【「あげる」「してあげる」お布施は人生の修行です。「お布施」についてお釈迦さまから学ぶ。】
お寺に対して、個人的にお布施をしたことはありませんが、母が、お勤め?をしてくださったお坊さんにお布施?お礼?をしたり、お寺を改築するとかで寄付みたいなのが回ってきてるのを見たことがあります。でも、お布施は、お礼や金を出すこと(何かの対価)をいうのではないのですね。つまり、商売になってはいけないのですね。
お布施とは、人に「あげる」「してあげる」行為そのもの。喜んで捨てる、喜捨。人のためになるもの(食べ物、着る物、薬、座るところなど)や事(愛語、笑顔、手助けなど)を、ただ「あげる」「してあげる」。それが、自分の心を育てることにもなる、功徳になる。
お寺へのお布施はしたことはないけど(母がしてる)、身近な人へのお布施はしてます。
お布施をするときの心の状態・動機は8つに分類されるそうです。みんながやってるから…(母はこれ?)ではなく、きちんと意味を知って自発的に、自分の心をよりよくするためにする方がよいですね。
お布施を受ける側の有り様によって、
(立派なお坊様か、徳の高い人か、普通に道徳を守ってるいい人か、戒を破ってる凡夫か、動物かなど…個人は14種に、団体は7種に)
つまり相手の徳の高さ・大きさによって、功徳の大きさが違ってくるし、相手のためにならない行為(欲を助長して不幸になるとか)にならないように気をつけることも必要だとか。
でも、お布施はお布施する人の心だから、もし、ダマされてもダマした行為の結果はダマした人が受けるだけで、純粋にお布施した人には功徳があるそうです。ダマされないだけの智慧がある方が功徳は大きいけどね。(ダマされてるかも?などと思いながらとか、嫌々お布施すれば功徳は小さい)
家のお寺のお坊さんが、遊び人の破戒者(ただの凡夫だね)であれば、これはお寺(仏教)を守るためにお寺にお布施します、と言って(という心で)お布施すればよいそうです。
お布施で大事なのは、智慧と慈悲・喜捨の心。
お布施するものは、お金(本来お坊様はお金を受け取ってはいけないのだけど、日本社会ではお金がないと何もできないし、お坊様が戒を破り懺悔しつつ受け取っているらしい。でも、”お布施としてお金を要求”するのはお坊様としてはできないらしい)だけでなく、相手が必要としていて役に立つもの、喜んでもらえるもの、戒を破らないもの(酒とか違法なものとか)を選ぶこと。
見栄を張ったり(エゴ)、無理をしたりしないこと。自分でお布施できなくても、人がお布施(寄付)したことを一緒に喜ぶ(随喜)のもいいとか。
日本の仏教で腑に落ちないことでも、本来のお釈迦様の教えを勉強すれば問題なくなります。大事なのは、自分の心なのですね。
詳しく、きっちり説明されててすごく勉強になりました。(Q&Aあり)
気持ちよくお布施していきたいと思います。
世のためすべての生きとし生けるもののため、ですね。
自分の徳を積むつもりで、見栄を張らず、ケチらず、無理せず気持ちよくできる位(人それぞれ)を考えるといいんでしょうね。功徳と金額は関係ないですからね。(本来、お坊様はお金は受け取れない)
日本はお金でお布施をするから難しいですね。
(お坊様やお寺も現代日本ではお金がある程度は必要ですからねえ)
お金が無い人は菜園で取れたお野菜とか、食べものや生活必需品などを提供するとかでもいいってことですよね。
お布施ですから金額が決まっているわけではない。
いくらあげればいいのか?
毎回、頭を悩ませます^^
したっけ。