子を望んでいた、という人は多い。

女の子の趣味を楽しみたい。自分が姉妹で楽しかったから。男の子を一人生んだから女の子も育ててみたい。娘を産んで母と自分みたいに仲良し親子なりたい。

そんな理由を聞くと、微笑ましく感じる。ただ、私は女の子趣味がないし、姉とも母ともべったり付き合っていないから、彼女たちのような女系へのこだわりがなくて共感度は低い。

一方で、それと同じくらいよく聞く女の子が欲しい別の理由には、胸がざわつく。

将来、買い物や旅行に一緒に行けるから。女の子だと結婚してもそばにいてくれるから。実家を大事にしてくれるから。女の子はずっと母親の味方だから。女親の気持ちをわかってくれるから。

女の子でも、母親と買い物にも旅行にもいかない娘もいるよ。結婚して夫の実家の近くに住む娘もいるし、転勤族と結婚することもあるよ。父親の味方をする娘もいるし、電話やメールがそっけない娘もいるよ。

と、喉から出そうになるけど、面倒くさいことになってもいけないので一応ひっこめる。それ、全部私だ(笑)、と自分突っ込みをしながら。

いや、トータル的には、母親と買い物や旅行に行ったり、父親よりも母親の味方をする娘は多いし、実家に比重を置くのは息子よりも娘の方が割合としては多い。私ほど母親に対してそっけない娘は少数派かもしれない。

でも、娘とは「そういうもの」、という多くの人たちが共有する前提や期待が実は、それらを叶えることのできない娘たちを苦しめている。

母親が描いた理想におさまれない優しい娘は心身ともに抑圧され、強いエネルギーを持った娘は母親との縁を切って完全に背を向ける。そんな極端なことに陥っている母と娘が特殊でないのは、最近の毒母ブームが何よりの証拠だと思う。

娘を「そういうもの」と都合よく考える人が多いから女の子の赤ちゃん人気は高く、母と娘の問題も娘は「そういうもの」だと考える母親が多いから増えたってことも言える。でも、世間が望む、母が願う娘像には馴染まない、はまれない娘は案外多いということなのだ。そのギャップの度合いが悲劇の大きさを左右するのかもしれない。

とまあ、外野の立場だから言えることなのだけれど、私も同性の子に対しては自分と同一化、あるいはなんらかの期待を無意識にかけてしてしまいそうな自分のメンタリティを自覚しているから、娘を持つことに怖さのようなものを感じてしまうだろう。

ただ、この世のことは全て相対的だから、こうした危うさのある母と娘の関係だからこそ、その反対側にある大きな魅力についても想像はできる。その黄金バランスを保ち、母と娘の関係を楽しんでいる人のことは心底うらやましい。

作家の田口ランディさんは、私にとってそんなお母さんの一人。

ランディさんの娘さんは、この春大学に進学するにあたり家を出ることになった。そんな娘さんに向けた珠玉の言葉を、このところたくさんツイッターにのせているランディさん。娘さん以外の若い人にも送りたいメッセージだとか。


こんな感謝の言葉を巣立つ子に向けて紡ぎだせるお母さんは、息子とか娘とか、そもそも子どもの性別なんてどうでもいいんだろうな、と惚れ惚れする。

田口ランディさんのアドバイス
娘さんへ&若い人たちへ

(↑ランディさんをフォローしている方がまとめたものです。)






自分を待ってやろうじゃないか。

2015-01-22 10:32:55 | My メソッド
心が、少し荒れている。

雨のせい。
息子の愚痴のせい。
夫の仕事が忙しいせい。
病院通いで日常が覆われるせい。
図星の楔を打ち込む他人の悪意のせい。

本当は
私の弱さのせい。
私の怠惰のせい。
私の無能のせい。
全部私のせいなんだ。

いいや、それも違う。

私のせいと私か笑えないせいだ。
私のせいと私が開き直れないせいだ。
私が私の弱さと怠惰と無能に優しくできないせいなんだ。


ここが勝負どころ。

私の気持ちが整うまで
私は私を待ってやろうじゃないか。

私の見える世界が変わるまで
私は私を待ってやろうじゃないか。

とことん、とことん
待ってやろうじゃないか。





メールの長い人。

2015-01-20 17:00:00 | ひとりごと
年末だったと思うのだけれど、明石家さんまの「ホンマでっかTV」で、専門家のどなたかが、「メールの長い人は病んでいる人が多い。相手の都合が考えられない。自分の気持ちを押し付ける傾向が強い」みたいなことを力説していた。

へー、なるほどー。お笑い番組向けの極論ではあるけれど、全くの暴論ではないかも。

とっさに、頭に何人かは浮かぶ、長文メールの友人知人たち。病んでいる人たちとは思わないけれど、でも、ある種の共通する傾向を持っている、愛すべき人たち。

その1
わかってほしいことがいっぱいある人

(つまり、わかってもらえない体験をたくさんしているから、メールでもいっぱい書かないとわかってもらえないと思っている)


そして

その2
ものすごく気をつかう人

(だから、気を使わない人が嫌い。相手への配慮はもちろん、なんらかの言い訳も混じっていて前置きが長く、返信するのも早い)


相手の都合を全く考えないどころか過剰に考えるんだけど、自分の気持ちは抑えきれない。抑えているつもりだけれど、ダダモレ。

だからメールで読むには長すぎるという点が不躾なんだけど、言葉遣いは限りなく丁寧で、時候の挨拶や相手を気遣う言葉もふんだんにいれる。

そんなちょっとアンバランスなことになっちゃてて、メールを読む方からすると、「どっちやねん」という感じで少々モヤモヤしちゃうことも。

とはいえ私は自分を攻撃するものでなければ、長いメールをもらうのも嫌いじゃない。というのも頻度は少ないけれど、私のメールも書きはじめると長くなりがちで、油断すると前置きなんかもまどろこしい。

長文メールタイプの人の2つの傾向を少なからず満たしているという自覚あり、なのだ。

一方、いわゆる脱力系の人とも付き合いが増えてきたんだけど、彼女たちのメール見ているとやっぱり性格が出てるなーって思う。

基本、文章が短い。時候の挨拶もかなりシンプル。結論から入ることが多くて、しかも用件が一つか二つに絞られている。改行も頻繁にあって見た目のスッキリ感が違う。ついでに、連絡メールでない限り、こちらの返信を期待している印象が薄い。

やや素っ気ない感じではあるけれど、なんというか、すごくラクーな感じ。密かに、「かっこいいなー」と憧れてしまう。

今はこうした人たちの所作が新鮮で、自分にもそのエッセンスを少々インストール中。なるべく短く、結論を早めにいうメールを心がけているけれど、「返信不要です」とか書きながら、返信来るかな、来ないかな、なんて気にしちゃう自分の往生際の悪さが笑える。

ちなみに、短くシンプルなメールに憧れてはいるものの、長いメールの湿度の高い文章の良さも知っているし、それに救われることがあるのも事実。まあ、生来はこっち派だから。

さらに言えば、長文メールはおおむね疲れている時に読むと少々気が滅入るけれど、疲れない長文メールというのもあるのだ。

それはずばり、自分の送るメールが長文であることと、そんな自分の傾向を自覚してる人のメール。「悪いけど今日は長くなるから聞いて!」という前置きがあったり、「いつも長いメールになってごめんね。」みたいな締めがあると、長いメールでも、あー、わかって書いているのねー、いいよ、大丈夫よー、とこちらの気もすむ。

まあ、なんというか、メールが長くても短くても、自分という人間を知っていて、さらにそれをごまかさない人、というのは魅力的な人ってことなんだ。




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明日できることは今日するな~小田嶋隆を読む。

2015-01-18 18:59:32 | 本・映画・音楽
コラムニストという物書きのカテゴリーがありますが、私はあまり、このコラムニストという人たちの文章を真面目に読んだことがありませんでした。

随分前に、年上の友人から誘われてナンシー関さんの消しゴム版画展に出掛けたことがありますが、ナンシー関という名前は知っていても、ナンシーさんがコラムニストとしてどんな仕事をしている人かも知らなかった。

そもそもコラムニストってなんだっけ。ジャーナリストでなく、エッセイストでもなく、コラムニストって?!定義としては、雑誌や新聞に時事などを材料にコラム記事を書く人らしいけれど、イメージとしては、取材もなく現場も知らず、斜に構えて毒を吐いてる人?!

そんな胡散臭さを勝手にイメージして、コラムニストにアンテナを張ってなかったのかな、あたし。無知って怖い。食わず嫌いってもったいない。

少し前にNHKのBSで放送していたナンシー関のドラマ「ナンシー関のいた17年」の再放送を見て、ナンシー関ってすごく面白い人なんだーと衝動を受けました。コラムニストという肩書きの人たちも玉石混淆、こんなに素晴らしい仕事をしている人もいるんだーと、遅まきながら理解した次第です。


と、前書きが長くなりましたか、今回は伝説のコラムニスト、ナンシー関さんについて書きたいわけではありませんのであしからず。ナンシー関さん以上のインパクトでコラムニストのイメージを私の中で一変させた引きこもり系コラムニスト、小田嶋隆さんの話です。ひきこもり系という枕詞がまたなんとも怪しいのですが。

最初に出会ったのはツイッターです(最近の私のネタ元は非常にツイッターが多いです)。私がフォローしている内田樹さんが多分小田嶋さんのツイートをリツイートしたものがタイムラインにのっかってきたのがきっかけ。

どんな内容だったのかは覚えてないのですが、たぶん「おおっ、このツイートすごっ…」と思わせられるなにかがあったのでしょう。さっそくホローしました。

それから流れてくるツイート一つ一つの、その本質をとらえている眼差しの確かさといったらなくて、いちいち共感の唸り声をあげましたよ。ジョークやユーモアを織り混ぜながら軽妙なノリで核心をつく、みたいな感じも好きでねぇ。

「健康で文化的な最低限度の生活」には「愚かな使い道に金を消費する自由」が含まれている


などと、生活保護の現物支給の意見に異を唱える少々リスキーなツイートを繰り返すこともありましたが、私はなるほどーと膝を打ちました。

週一で連載コラムを載せている日経オンラインの「ピース・オブ・警句」では、安藤美姫さんの出産騒動に物申して安藤さんを擁護したり、生活保護不正受給の件で某お笑い芸人を徹底的に糾弾した国会議員にかみついたり、最近ではフランスのテロに端を発した風刺画の「ユーモア」の違和感について意見を展開したりして、毎回物議を醸しているようです。

小田嶋さんの書くものはネット上でよく炎上するそうなのですが、まあそうでしょうね。取り上げるネタが相当際どいですから。でも、きっとそれすらも楽しんでるんですよ、このお方は。

ガンバ大阪についてのツイートをしたところ、ガンバのサポーターからなのかよくわかりませんが、「ボケ」だの「バカ」だの「消えろ」だのずいぶんなことを言われるんですが、こんなのにも無視しないで返しちゃうんですよ。「バカってもしかしてわたしのことですか?」みたいなとぼけた感じで。

私が惹かれるのは、このおとぼけ感もそうなんですが、ゆらぎの賛美とでもいうかな。政治イデオロギーとしての右も左も言わない感じ、権力反権力でもない。人間の矛盾と葛藤をそのまんま不格好な姿として体現している文章で、そんな中にも「弱さ」の受容と肯定、「自由」だけは踏みにじられてたまるかという負けん気、この二つの芯は全然ぶれない。絶対譲らない。このなんというか、アルデンデみたいなところに魅力を感じてしまいます。

書いていることのほとんどが取材や研究によっているというよりも、自らの人生を土台にした生き方あり方感じ方によって表現されている印象で、それが間違いなく優しくて温かい。

といっても、「置かれた場所で咲きなさい」とか、「人間だもの」みたいなわかりやすい優しさや温かさではないですよ。毒も吐くし、笑いも幼稚性も漂わせているんですが、多勢に無勢の考え方には取り込まれないぞっていう気迫は伝わってきて、特に理不尽に叩かれる側への援護射撃は破壊的ですらあります。

ただ固定化された弱者を応援する感じでもなくて、社会的には強者と呼ばれる人だって、あまりにもひどい叩かれ方をしていたら、さりげなくホローにまわったりしてね。たとえば信条や生き方的は真逆?な大阪の橋下知事について、とある週刊誌が悪意のある記事を載せようとした時の顛末については「下品」と週刊誌の記事を断罪してますからね。こうしたゆらぎのバランス感覚も好きです。


でね、私が初めて手にとった小田嶋さんの書籍がこれなんですよ。


『場末の文体論』小田嶋隆


「場末の文体論」なんてタイトルで、あれっ、内田樹さん?って一瞬なるわけですが、違いまーす。タイトルつける時に参考にはしたみたいですけどね。 「ピース・オブ・警句」のコラムをまとめたものの書籍化第四弾。ご本人も解説してますが、この本に限っては時評の要素の強い記事は少なく、少年時代のあれこれを綴った懐古的な雰囲気をもつ記事を中心に集めたようです。だからかな、かなり読みやすいです。

頑張ることも、それを期待されることにも疲れていた中学時代、「怠ける」ことにひたすら憧れた小田嶋少年が好んで読んだのは北杜夫の「どくとるマンボーシリーズ」と狐狸庵先生こと遠藤周作の本。そして小田嶋少年が求めてやまない怠惰イズムを後押しした言葉が、これですって。

「明日できることは今日するな」


遠藤周作の著書の中で紹介されたトルコの有名なことわざだとか。

ほー!と感心しつつも、おーい!中学生が、こんな言葉にトキメいてどうする!ってつっこみたくもなりますが、すでに中学生にして人生の本質を見抜いてしまうほどに老成してたのかな。お勉強はできたみたいですから、頑張る経験も努力もしたでしょうし、ただの怠け者ではなかったはずなんですよね。

さらに言えば、自分の弱さに素直で、自由を希求する心の感度はきわめて強かった小田嶋少年。その気性というか生き方を持ったまま大人になりコラムニストになったということなんですかね。頑張らない、頑張れない人を追い詰めないのも、マジョリティとは違う行動にでる人を庇うのも、それらを恐らくはご自分にも認めているからなんでしょう。だから、こんな感じの文章になるんだろうなー、というのがわかります。

まあ、そんな私の感想はこの際どうでもいんですが、この本かなり面白いです。昭和の名残とメンタリティをあらゆる生活シーンでひきづってる方々、少年少女時代のノスタルジーに浸りたい方々、必読です。笑いあり、涙ありの一冊。ついでに自分の10代に読んだ本とか音楽とか趣味とか、振り返って辿りたくなること請け合いです。

小田嶋さんと同世代ではなくても、少年少女を過ごしたのが「ザ・昭和」の人には、相当シンクロてきる代物ではないでしょうか。多分アラフォーより下の世代には、よくわからかない世界かなって気もします。

ちなみに、私が読んでいた小田嶋本を最初はなんとなくチラ見していた夫も、案の定はまり中です。夫のお気に入りはコレ↓で、読みながら、ずっとクスクス、ニヤニヤ、時に声をあげて笑っておりましたよ。こちらもオススメです。

『人生2割がちょうどいい』岡康道・小田嶋隆














気がすむまで。

2015-01-15 09:54:24 | My メソッド
前回の記事で触れた「人生のやり残し」という言葉から改めて思うことがありました。

いてもたってもいられず焦りまくり、つんのめり、これが達成できなかったら、これを失ったら、自分はおかしくなってしまうんではという切迫する思いで、30代の私が手に入れたものが二つあります。

それは、夫との問題多き(今考えるとそうでもないかな)結婚と、30代後半の崖っぷちの妊娠。

その焦りは自分自身や自分の人生への不信感でしょ?プロセスをじっくり味わう余裕のなさでしょ?って、今なら突っ込みを入れられますが、あのときは、もうどうにもこうにも、自分の衝動を、焦燥を、うまくなだめることができなかった。

結果的に二つとも手に入ってから思っていたのは、自分が必死になったから二つともが手に入ったのだということ。

でも、最近になってその考えは違ったのかな、勘違いだったのかなと思うようになりました。

自分自身と距離をとって、自分の人生を俯瞰してみれば、あんなふうにしなくても、あんなに悲壮感を漂わせなくても、多分その二つは手に入った。のんびり構えられる私だったら、もっとスムーズに手に入ったのかもな、とも思うのです。

夫と息子は、どの道私のところに来てくれた。手垢のついた言い方をすれば、それが縁というか運命のようなものに思えるのです。

どうしても手に入れなくちゃならないもの、なんて、人生には多分ないのです。その「どうしても」がすでにあやしい。本当に必要なものは、そんな風にしなくても手に入るはずのものをいう気がします。

じゃあ、私があのとき手に入れようとしたものはなんだったのだろう。私の必死さはなんだったのだろう、と。

それはもしかして「気がすむ」ということ。私は「気がすむ」ということを手に入れたかったのかな、と思うのです。

「結婚」と「妊娠」をどこか過剰に幻想化していた自分が、必死になって、自分が納得する形で、それらを手に入れたいと思った。そして手にいれた。そして気がすんだ。

そのプロセスをどうしても踏みたかったのかな、と。

幻想が幻想だとわかって、気がすんではじめて、結婚も妊娠も客観化できるようになれたような気がします。結婚も妊娠も、それはいいものでも悪いものでもなく、自分にとって好ましいものかそうでないものでしかなくなったということです。

だから、結婚や子育てを謳歌している人たちが独身の人にいう「絶対結婚した方がいいよ」「子どもはいいよ。もつべきだよ」という少々お節介な言い草を聞くと、なんだか気恥ずかしいというか、居心地の悪い気分になります。

結婚も妊娠も、「どうしても」という類のものではないのになー、と。

でも、そういったことも、必死にあがいて、手にいれて、気がすむという着地をしなかったらわからなかっただろうな。そういう意味で、あがいた私も必要なあり方ではありました。


文芸評論家の小林秀雄が、何かの本で確かこんなことを書いていました。

東大に入ってわかったのは東大なんて大したことがない、ってこと。ただ、自分が東大に入っていなかったら、そんな気持ちになれただろうか。東大に入ったからこそ言えることなんだ。

身も蓋もない話ではありますが、昭和を代表する稀代の評論家も、日本の最高学府である東大に対してある種の幻想を抱いていたのかもしれません。そして、自分が東大に入って気がすんだから、幻想が解けた。「こんなものか」と手放せたのです。


じゃあ、手に入らなかったら、願望が叶えられなかったら、その闘いに終わりはないのか、という問いが残ります。

たとえば子どもがほしいという願いは、叶わない人も少なくありません。でも叶わなかった人の多くがその闘いを卒業しています。もちろん、その悲しさが胸の底でくすぶっている人もいるでしょう。でも、本当にすがすがしく卒業する人がいるのも事実です。

うまく卒業できた人は、どうやってそれができたのか。

おそらく諦めた、ではないの思うのです。手に入れるという方法以外で、自分の気のすむところまで、必死にあがききって、自分の落としどころを見つけた、自分との折り合いをつけた、「ここだ」という地点にたどりついたということだと思うのです。

もう、いいや。やるだけやったし。気がすんだから。

そんな境地です。

妊娠でいえば、不妊治療を納得するところまでやったということかもしれないし、養子縁組という道を選ぶことかもしれないし、心を病むほど嫉妬に苦しんだり、死にたくなるほど悩むことだったかもしれません。

手に入らない事実は、大きな失意が伴うものではあります。望んだものは手にできたほうが気持ちいいに決まっている。

ただたとえ手に入らなくても、「気がすむ」方法は見つかる。自分の気持ちととことん付き合ってやることができれば、そうした自分を自分自身が心から許可できれば、望んだものを手に入れたこととはまた違った「気がすむ」地点、深遠な境地を手にいれることができると思うのです。

こんなケースもあります。たとえば、親の助言や世間体であきらめた夢も、結婚してもひきずっている若い頃の初恋も、人生の後半になって突然ぶり返して、はたからから見たら「とんでもない行動」にでる人たち。

本人の深いところで気がすんでないまま持ち越されてしまった場合が多いと思います。

とんでもない行動によって、夢が少し形を変えて実現する場合があったり、年老いた初恋の人に再会してやっと幻想から覚める場合なんかもあるはずです。

たとえ寄り道になっても、結局は元の場所に戻ることになっても、他人から見たら無駄なことだって、それで本人が心の深いところで納得する。だから、身軽になれる、次に行けるのかもしれません。

つんのめったり、絶望したり、焦ったり、いじけたり。そうやって時間と手間をかけて気がすむまでやるって、実はものすごく価値のあることだと思うのです。


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自分を満足させるということ。

2015-01-13 10:53:55 | My メソッド
日々の生活のなかでつくづく大切だな、と思うのは、小さなことでも、些細なことでも、いかに自分の欲求に気づき、上手に満たしてあげるのかということ。

たとえば、

病院の受診時に、治療方法について疑問があったり不安があったら、たとえ先生が忙しそうにしていても勇気をもって聞いてみるということ。

レストランで食後のドリンクにコーヒーを注文はしたけれど、やっぱりアイスティに変えたくなったら、後からでも「変えて欲しいんですけど」と店員さんに頼んでみること。

通販のセールで買ったセーターが少しほつれていて「セール品ならこれくらい我慢すべき?」と思っても交換をお願いしてみること。

他人からしたら「そんなこと」だとしても、その小さな、ささいなそんなことの積み重ねが、私と社会や世の中との信頼関係を、私と私自身との信頼関係を作っているのだと思うから。

「わかりました」「大丈夫ですよ」「気づかなくてすいませんでした」

そうした言葉をもらう時、自分の欲求が受け入れられた時、その気持ち良さは、何にも替えがたい。

もちろん、毎回毎回自分の要望が通るわけでもない。断られたり、拒絶されたり、もしかして怒られることだってあるかもしれない。

でも多分、私たちが思い込んでいるよりも私たちの欲求は受け入れられる可能性が高い気がする。世界は私たちが思っているよりずっと寛容で温かかったりするのだ。

10個の欲求があって、2、3個叶わなくたって、8個叶うのなら御の字。半分だって悪くない。行動しないから叶わない0よりずっといい。「熱意で」「礼儀をもって」「きっぱりと」。お願いの仕方を洗練させることで叶う確率もきっとあがる。そう、トライ&エラー、試行錯誤して。

もちろん、自分のなかに「どっちでもいいや」という思いが勝っているなから放置でも全然構わない。

でも、「どうせ聞いてもらえない」「これくらいのことなら我慢するのが大人」的なものがブレーキをかけているのだとしたら、自分を満たすということに真剣に向き合ってみてもいいかもしれない。

最初は要求が通ったということに焦点を当てるのではなく、「自分が自分の欲求を満たすために行動できた」ということに意識を向ける。そうしたら、たとえ結果が得られなくても「行動できた」という満足感は高い。その繰り返しが、自分が自分を満たす、自分が自分を大切にすることにつながる。


赤ちゃんの時に、私たちは「おぎゃあ」と泣くことで世界に対して自分の欲求を訴えてきた。そうやって自分を満たした。すぐに自分の欲求が満たされる場合もあれば、しばらくは我慢を強いられた場合もあった。そうやって自分の欲求との折り合いの付け方を学んだ。そうやって世界と自分自身を信じることを学んだ。

大人になったからといって、欲求を満たす方法がドラスティックに変わるわけでもない。大人のやり方で、小さなこともささいなことも、そしてちょっと大きなことさえも、自分自身にも世界にも「おぎゃあ」とやったらいいんだ。簡単に諦めずに。


私の最近好きなブログに、在宅医療に情熱を傾けている長尾和宏ドクターのブログがある。先生が尊敬するビートたけしのインタビュー記事についてまとめたものが面白い。


ちゃんと生きていれば死ぬのは怖くない

長尾ドクターの医師にしてはあまりにピュアな感じも好感がもてるけれど、さすが天下のビートたけし。

「人生の満足度」こそが、人が自分の人生をちゃんと生きたかどうかを決めるという。そして、ちゃんと生きていれば死ぬのは怖くない、とも。

そうかもしれない。本当にそうかもしれない。

自分の人生を生き切るというのは、小さな満足も大きな満足もすなわち自分をどれだけ満たしてあげることができたかってことにかかってるんだ。

さらに、たけし師匠いはく、年をとるって言うことは、「やり残し」を毎日少しずつ減らしていく作業だとも。なるほどなるほど。

ユングのいう「自己実現」もまさにそういうことを言っている。

私も40代に足を踏み入れて数年、人生の後半に突入しているという意識にやっと馴染んできた。やり残しを減らすべく、小さなことからコツコツと、自分を満足させる日々を送らなくっちゃ。


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「武田双雲が好きなんだー」って言うと。

2015-01-10 21:48:50 | 日記・できごと
最近、「武田双雲が好きなんだー」なんてことを口にすると、結構な割合で否定的な言葉が返ってくるのに気づいた。

もちろん、「私も好き」とか「あの人家族をすごく大切にするらしいね」なんて共感トーンでくる人も多いけど、それとおなじくらいは「でもさー」と言う感じのニュアンスの返答が返ってくる。

へえ、あんな雲ひとつない青空みたいな人(かどうかは実際にはわからないけれで、まあブログや本を読んでいたら、大方の人となりはわかる)に、悪口の材料なんてあるの?と私などは思ってしまうけれど、否定側の言い分を聞いていると、確かに双雲さん、突っ込みどころ満載の人?とも言えなくない。

これが、浅田真央ちゃんやイチローを好きと言っても、「みんな好きだもんね」的なフツーの反応しか返ってこない。

日本人が大好きなこのお二人は、その卓越した才能だけでなく超人的な努力の人であり、横道それず、逃げ道を作らず、その道一筋に生きている、隙のない人たち。

だから、ケチがつけられない。才能も努力もどうやっても真似できない凡人には突っ込むことができない。

双雲さんは、書道家というよりむしろ書道をツールにした芸術家ともいわれるほど、そのスタイルが独特で、斬新な活動を展開しているお人。

おまけに書道家にとどまらず自己啓発系の書籍まで出版してそれがベストセラーに堂々と名を連ねちゃってる。書道の世界よりも、こちらの世界の人として彼を知っている人も多い。手広く器用にやってる感じが邪道に見えるのかな。ショートカットして成功しているように見えるのかな。まあ、つまり、やり玉に挙げられやすいのだ。

「正統派の人たちからすると『あれは書道じゃない』っていうのがもっぱらの評判だよ」

「実際に会った人に話しを聞いたことがあるんだけど、イメージと違って結構生意気らしいよ」

こんな言われ方をする。双雲さんが突っ込みやすいキャラとは言え、こう言われると私的には正直モヤモヤっとする。

若い頃に、好きなアーティストや作家のことを誰かに悪く言われると、ものすごく腹が立ったし傷ついたものだ。その人がどんなに素晴らしい人かを相手にわからせたくて躍起になったし(でもそれは逆効果だったけどね)、その悪口が実は本当なのではと自分にも好きなアーティストにも疑いの気持ちが芽生えて苦しくもなった。だから、好きな人の中でも一般受けしそうな人は口にしても、アンチも多そうな人は隠したりしたっけ。

今はそういう次元からはすっかり卒業して、好きな人は好きとだいぶ公言できるようになった。共感してもらえなくても、「私は嫌いなんだー」って言われても、あっそー、ってほとんど何も感じなくなった。

ただ、「私は嫌い」というその人の趣味を表明する言い方ではなく、「世間では」「誰々が言うところによると」的な、「私は」を横に置いた婉曲的な否定の言い方には、いまでも多少ひっかかる。嫌な感じー、と思う。


多分、それは、その嫌な感じが、その人の隠しているもの、見ないようにしているもの、埋もれたコンプレックスから来ているというのがわかるからだ。

まあ、私によくない感情を持っていて、あるいは逆で、双雲さんに関係なく、私の「好き」にケチをつけたいか、たんなる嫉妬というのもあるのだろうけど、評価の二分しがちな双雲さんは殺したはずのコンプレックスを刺激しやすい上に、その憂さ晴らしにも格好な材料なのかもしれない。

その人が自覚しない、自分にも認めないコンプレックスというものは、抑えつけられるはずもなく、言葉にはできない「嫌な感じ」として立ち現れる。少なくとも、私はそうキャッチする。

コンプレックスも、その所有者がきちんと認めているものは悪さをしない。そういう人のコンプレックスは、可愛らしくさえ映る。

例えば、私が「綾野剛、かっこいい」「イチロー天才」とか言って騒ぐと夫が面白くない顔をしたり、彼らをけなしたりする。一瞬、ムカッときても、夫が素直に「そうだよ。これはかっこいい人への嫉妬なの」なんて素直に言うと、嫌な感じーとはならない。あらま、かわいいじゃん、となるのだ。

半殺しにされたコンプレックスは、かわいくなくてたちが悪いのですよ、ほんと。



えっと何書いてたんだっけ。

あっ、そうそう、人が「いい」とか「好き」とかいうものに、嫌な感じーの否定はやめてくださーいってことだ。

もしそうくるなら、私は怒りはしないかわりに、好きな人を否定された仕返しとして、その「嫌な感じ」の分析してしまう作戦にでるぞ。そうすると、自分のモヤモヤが薄れるからね。

こじつけだけれど、コンプレックスについて解説した本は河合隼雄さんのこの本が秀逸。是非ご一読あれ。