
ルワンダに入った直後地元の人たち

こんなに立派な角になりました。ルワンダ
2007年10月11日木曜 朝くもり 昼はれ
ルワンダの始めての朝。今日やらなければならない
①銀行でお金を下ろす②ブルンジの大使館を確かめ
る、二つである。
ホテル前に出て地元の人にバンクは「何時に」開くの
と聞くと「8時」とのこと。それじゃもう「開いて」るね。
ホテルの人が時計を見せて「ルワンダ時刻」は一時間
遅くなってるのだった。
散歩がてら銀行に歩いて行く、二件の大きな銀行のう
ち一軒目はカードを使えない。二軒目もATMカードを使
う器械はないが窓口で下ろせる。しかしシティバンクカ
ードではダメだった。「マスター」か「ビザ」カードで下ろ
すことになった。
米ドルが少なくなったので600$米ドルを下ろした。その
内の100ドルを「町の両替屋」で交換した方がいいとそこ
の銀行員は教えてくれる。とりあえず米ドルを確保した
ので少し安心できる。
ブルンジ大使館をオートバイタクシーに聞くと市内から
5kぐらい離れた所にあるらしい。宿に帰りオートバイタ
クシーの後ろについて行く。キガリは丘陵地帯にある
ので上り下りの連続である。周りの丘陵地帯にも住宅
が建っている。
丘陵を登りくだり住宅地の中にあるルワンダ大使館に
ついた。ここは車はそんなには多くなく静かな中堅都
市と言った所だろうか。いつものようビザ申請書には
名前、パスポートナンバー以外ひらがなで記入する。
なんてかいてあるのでしょう、わかりません、こまりま
した、ここもわかりません、どうかよろしく、おねがいし
ますなどと全部ひらがなで記入した。「フランス語」
かと係官、イヤわたしは「ジャパーニーズ」しか「書け
ないんです」すみません。
イヤーな顔で受け取ってもらった。パスポートの発給
受け取りは午後3時」「いやすぐにほしい」その時笑顔
の責任者みたいな人が来た「すみません」いったん帰る
とここまで「戻って来れない」ので今スタンプを「お願
いします」必死に合唱ポーズ。
どうなるのか心配しながら現地の人5,6人と一緒にロ
ビーで待つ。20分ぐらいしてビザのシールを貼ったパ
スポートを返してくれた、ありがたい。
責任者の部屋まで行き胸をなでおろすポーズで「あり
がとうがざいました」とゼスチャーでお礼をした。
受付の人にも同じポーズをして宿に戻る。
パスポート一ヶ月ビザ代=40$=5000円現地通貨
はダメである。オートバイタクシー700ルワンダフラ
ン=175円。ついでにビール750リットル800
RF=200円、晩飯セット1600RF=400円ぐらいかな。

ルワンダ 首都キガリ市内

キガリ市内
夕方昼間見つけていたネットカフェに自分のパソコ
ンをつなげて貰えるかどうかを聞きに行く。「大丈夫」
とのことなので明日12日に来ますので「よろしくと」
頼んでかえる。
帰る途中「彼のことが」気になった。11日キガリに着
いた、その日の夕方レストランを案内してくれた青年
のことを。二軒のレストランを案内してくれた帰りに
「ファザー、マザー」はキガリに住んでいるのと聞い
た「二人ともなくなった」「1994」このとき二人とも
亡くなるなんておかしいなー
若くして両親はなくなったんだー、彼はまだ25歳ぐ
らいだから幼い頃なくなったんだーぐらにしか、そ
の時は思わなかった。部族の争いで100万人と言
われる大虐殺があったのは1994年。13年前で
あったことは知っていた。阪神大震災の3年前のこ
とである。最近のことなどである。
歩きながらフッと「アーそうだったんのか」彼が
「1994」と言ったのは大虐殺のあった年なのだ。
どのようにして連れ去られたのか、自宅で殺され
たのかはわからないが彼の幼い心に大きな傷を
残していることは間違いない。彼とはそれっきり
会っていない。