二の丸の東北(丑寅)の櫓を再建しようってんで民間からの寄付金で工事が進められています。
市有の城址内に出来上がった建物は市に寄贈されるんで税金は使われないというが、関連費用とか維持管理しなくちゃならないので
お荷物を負わされることにもなります。
小学校の校歌に「♪城址の森のかたほとり 小鳥は歌い花は咲く・・・輝く歴史誇りつつ・・・」と歌
わされた。その頃城跡であることは知ったが、まさか、作っちゃおうなんてことは夢にも思わなかった。
(お城マニアではありませんから、違っていたらコメントください))
できあがってきた丑寅櫓の東面
二階建ての入母屋造りの上に一重の入母屋の望楼(ぼうろう:物見やぐら)を載せた「望楼式」の櫓です。
基部の入母屋と望楼の入母屋の棟の方向が90度違えてあります。国宝の犬山城もその典型ですね。
基部の入母屋の棟瓦が上部望楼の軒に接するくらい近く、個性を出しておもしろいと思います。
ただ昔の形は知るすべもなく、設計者の想像ですね。三浦正幸氏は「立派な城」は最上部の入母屋破風「三角形の端部」を城の「正面」に向けるとおっしゃってました。この櫓では最上部破風は東(西)向き。天守の再建予想図では南(または北)向きでした・
櫓北面。石積み櫓台は数年前に作られていたが、三浦教授監修になって大きさが違うということで作り直すと聞いた。
この写真では櫓台の石積み上部だけが細かい石になっている、既設櫓台の大きすぎる部分は撤去し、足りない部分は小さい石で作ったのかと想像する。真実は知りたい。
土塀の屏風折れ。塀に穴がいくつもあるが、鉄砲・矢を打つ穴「狭間」。横方向には狙いにくいので塀を屏風の様に折り曲げて、ここにも狭間を付けている。
大きな城では濠や石垣にも凹凸をつけ横方向から矢を射る「横矢掛け」を意識している。
櫓の西面と土塀の屏風折れ
建築中の内部。柱と外壁。昔は土壁だったと思うが、木造合板張り。
これは外壁と柱。本物は土壁だったと思いまうが、ここでは合板パネル。
これは建築中に見た内部。一、二階は吹き抜けになっており、その理由は木造の三階建ては建築基準法に抵触するからと。
二の丸内部、芝生広場、昔は二の丸御殿があった。
すでに再建されている本丸の丑寅櫓。城門と共に、かの有名な「ふるさと創生金」で作られたというが、私は知らんどる間に造られたなぁと思った。このころの監修は名工大内藤昌教授(故人)による。この方も城郭建築第一人者だったと聞く。こちらも資料のないまま、想像たくましくしての設計らしいが、私には格好が良杉というのが感想。わずかに資料の残る主要寸法、階層などはそれに合わせ、全国にある城を調べつくし、均整の取れた形と建築士としてのセンスを発揮したいからかっこいい城になりがち(金を出した人からモンクの無いよう)
これは二の丸の正門である「鍮柵門(ちゅうじゃくもん)再建済み」 「お寺じゃないの?」と言った人あり、
天守再建の講演会などで、地元城大好き人間などの雑談に聞き耳建てていると「もっと立派な城にしてほしい」「実際の形はわからないので、なるべく立派なのを造ってしまえば、それがホンモノになる」そんな考え方の人たちが多そうだ。