真夜中の2分前

時事評論ブログ
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「民進カチマス」、敗れる。

2016-11-24 17:50:33 | 政治・経済
 民進党の野球好き議員37人でつくった野球チーム「民進カチマス」が、23日、都内で初の試合を行った。

 相手は、女子中学生のチーム。
 結果は、1対8で敗れたそうだ。

 朝日新聞電子版の記事によれば、キャプテンの前原誠司・前代表は代打で出場し、デッドボールで出塁。マネージャーの山尾志桜里・前政調会長も代打で出場して「全員野球」を演出したということである。

 どうでもいいニュースだ。

 しかし、当ブログでは野党の活動を紹介するということもやっている。その一環として、今回はこのどうでもいいニュースについて書くことにする。

 いまの民進党は、政策がどうこういう以前に、とにかくこういうしょうもないことでもいいから話題づくりをして、まずその存在を知ってもらうというところからはじめなければだめだ。
 民進党は、旧民主と旧維新が合流してできたわけだが、党名を変更するにあたって「それによって知名度が下がってしまうのではないか」と危惧する声も出ていた。
 参院選の結果をみると、その危惧はかなりの程度まで現実のものになっているようにもみえる。
 民進党が旧民主党と連続しているということを知らずに、「民進党ってなに? どこから出てきたの?」と思っている有権者も実は結構いるのではないか。

 だとしたら、まず民進党という党の存在を広く知ってもらう必要がある。
 さらぬだに影が薄いのだから、とにかく目を引くようなことをしてメディアに露出しなければならない。
 そういう意味では、野球というのはいい目のつけどころだったと思う。試合には大差で負けてるわけだが、へたに勝ってしまうよりはイメージ的にもそのほうがよかったろう。女子中学生に負けたんかい、と思うところではあるが、相手は都大会の優勝チームだそうで、いい年したおっさんばかりのチームでは負けるのも無理はない。内部対立の絶えない民進党で「全員野球」ができたのなら、それでよしとするべきだろう。

 私は民進党支持者ではないが、ともかくも、安倍政権の暴走を抑えるためには、最大野党である民進党にしっかりしてもらわなければ困る。
 そういうわけで、ほんのわずかでも民進党の知名度アップに協力するために、本稿では民進カチマスの件をとりあげた。

「核の傘」という概念について(コメントへの回答)

2016-11-20 20:50:14 | 安全保障
 先日コメントをいただいたので、今回はそれに対する回答を書く。
 核抑止力に関する記事に対して sica さんという方からよせられたものである。当該コメントは、以下のとおり。


《勘違いしていますが、 核武装は敵からの核攻撃を抑止するためのものであり、もとより通常戦力での戦争を抑止することを目的としたものではありません》


 当該記事で私は、核抑止力によって戦争を抑止することができていないということを書いたのだが、それに対して、そもそも核抑止力は通常戦力での戦争を抑止することが目的ではない――つまり、話の出発点がそもそも間違っている、という指摘である。

 もしかしたらとんでもない考え違いをしていたのかと思って、私もあらためていろいろ調べてみた。
 その結果としては、「核抑止」という言葉は通常兵器の戦争を抑止するという意味でも使われている、というのが私の得た結論である。
 核抑止という言葉は、

 (1)核をもつことで核による攻撃を抑止する
 (2)核をもつことで戦争そのものを抑止する

 という二通りの意味をもっているのではないか。
 もっとも手軽に確認できる例としては、ウィキペディアではこの二通りの意味が掲載されている。ウィキの解説では、「核抑止は2つの意味を持つ。ひとつは国家間の戦争を抑止するというものであり、もうひとつは核兵器の使用を抑止するというものである」としていて、はっきりと2通りの用法があると明記している。
 ウィキ情報ではいい加減だと思われるかもしれないのでもう少しちゃんとした(※1)ものでいうと、たとえば私の手元にある講談社の『日本語大辞典』という辞典には「核抑止論」という見出し語があって「核軍事力の均衡が戦争を防止し、世界の平和維持に役立つという主張」という説明がついている。ここでは、(1)のように限定した意味ではとらえられていない。「戦争を防止し、世界の平和維持に役立つ」というのだから、その有効範囲に通常戦力もふくまれていると解釈して無理はあるまい。
 あるいは、高校の現代社会の副教材である東京書籍の『ダイナミックワイド現代社会』では、重要用語として「核抑止政策」という言葉が載っていて、「核兵器を保有し核兵器による報復力を持つことによって,対立する相手国に攻撃を思いとどまらせ,自国の安全を保持しようという政策(理論)」とある。ほかに、ネット上で閲覧できる例としてコトバンクに載っている『知恵蔵2015』の解説があるが、そこでは「攻撃を受けた場合には核兵器による反撃を行って耐えがたい損害を及ぼす意思と能力があることを、あらかじめ潜在的攻撃者に伝達することによって、攻撃を未然に思いとどまらせようとする考え方」と書かれている。いずれも、特に「核による攻撃」という限定はしておらず、(2)の意味であるように読める。

 たしかに辞典類で(1)の意味だけを紹介しているものもあり、ひょっとするとそちらの狭い意味での捉え方が学術的には主流なのかもしれない。しかし、核抑止力という考え方の源流をたどっていくと、そもそもは(2)のほうだろう。

 私の手元に、講談社の『クロニック世界全史』という本があるのだが、そこに「核の時代」とする文章が載っている。
 中山茂・神奈川大学教授の筆になるその文章には、以下のように書かれている。

 《「核兵器がある権力に独占されると,その権力は圧倒的な軍事力をもつことになり,その権力に抗する紛争はもはや不可能となる。核によって脅迫されれば,物理的にそれに抗する力はなく,服従を余儀なくされる。そして核の脅威・平和のもとに,未来永劫地球上に平和が保たれる」。これが核抑止の理論である。》

 これは、核がある一つの権力にのみ独占されている前提なのだから、あきらかに「核によって核攻撃を抑止する」という意味ではない。(2)の意味にしか解釈しようがない。
 もちろん、核保有国が複数存在している現状にこの理論はあてはまらないだろう。
 しかし、たとえば1950年代のアメリカでアイゼンハワー大統領が打ち出した「ニュールック戦略」は、核戦力を充実させて、むしろ通常戦力は削減しようとしていた。これは、「核によって通常戦力での攻撃も抑止できる」という考え方にもとづくものだろう。

 また、ネット上のさまざまな記事などをみても(2)の意味で使っている例はかなりある。
 そういう状況で私が(2)の意味で「核抑止」という言葉を使ったからといって「勘違いしていますが」ときめつけるのはいかがなものだろうか。
 先に引用した中山教授の定義にしたがえば、「核抑止論では、核抑止力は通常兵器による攻撃にも作用するとされているらしい」と考えるのはごく自然だろうし、「未来永劫地球上に」とまではいかずとも、核を保有した国はその圧倒的な軍事力のゆえにいかなる形であれ攻撃されることはない、ということになるはずだ。ほかにも上述したようなさまざまな議論を踏まえれば、「核武装は敵からの核攻撃を抑止するためのものであり、もとより通常戦力での戦争を抑止することを目的としたものではありません」というのはいささか一面的な捉え方ではないか(※2)。


 また、(1)の意味に限定しても、やはり核抑止力の効果は疑わしい。
 (1)の概念――ここでは仮に「狭義の核抑止理論」と呼ぶことにするが――その「狭義の核抑止理論」も、成立しないと私は考える。
 もとの記事でも書いたが、核兵器は「使えない兵器」なのである。そもそも使えないのだから、抑止する必要もない。実際に、第二次大戦後、核保有国が非核保有国と戦争した例はあるが、そういうときでも核兵器は使われなかった。核兵器は使えないからである。ゆえに、核抑止力というのは意味がないのだ。

 ついでにもうひとつ、今回いろいろ調べるうちに知った「核の傘」理論に対する重大な疑念について書いておきたい。
 それは、「拡大抑止」についての疑問である。
 「拡大抑止」というのは、「核保有国同士でなくとも、核をもつ国と同盟していれば核保有国と同じように抑止力が働いて核攻撃を受けない」という理論である。
 これがまさに、狭義の「核の傘」理論の核心だろう。この理屈でいくと、「日本は核兵器を持っていないが、日本が核攻撃を受けたら同盟国であるアメリカが核で報復するから、日本が核攻撃を受けることはない」ということになる。 
 この拡大抑止という考え方も、非常に疑わしい。
 なぜなら、相互確証破壊の考え方でいけば、アメリカが核保有国に攻撃をくわえた場合、自国が核で報復されるリスクを負うことになるからだ。自分が攻撃されたわけではないのだから、何もしなければ核で報復されることはない。なのに、わざわざ報復されるリスクを負って(というか、相互確証破壊の考え方にしたがえば100%報復を受ける前提になるはず)核攻撃をするのか、という疑問がある。そうなったときに現実にアメリカがどうするかはわからないが、問題は、攻撃する側はアメリカの行動を予想し、その予想に基づいてしか行動しえないということである。アメリカの本当の考えがどうであれ、攻撃する側は前述したような理屈に基づいて「アメリカが核で報復してくることはない」と判断するかもしれない。そうなると、「核の傘」は機能しないことになる。このような観点からみても、「核の傘」という考え方はきわめて胡散臭いのだ。


 せっかくなのでもう少し「核抑止」という言葉の定義の問題について書いておく。
 そもそも「核抑止」とか「核の傘」とかいう言葉を使っている人たちも、その厳密な意味までは考えず、漠然と使っているように私には思える。
 もちろん、専門家の間では、その理論的根拠とされる論考が存在しており、その具体的な中身についてさまざまな理論があるだろう(※3)。しかし、一般的にそういう詳細な議論まで把握して「核の傘」を口にしている人はそういないのではないか。
 辞典類の解説にもそれが表れているように思える。
 私はこの記事を書くにあたって、「核抑止」という言葉を説明する辞典や解説書の類をいくつか参照してみたのだが、その多くに、どうもいまひとつはっきりとしない印象をもった。複数の解説をあたってみても、核攻撃に限定しているのかいないのか、それともどちらの用法もあるのか、すっきりと明言していないのだ。こっちはそこを知りたいのに、細かく読み込んでもそこがはっきりしてこない。そういう意味では、最初に紹介したウィキの説明は例外的なものである。
 邪推かもしれないが、じつはこれらの解説を書いた人たちも、この点についてはっきりといいきるだけの根拠と自信をもっていなかったのではないだろうか。解説を書くにあたって「核抑止というのは核攻撃だけに限定された概念なのか?」という疑問をもち、いくら調べてもそれがはっきりしないので、注意深く言葉を選んでどちらにもとれるようなあいまいな書き方をしているのではないか――そんなふうにさえ感じられた。


 世の中では、そういうふうに、なんとなくそれらしい言葉が意味がはっきりしないままになんとなく使われるということがある。安全保障の分野では、特にその傾向が顕著であるようにも思える。

 たとえば、「民族浄化」という言葉がある。
 1990年代にユーゴ紛争で用いられて有名になった言葉だ。民族浄化――そう聞くと、なにかとてつもなく残虐で非人道的なことが行われているらしいという感じはする。しかし、具体的にどのような行為が民族浄化にあたるのかということを正確に説明できる人がいるだろうか。
 じつは、「民族浄化」という言葉は、そもそも明確な定義があるわけではないという。
 高木勝氏の著書『戦争広告代理店』で、「民族浄化」という言葉はユーゴ紛争におけるPR戦略のなかでセルビア勢力の残虐性を強調するためにPR会社が持ち出してきたという経緯が紹介されている。セルビア側を「悪」の存在に仕立て上げるために、なるべくおそろしいイメージをかもし出す言葉が“キャッチフレーズ”として引っ張り出され、大々的に宣伝された。そうして「民族浄化」という言葉が広く流布するようになり、それが具体的に何を指すのかよくわからないままになんとなく使われているのである。
 ネット上の辞典などで調べると、「民族浄化」という言葉にはいくつもの意味が紹介されている。
 もともと漠然としたとらえどころのない言葉なので、受け手の一人ひとりが「こういうことを指すのだろう」とさまざまに想像し、もともと明確な定義がないからその一つ一つが「そういう意味もあるのだろう」と受容され、結果としてさまざまな意味をもつようになったと考えられる(※4)。

 ここでもとの話に戻ると、「核の傘」というのも、実はそういうものなのではないか。
 核を手放したくない一部の大国が、「私たちの核によって平和が守られてるんですよ。だから私たちが核をもつことは許されるんですよ」とPRするために作り出した虚構の概念にすぎないのではないか。そうだとすれば、それが具体的に指す内容にブレが生じるのも理解できる。虚構の概念であり、そもそも漠然としていて中身がないから、各人が勝手な解釈をする。その結果、人によって解釈の違いが出てくる――そのように理解すれば、意味の混乱が生じていることも説明がつく。すなわち、その指し示す内容があいまいであるということそれ自体が、「核の傘」なるものが虚構の概念でしかないことの証拠といえるのではないか。



※1……私は今ではウィキペディアもそれなりにちゃんとした辞典だと思うが、世の中には「ウィキなんて信用できない」という人も多数いると思われるので


※2……いくつかの説明を読むと、「核保有が戦争を抑止する」というのも、核兵器がダイレクトに通常戦力の抑止となるわけではなくて、「核兵器が核の使用を抑止する→核戦争につながるような全面戦争はできない→全面戦争のような戦争は抑止される」というように解釈する場合もあるらしい。つまり、「核保有によって核攻撃が抑止される」という抑止力が連鎖的にもっと低レベルの戦争にまで波及していって、結果としては通常兵器での戦争も抑止されるというわけである。この考え方でも、間接的にせよ「核武装によって通常兵器での戦争を抑止できる」ということになるはずだ。


※3……今回調べるなかでそうした議論にも出くわしたが、それによれば、安全保障論のなかでも核抑止に懐疑的な見方は少なくないらしい。
 核抑止論を否定する立場の論者は、「ミサイル防衛」の重要性を説く。彼らの議論においては「ミサイル防衛」は核抑止と対立する考え方とみなされていて、ミサイル防衛を推進するということは、「核をもつことによって核攻撃を防ぐ」という狭義の核抑止論を――少なくとも部分的に――否定することになる。
 というのは、核抑止が機能しないからミサイル防衛が必要だと考えるわけだし、また、ミサイル防衛システムが高度に構築されていけば、「相互確証破壊」という狭義の核抑止理論の前提が崩れてしまうからだ(あくまでも核抑止論者から見て)。つまり、「核抑止」と「ミサイル防衛」は相互補完しあうものではなく、ある面では矛盾する思想なのである。
 にもかかわらず、日米安保信奉者は核抑止とミサイル防衛の両方を支持する人が少なくないようにみえる。このあたりからも、核抑止論のいい加減さ、合理性を欠いた“なんとなく”感が見えてくる。


※4……一応ことわっておくが、「民族浄化」と呼ばれている残虐行為を矮小化しようという意図はまったくない。どういう言葉で呼ばれようと、そのような残虐行為が許されないのはいうまでもないことである。

自衛隊に「駆けつけ警護」の新任務付与

2016-11-16 20:55:59 | 安全保障
 いよいよ自衛隊に「駆けつけ警護」という新たな任務を付与することが閣議決定された。
 戦後の自衛隊のあり方が大きく変化するきっかけとなりうる事態である。今回は、この件について書きたい。

 先にことわっておくと、私は「駆けつけ警護」という行動それ自体については必ずしも全否定しない。準戦場ともいうべき著しく治安の悪い場所で、武装勢力が攻撃してくるというときには、武力で対抗しなければならない場合は当然あるだろうからだ。
 だが、いまの状態で自衛隊がそれをやるというのは相当に問題があると思う。交戦権の放棄をうたう憲法9条があるなかでそれをやるのは、取り繕いがたい矛盾が生じるおそれがある。この矛盾に目をつぶって無理やり強行すれば、その矛盾は現地で活動している自衛隊にのしかかってくることになるだろう。

 現行憲法では日本は武力はもたないことになっており、あらゆる制度がその前提のうえに組み立てられている。その憲法のもとで軍事的な行動をとれば、さまざまな問題が生じるのは当然だ。
 たとえば、よく指摘されることとして、日本では軍法会議が設置できないという問題がある。それは、憲法によって特別法廷を作ってはならないとされているからだ。そもそも軍隊が存在しない前提なのだから、軍法会議も存在しない。存在する必要もない――そういう話である。そうすると、自衛隊がもし他国で戦闘行為のようなことになって好ましくない結果を招いた場合に、それをどう裁くのかという問題が出てくる。結局のところ矛盾のしわよせが自衛官個人のところにきて、与えられた任務を遂行したのが望ましくない結果に終わったというだけで、「個人が起こした問題行動」として犯罪者にされてしまう危険がある。

 生きるか死ぬか、殺すか殺されるかという任務にいくのだから、そのあたりのことは完全にクリアにしてから派遣するべきだろう。
 にもかかわらず、既成事実づくりに熱心な安倍政権はもう結論ありきで話を進め、とうとう駆けつけ警護の任務付与をきめてしまった。
 稲田防衛相は、「もし南スーダンの政府軍と交戦するような事態に陥ったらどうするのか」と問われて「そのような事態は想定されない」と答えているが、これはきわめて無責任な態度である。
 繰り返すが、生きるか死ぬか、殺すか殺されるかの世界である。
 最悪の事態を想定してそのときどうするかを考えておくのは、危険を伴う任務に自衛隊を送り出す側の最低限の責任だろう。「都合の悪い事態は想定しない」というのは、かつての日本を破滅的な戦争に導いた指導者たちと同じ姿勢であり、安全神話にあぐらをかいて原発事故を引き起こした原発ムラと同じ論理である。

 そもそもここにいたる法整備自体、集団的自衛権に関連する各種法案とともに“安保関連法”としてひとくくりにされ、細かいところが十分に議論されなかったという問題がある。その根底にあるのは、とにかく、結論ありき、既成事実化でものごとを進める安倍政権の姿勢だ。こんないい加減なやり方で危険な任務を与えられたのでは、自衛隊員もたまったものではない。

まさかのトランプ大統領……悪夢のはじまり、アメリカの終わり

2016-11-09 20:40:37 | 海外
 アメリカ大統領選挙で、トランプ候補勝利というまさかの結果が出た。

 直前までは、クリントン優勢とも伝えられていたが、ふたを開けてみればトランプ候補の勝利という結果になってしまった。

 既成政治への嫌悪感、根深い女性軽視、メール問題でFBIが選挙直前に動いたこと……など、クリントン敗北の理由はいろいろ考えられるだろう。しかし、つまるところは、アメリカの社会が壊れていっているということなのではないか。

 ヒラリー・クリントンは「嫌われ度」が高いとよくいわれるが、いくらヒラリーが嫌いだからといっても、トランプ氏よりは100倍マシである。
 そもそも彼のような人物は、共和党内の候補者レースの初期段階でふるい落とされてしかるべきだ。にもかかわらず、そこの多くの人が票を投じて大統領にしてしまう。これは、アメリカ社会がどうかしてしまっているからとしか思えない。
 アメリカ国民が間抜けなピエロを大統領に選んだツケを4年かかって払い続けるのは勝手にすればいい話だが、しかし残念ながら、ことはそれだけにおさまらない。アメリカの政治が混迷すれば、それはいやおうなしにほかの国にも及ぶのだ。トランプ優勢というだけで株価は大幅下落し円高が進むという事態に日本は見舞われているが、これはまだ序章にすぎない。本当の悪夢は来年の1月からはじまり、4年間も続くのだ(その前にトランプ大統領がスキャンダルで辞任したりする可能性もあるが)。

 いまさらではあるが、バーニー・サンダースが民主党の候補になっていれば……と思わずにいられない。
 もしサンダース対トランプという構図になっていたら、こんな接戦にもならず、サンダース圧勝という結果に終わったはずだ。メール問題でFBIが再捜査を言い出したときにでも、ヒラリー・クリントンが自ら身を引いて次点のサンダースに候補を差し替えていたなら……そんなことを、どうしても考えてしまう。

 もちろん、サンダースが民主党の候補になるというのはきわめて難しい話である。
 そもそも民主党の党員集会の投票結果がどうであれ、サンダースが候補に指名される可能性ははじめからゼロだったという識者もいる。ワシントンの政治の世界では、民主社会主義者を自任するサンダースが大統領候補になることは考えられないというのだ。
 そういう意味では、今回の大統領選はアメリカ政治そのものの敗北といえるのではないか。
 サンダースなら勝てるのに、そのサンダースはワシントンの政治力学ではじき出され、大統領選の土俵に立てない。だから、ワシントンの政治力学そのものを破壊したトランプが勝ってしまう――これは、一部の富裕層やロビイストに牛耳られたアメリカ既成政治そのものの破綻ということにほかならない。

 トランプ大統領の任期中に、アメリカは凋落していく可能性が高い。
 4年後には、もう「超大国」とは呼べない状態にまでなっているのではないかと私は推測する。今回の大統領選は、悪夢のはじまりであると同時に、“超大国アメリカ”の終わりでもあるのかもしれない。

黒田日銀の“敗北宣言”――日銀の敗北は安倍政権の敗北だ

2016-11-04 23:45:13 | 政治・経済
 日銀が、11月1日の金融政策決定会合において、物価上昇率2%の目標達成の時期をまたしても先送りした。
 じつに五度目の先延ばしだ。
 目標達成の時期は2018年ごろとされ、これによって黒田総裁のいまの任期中の目標達成を事実上断念したことになる。

 この件に関する朝日新聞の論説記事では、これを黒田日銀の事実上の「敗北宣言」としている。
 当初2年で達成するとしていた目標を延々先送りし続け、自分の任期中には達成できそうにもないという事態に陥ったのだから、敗北宣言に等しいというわけだ。
 その見方に、私も同意する。
 2年でやりますといってはじめたことを5年かかってもできず、しかも自分の任期中には不可能だというのだから、これを失敗といわずに何を失敗というのかという話だ。

 当ブログでは、「人為的にインフレを起こすことは不可能である」という小幡績氏の論を紹介し、リフレ政策の根本的な誤謬を問題視してきた。
 黒田総裁は「日銀はデフレバスター」などといっていたが、これはまったくばかげた話である。中央銀行の仕事はインフレを抑制することであって、インフレを起こすことではない。インフレは経済成長の結果「望ましくない副作用」として起きる現象であって、人為的にインフレを起こしてそれで景気をよくすることなどできない――それが、今回の先送りではっきりしたということだ。

 そして、黒田総裁の敗北は、安倍総理の敗北でもある。
 なぜなら、「中央銀行の独立性を損なう」との懸念の声を押し切って、安倍総理が日銀に圧力をかけて“異次元”の金融緩和を行わせたのは周知の事実だからだ。
 思い出してほしいのだが、安倍政権発足直後に政府と日銀は2%の物価上昇を目指すという共同声明を発表していた。つまり、異次元緩和政策は政府と日銀が二人三脚で進めてきたものであり、安倍政権と黒田日銀とは一蓮托生なのである。ならば当然、日銀の失敗は安倍政権の失敗でもあるといわなければならない。「日銀が勝手にやってることだから政府とは関係ない」などという言い逃れは通用しないのだ。

 さらに、これは単に「異次元緩和をやってみたけど物価は上がりませんでした」というだけですむ話ではない。
 これまで大規模な緩和を続けてきたことが、日本の金融・財政にさまざまなゆがみを生じさせてしまっているのだ。
 まずひとつは、財政規律の問題がある。
 日銀が数百兆円ぶんもの国債を保有している現状を「事実上の日銀による財政ファイナンス」と指摘する声もあり、そうなってくると、「通貨の信認が損なわれる」という当ブログで再三とりあげてきたリスクが顕在化するおそれもある。
 また、今年になって導入されたマイナス金利も、経済のゆがみをさらに大きくしている。
 銀行の経営が苦しくなるというのは当初から指摘されていたことだが、それは副作用ですまないレベルに達しているようだ。メガバンクはともかく、地銀はマイナス金利によってかなり苦しくなっているといわれる。のみならず、長短の金利差が消失するという想定外の事態が生じたことから日銀はマイナス金利導入からわずか半年ほどで軌道修正を余儀なくされた。結局、マイナス金利も「失敗」という評価が定着しつつあるのが実態ではないか。

 私には、ここ数年の金融緩和が、かつての太平洋戦争にかさなってみえる。
 まず政府が、そもそも成算のない政策に踏み切る。最初のほうはしばらくうまくいっていたために、国民はなんだかうまくいっているような気にさせられている。そして緩和を遂行する側は、本当はもう破綻状態になっているのに、大本営発表よろしく、自分の間違いを絶対に認めようとせず万事うまくいってるかのように装う――その先に待っているのは、破滅的な事態ではないのか。

 ひょっとすると、上の段落を読んで「これは朝日の記事のパクリじゃないか」と思った人がいるかもしれない。
 しかし、これはパクリではない。私が上の部分を書いたのは11月1日の深夜ごろのことだが、たまたま同時に、朝日新聞でもほぼ同じ趣旨のことを書いた記事があったのだ。
 ネタがかぶってしまったのだからこの部分はいっそ削ってもよかったのだが、あえて載せることにした。というのも、このネタかぶりはすなわち、「日銀のいまのやり方は戦前の日本と一緒だ」という見方が決して特異なものではない証拠といえるからだ。私だけがそう思ったわけではなく、朝日の記者だけがそう思ったわけでもない。要は、ほんのちょっとでも経済と歴史を勉強した人間からみれば、両者はそっくりに見えるということなのだ。だから、同じ見立てが出てくることになる。

 当ブログでは、安倍政権の外交・安全保障政策を批判してきたが、ひょっとすると今ほんとうに危険なのは経済のほうかもしれない。
 今年に入ってから、さまざまな経済指標が悪化しつつある。今年通年の数字は来年にならなければ出てこないからまだ多くの人に気づかれずにいるのだが、企業の大幅な減益といった形ですでに数字として表れていることもある。当ブログで何度か言及してきた消費者物価指数の下落も、最新の数字で7ヶ月連続となっている。通年での物価上昇率も、今年のぶんはマイナスになる可能性が現実味を帯びてきた。アベノミクスという砂上の楼閣が、いよいよ崩壊し始めているのではないか。