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二子玉大水害と1930年のニコタマ噺

2019-10-15 01:22:44 | 噺家風円ジョイ&師匠
世田谷区二子玉川の水害に心痛める円ジョイ師匠が語りはじめた。

円ジョイ師匠は1923年生まれである。

そんな円ジョイ師匠が10歳の時の東京市世田谷村二子玉川の思い出だ!

二子玉の景気が良かったのは1933年から35年ごろだという。

子供にとっては二子玉川児童遊園地は今で言う東京ディズニーランドのような街だったんじゃ そして多摩川がディズニーシーのような川なのに海水浴や豪華客船ゴッコが出来るテーマパークだったんじゃよ

しかし二子玉は子供の夢の世界と大人の誘惑の世界が同居していた。

世田谷側は今で言うラブホテルが乱立して「待合」と呼ばれ 川崎側の二子新地は二子玉三業地の歓楽街で「のむうつかう」の夜の世界だ

人気の豪華待合は格式もあり世田谷区民では知らない人はいない「富士観会館」の前身の水光亭は結婚式とかも挙げる華やかさだが、
都心の花柳界料亭と比べれば6割程度の安さで人気があったが、賑やかさは都心には遠く及ばず、「場末」の感はぬぐえなかったようだ。
そんな時代に日本史に残るセックススキャンダル事件「あべさだ事件」が起こった。(新聞参照)

1936年の阿部定事件の定と吉蔵もタクシーで都心から二子玉川まで乗り付け、三業地の待合「田川」で逢い引きをしたのは有名である。ニコタマでなくチンポをちょんぎった(笑)

こうしたニコタマ三業地も戦局が厳しくなる1940年になると、料理屋の多くは景気が悪化し、多くは多摩川の向こうにできた軍需工場の労働者のための寮になっていった。
戦後は、水光亭は進駐軍の米兵相手のキャバレーに敷地を貸したこともあった。

トニーが生まれる前年の
1959年に 売春制度や三業地制度は廃止され、水光亭は富士観会館と名を変えた。 富士観会館は世田谷区民の結婚式場として世田谷区民会館などの指定業者として役所や議員は知ってるよね

近年まで残っていて、電車からも見えたので記憶している方も多いであろう。
トニーの友人も何人も結婚式を挙げているし世田谷政治家のパーティーもやったこともあった。

そんなニコタマも二子玉RISEで再開発で豪華タワーマンションが遊園地跡に出来、楽天本社も誘致してセレブの街に変わった。 

しかしワシの思い出のレンガ造りの多摩川の古い堤防は残ってる。レトロ好きのトニーは二子玉川の素敵だと言ってた堤防も台風などの災害には弱かった。

今後強靭な堤防が出来るかもしれないが景観も大事に世田谷の安心安全を守って欲しいものじゃな

円ジョイ師匠の世田谷ニコタマ噺より

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