松尾清晴オートバイ夢ひとり旅・世界走行中・5年10ヶ月・102ヶ国(訪問111カ国)・28万km走破・総集編

2000年10月~2008年11月まで5年10ヶ月・102カ国(訪問111カ国)1500ccで28万km走破

オートバイひとり旅・シベリア横断~モスクワ~中央アジアの旅 57 イラン 

2013年08月19日 | 赤道直下と陸路国境148か所

さー・・銀行で降ろせると聴いたマシュハドに向かう

イランについてこれでカードで現金をおろせる、しかしどの銀行に行ってもまったくカードが使えない・・もう駄目だ
持っているんものを手放して現金を手にするしかない。「ビデオを売って」店から出てきたらオートバイの周りに
集まっていた地元の人たち

<イランについてホッとする・・が>

2003年9月30日火曜 12℃はれ
一刻も早くお金を下ろしたい!130キロ離れたマシュハドに向かって8時45分出発。10時半頃マシュハドの街につく。マシュハドに着くあたりからオートバイの兄ちゃんが並行してついてくる。街に入った所で兄ちゃんにきのう銀行で書いてもらったアドレスの紙を見せる。「OK]と兄ちゃんは銀行までジグザグに走っていく。銀行に着いた。さー下ろせるか・・銀行の中に入っていく。

T/Cトラベルチェックもカードも「NOー」ダメだった。となりの銀行に行った、ここでもダメだった。ここで5km先のセントラル銀行のアドレスを書いてもらう。オートバイの兄ちゃんがずーっとつき合ってくれている。銀行の前に止めていたオートバをパトカーがとり囲んでいる。パスポートを見せると・・何事もなく離れた。もしかすると見張ってもらっていたのかもしれない。セントラル銀行に行こう。兄ちゃんがひっぱてくれる。

セントラル銀行に着いた、ここで大丈夫だろう。銀行の中に入った。イランは「カード」「オール」「イラン」「ノー]イランではすべてのカード使えません。トホホ。ノーマネーノーマネー、セントラル銀行で「プライベート」両替所を書いたアドレスを渡される。300mはなれたプライベート両替所の入っている商店街のビルに入った。モンテネグロと同じく電話で確認しているようだ、もしかしたら「OK」かも・・・しかしやっぱりダメだった。

<あーお手上げ・・もうだめだ・・ビデオカメラを手放す・・>

あーもう次は物を売るしかない。その前にプライベート両替所から日本大使館に電話を入れてもらった。大使館は「身ぐるみはがされた」「パスポートもない」人にだけ大使館員の個人のお金を貸し出しているとのこと。しかたないフロリダ・キーウェストでデジタルを盗まれて仕方なくアメリカ・フロリダで買ったJVCビデオだ。使いづらくてほとんど使ってない。金になる「カネ目の物」「ビデオカメラ」を売るしかないな。

手元には20ドル・2400円だけしか残っていない。これではテヘランまでも行けない。プライベート銀行の人に「カメラ」を「売りたい」と言うと下の二階のカメラショップ店まで案内してくれた。500ドル6万円ぐらいで売れるだろう。2年前フロリダで買ったビデオは10万円ぐらいだったものだ。あまり使ってないビデオ13$(15万円)の品物だと書いて見せる。店の人は300ドルと言う。わたしは700ドルと書いて半分の350ドルで売ると・・。

店の人は330ドルと上げて来た。時刻は12時を過ぎている。店の人はあっちこっち動き回り電話して価格を聞いているようだ。「SONY」だったらいいが、「これはダメ傷も付いて」いる。また300ドルになった。まぁこれでも36000円・・・心の中で「これでもいいか」。テストしていた若い店員が「のぞき窓」から見えないと指摘、故障を発見。エ―おれも気づいていなかった。ほんとうに「のぞき窓」からなにも見えない。


途中から付いてきた青年にあっちこっちの銀行に連れて行ってもらったが「すべての銀行」で「カード」使えない
ビデオカメラを売ったあと青年の実家に・・・

<ビデオカメラ・・250ドル=3万円で手放す>

映像は画面で撮るから支障はないはず。しかしこれでは買えないと。うーんまいったなー。頼む「ノーマネー」だから。店の人は250ドルと書いて見せる。250ドル・3万円でもいいや・・「OK」。売れればいいや100ドル紙幣2枚とイラン通貨50ドル分を受け取る。これでどうにか息つける。13時になった。店の前に置いたオートバイの前にはすごい人だかり。店の人に食堂を案内してもらう。

食堂から出て来たら、帰ったと思っていたオートバイの兄ちゃんが待っていた。おれは「テヘラン・テヘラン」と言う。「OK・OK」ついて来いと。てっきりハイウェイかテヘランに向かう入り口まで引っ張ってくれるとばかり思ってついて走る。しかし東に走っている変だなー。着いたところは彼の実家だった。鉄の扉を開けてティを飲んで行け?中庭にオートバイを入れる。写真を撮ってテヘランに向かおう。

お父さんお母さんが迎えに出て来た。2階にあがれと。14時を過ぎている。じゅうたんを敷いてある広い大広間20畳以上ありそう。あとで聞いたらじゅうたん3m×4mを4枚を敷いていると聞いた。テレビ、クーラも付いている。しばらく話をしていると日本に働きに行ったときの写真を持ってきた。最初は日本人のライダーがここに来たのかと思っていた。

夜になって日本に行ったときオートバイを借りて日光やあっちこっち行ったときの写真4枚を額にいれてあった、そうだそうだ。ここに泊まれるのかな、お世話になろう。両手を耳に当てて「寝る」しぐさをして泊めてもらおう。厚かましさが出て来た。ティ(茶)を飲みながらちょっと昼寝をさせてもらう。家の人はテレビを消して静かにしてくれた申し訳ない。16時に起きた。

兄ちゃんの名前は「アマド」君と知った。そのアマド君にオイル交換に連れて行ってもらった。ついでにそれにスプリングのオイルなくなったのかカタカタ音がするようになってきたことを話す。オイル60000リア=720円を買って家に戻りご主人ホシンさんとオイル交換をやってもらった。ついでにオイルフィルターも交換しようとオイルの店に再び行き1個30000リア=360円を2個買った。すぐに店の人が直してくれる。


青年の家族の人たち・・結局泊まることになった

次はスプリング直しにオートバイ屋に行く。暗くなりかけてきた。きょうはダメあした18時頃までに直すからと修理屋さんの車でホシンさんの家に戻りいっしょに二階の部屋でお茶を飲んで帰っていった。アマドのお姉さんもいつのまにか帰っていた。男・女の子の双子6才二人を育てているらしい。入れ替わり立ち替わり地元の人が来ては帰っていく。

頭に女性がかぶっているチャドルをお姉さんは部屋では脱いでいる。聴いては見なかったがチャドルを脱ぐと気持ちがさっぱりするかのように感じられる。それに海水浴ではイスラムの女性も水着になっていると聞いたことがある。考えただけで開放感を味わっているのではないかと想像した。お母さんは脱いでいる姿は見なかった。エジプトのスエズ運河の出口?入り口?。地中海海岸で出会った地元の女学生は申し訳ない程度のスカーフだけだったことを思い出す。

昼からウォッカ・ウォッカと話していた。ここイラン(ホメニイ)ではアルコールはダメだときのうから聴いている。見つかると100回の鞭(むち)打ちの刑罰。わたしはアルコールがないと食事が「のど」を通らない。どうしても「ほしい」「タノム」「タノム」と頼んでみた。夕食はスパゲティでいいかと聞かれていたので「OK」と応えていた。少し残っていたウォッをコーラーに混ぜて飲む。アル中はしょうがないなー。

地元の老人がきていたその老人は9時頃になって50000リア=600円でウォっカを買ってくると出て行った。最初は青年アマド兄ちゃんが買いに行ったがダメだった。ベテランの出番か。1時間ぐらいかけて戻ってきた。ポケットから一合とっくりビンぐらいの緑色の瓶を取り出した。女性の姿が印刷されているビンだった。見た目には日本酒だ。サンキュウわたしはそのビンからペットボトルに移し替える。

でもここにもアルコールがあるんだ。どこかで隠れて飲む人がいるんだろうな。ほんとうかどうかわからないが大事なイスラム・コーランを「忘れる」からアルコールを禁止しているのだと聞いた。移したその酒ビンは老人の息子さんが帰りに割って帰るからと内ポケットになおした。ウォッカーみたいな、焼酎みたいな、めずらしい味がした。味などどうでもいいんだ手に入れば。

11時過ぎまで家族と日本のこと、イランのこと、いとこのこと、英語の絵本などを見ながら過ごす。眠くなった・・温水シャワーがジャージャー出る浴室でさっぱりさせてもらった。床に着くがお茶(ティ)の飲み過ぎかなかなか寝付けない。さてあしたスプリングは直っているかどうか・・。スプリングの「ピン」を外すのにウズベキスタンでお世話になったミグ戦闘機を修理していたルスタンさんと同じ工具を使っていたなー。

大丈夫かな。お金のことばかり気になって写真を撮る気持ちの余裕など出てこなかった。部屋の中は長袖でないと肌寒い。


さーて・・とりあえず首都テヘランまで行って・・・どうなるか