わかりやすい喩え。(深いよ~)
>ある人がアンパンを食べたとしましょう。アンパンがとても美味しいと、その人は喜んでいる。そこで他の人が出てきて、「いいえ、アンパンは美味しくはない。あなたの経験は間違っている。アンパンは不味いはずです」といったとしても、その話は成り立ちません。食べた人にとって美味しかったことは事実です。(ですから、人の瞑想体験は否定できません。)
>その体験を自分の主観、自分の信仰、自分の哲学に合わせて解釈するところが疑問になります。お釈迦様は「修行者の解釈は見解(主観)である」と説くのです。(「なんのために瞑想するのか?」アルボムッレ・スマナサーラ著)
全てを知り尽くした者、つまり完璧に悟った者ではない私たちの(”脳みそ”で考えた)考えや見解はあまりあてになりません。各自が経験して気がつく以外ないのだけれど、経験してもそれを自分勝手に解釈しないこと
、、、ただ見えている、ただ気がついている、わかっている(悟っている)。でも、”ワタシはわかっている”とは言うことができない。なぜなら、それは自分の見解でしかないから。自分の(せまい)見解を乗り越えた境地。
難しいけれど、悟りの境地ってそういう境地なのね・・・。(想像でしかない)
本当の学び(悟り)は、実際に経験してわかること。本などからの知識は経験を補う補助的なものでしかないし、読むだけで”わかる”なんてことは難しい。頭であれこれ考えるより、つべこべ言ってないで、やってみることだね。やらなきゃわからない。
当然、人は人、自分は自分(見解は人それぞれ)。人に”自分の見解”を押しつけることはできません、ありえません。あくまで、個人の一見解でしかない。気をつけようと思います。
したっけ。
>全てを知り尽くした者、つまり完璧に悟った者ではない私たちの(”脳みそ”で考えた)考えや見解はあまりあてになりません。各自が経験して気がつく以外ないのだけれど、経験してもそれを自分勝手に解釈しないこと
難しいですね。
経験しても、自分流に解釈してはいけない!
自分がお釈迦様のレベルに達していないといけないのですか?
まずは謙虚に自分の経験を話せばいいのでしょうか。
押しつけることも押しつけられることもないですね。
迷惑にならないように気をつければ、あんまり気にすることないかも。^^
そうそう。普通はそういうことだと思いますよ^^
”悟りの境地の話”になると、お釈迦様以外何も言えなくなりますけどね。
話すなら「~じゃないかとワタシは(個人的には)”思う”んだけど、どうかなあ」くらいにしておいた方が無難かも^^