何年か(10年位?)ぶりに「バカの壁」を読んだ。
以前読んだときには、それほど面白いとも思わなかったし、最後まで読んだかどうかも覚えてない。
改めて読んでみると、養老さんの言うことがすごく分かるし、心にものすごく響いてきた。
彼の言う「情報は変わらないけれど、人間は変わる」ということだ。私も変わった。
多分、「バカの壁」が前よりは低く小さくなったのではないかと、自惚れている。
「バカの壁」は養老さんの話を編集部の人が文章化したものだが、
この「まともな人」は『中央公論』に連載された「鎌倉傘張り日記」というエッセイを収録したものだ。
なので、養老さんの人柄が文章からも伝わってきて、とっても楽しく読むことができた。
内容は「バカの壁」と重なるものが多い。(同じ人の本だから当たり前か・・)
老人のぼやき?というより、今の世を憂い警鐘を鳴らしているとでもいうか、
(2001~2003年当時の)世の中の出来事を、皮肉な語りとユーモアで(ニヤリとします)
バッサバッサとするどく斬りながらも、よくなってほしいという願いが込められたものである。
そして、とても深い。
あたり前のことである。でも、多分多くの人にとっては「え?」ということかも知れない。
それくらい、今の人々の「常識」は「あべこべ」なことが多い。そこを養老さんは指摘している。
あたり前のことは意識していなければ流れ去っていく。意識していれば、「そうだな~」と強化される。
そうやって、意識していない人はあたり前のことと逆のことをしたり考えたりしてしまう。それが苦しみの元になっているんだな。
虫の話はオタク過ぎて正直、よく分からなかった。でも、「自然農」に興味をもち、「137億年の物語」を読んで地球への興味が湧いてくると、
「ああ、養老さんは、太古の地球へのロマン(あこがれ?)が昆虫採集に繋がっているんだろうな」
と思えるようになった。何だか勝手に親近感・・・。
「教養はまさに身につくもので、座って勉強しても教養にはならない。・・・それは、、、情報化時代だからであろう。・・・情報は固定しているが、人は生きて動きつづけている・・・ 情報が変化していくのではない。われわれが変化していくのである。」(〈学習とは文武両道である〉より)
お釈迦様のいう「無常、無我」である。「情報」とは「写真に写った人間」のようなもので、その時のものだけど、写ってる生身の人は時が経てば変わっていく。そりゃそうだ。だけど、私は私、人は変わらないと思っている人は多いように見える。(だから批判する、怒る、学べない)
「教育の根本はなにかというなら、話は簡単である。水と餌とねぐら、それを自分で探すようにさせる。そうすれば、アッという間に子どもは育つ。以上終わり。」
「われわれは価値観を変えなくてはならない。一生懸命に働き、経済を発展させ、物質的に豊かな世界を作ってきたのは、なんのためか。安全快適で、暇な世界を作るためである。それなら若者が努力せず、遊んでいるとして、怒る理由はない。
・・・・・ずいぶん時間ができたはずである。それを何に使うか、それは使う人の勝手であろう。それだけ時間ができたなら、はじめからなにもしない、そういう人が出て、あたりまえではないか。・・・・・働けば働くほど、人間が暇になる・・・ただし暇になる人と働く人が一致しない。
暇の分配の不平等はまだ問題にならないらしい。」(〈教育を受ける動機がない〉より)
「アメリカという、『なにか』を理由にして、『だれかが』力で無理を押し通す。それに反撥する相手がいる。その循環がテロを生んだのであろう。だから私は国益という言葉が嫌いなのである。『いつの』『だれの』益か、それを明確にしてもらいたい。
国益とはいまでは環境問題しかない。私は個人的にはそう思っている。片々たる人間の利益ではない。自然のことである。自然がどのような状態に置かれるか、それは未来の人間まで含めた、人類全体の利害に関わる。あとのいわゆる政治経済は、そのときどきのゴミみたいな問題である。時が過ぎれば忘れる。立場が変われば変わる」
「テロであれ、反テロであれ、人間のすることだ。人間には誠実な人と、不誠実な人がある」
人間には「ちがい」がある、いろんな人間がいるというだけ。ちがいがあって平等。それを、みんなが認めることができればなあ・・・
「ナチス・ドイツについて・・・・・共同責任などというものはない。人間のなかに誠実な人と、不誠実な人があるだけである。・・・・世界はおおかた不誠実な人でいまも埋め尽くされているであろう」
「われわれはなにごとであれ、『すでに知っている』世界に住んでいる。なに、なにも知ってやしないのである。・・・何十年一緒に住んで、女房の気持ちがどこまでわかるか。それがわかっているなら、自分が考えることが"正しい"と思いつめて、飛行機を乗っ取って、ビルに突っ込んだりはしないはずである。どこかの国に爆弾を落とせば、そういう視野狭窄がなくなるか。逆にそういう種類の人が増えるばかりであろう」(〈わかってます〉より)
「戦争を準備するものは、軍備ではない。当たり前だが、われわれの心である。つい半世紀前、特攻まで繰り出した日本人が、真の平和主義者に変わるなどと、じつは私は信じていない。それなら北朝鮮に対するいまの日本人の感情は、戦争の感情だとしてもおかしくない。
相手が礼儀もクソもないから、自分もそうなる。それは人ではない。泥棒にあったから、自分も泥棒になる。そういうものではなかろう。人が人であることを示すために、本来は儀礼が存在するのである。相手の問題ではない」(〈マツタケはオレにくれ〉より)
結局、自分のことしか考えられない自己中、自分が正しいという自己中なのが人間の本質なのかもしれない。
みんなが誠実な人間に変わる(こころを磨く)ことができれば・・。でも、変えられるのは自分だけ・・。自分で気づいて自分で変わるしかない。
自分は自己中な「人間」であり、すべての人間にとって「正しい」なんてない。自分は本当は何にも分かってはいない。それに気づいて自分を何とかしようと思うことが、「まともな人」への第一歩なんだろう。
星5つ
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