江藤きみえ『島々の宣教師 ボネ神父』、46
◆ 略歴
1878年2月28日、ブザンソンに生まれ、マキシム・ボネと名づけられました。
幼ないころ、心に召しだしを感じたかれは、小神学校をへて、たくさんの殉教者を生んだ、有名なパリ・ミッション会の大神学校に入学しました。ここで神学、哲学、その他一般教養科目を修得すると、1903年、卒業と同時に、司祭職の叙品をうけて、その生涯をかけた愛の使徒職へと出発したのです。
この誕生したばかりの25歳の青年司祭が、なつかしい父母兄弟や、あたたかい故郷の人々とのつらい決別を男らしい希望に変えて、長崎へ上陸したのも、やはり同じ1903年でした。上陸後、いちおう鹿児島の教会におちつくと、そこで1年間、日本語の勉強をし、つぎに、宮崎の教会へ移り、ここでまた1年同様に日本語の勉強をっづけました。それは、1903年から1905年までで、そののち、奄美大島の嘉渡教会の主任司祭に任命されました。
一度、独仏大戦の際に、故郷へ帰りましたが、それは大正3年から9年までの6年間で、終戦と同時にふたたび嘉渡の教会へもどり、大正12年までここにとどまりました。
しかし、ちょうどそのころ、大島は、フランシスコ修道会の手にあずけられたため、ボネ神父さまは、大島から引きあげ、同12年9月、平戸の宝亀教会に主任司祭として赴任されました。しかし、ここも長崎教区の誕生によって転任をよぎなくされ、近くに飛行場のあった今村の教会に移りました。ここで神父さまは、在任12年間に35人もの青年を神学校に送り、邦人司祭の生みの親として、教皇さまからごほうびの祭服をいただかれたことがありました。
そののち、大東亜戦争がはじまり、太刀洗の飛行場が爆破されたため、スパイの嫌疑をうけて、監獄に投ぜられました。まもなく終戦とともに釈放されましたが、神父さまには大きな試練だったに違いありません。
そのころは、ヨーロッパ人とみれば、だれかれの差別なく、スパイ扱いをされたため、うるさい特高や、憲兵の干渉がたびたび神父さまを悩ましたものです。ある時など、ピストルをかまえた憲兵があらわれ、神父さまに「天皇陛下と、おまえの信ずる神と、いずれが上か返答せよ」と迫りました。神父さまは、一度、痛悔の祈りをとなえ、殉教の覚悟を固めると、きぜんとして、「神が上だ」と答えましたが、このとき憲兵がどのような態度をとったかは、想像にまかせるとして、神父さまは、ついに豚箱ゆきとなりました。しかし、この憲兵は、戦争が終わると、たくさんのみやげをもって神父さまをたずね、平あやまりにあやまったということです。
こののち、神父さまは、一度飯塚の教会へ転任されましたが、1945年、かれの最後の地となった新田原の教会に主任司祭として任命されたのです。ここで神父さまは朝夕、療養所をたずね、患者をわが子のようにいつくしみました。
1953年8月、一度中風のため、北九州にあるミッション会本部に隠居されましたが、ご病気がしだいに重くなられたので、ふたたび新田原にもどって、サナトリウムに入院され、そこで2年間訪問童貞会の修道女たちから手あつい看護をうけたのち、1958年、81歳のこ生涯を閉じられたのです。
おわり
◆ 略歴
1878年2月28日、ブザンソンに生まれ、マキシム・ボネと名づけられました。
幼ないころ、心に召しだしを感じたかれは、小神学校をへて、たくさんの殉教者を生んだ、有名なパリ・ミッション会の大神学校に入学しました。ここで神学、哲学、その他一般教養科目を修得すると、1903年、卒業と同時に、司祭職の叙品をうけて、その生涯をかけた愛の使徒職へと出発したのです。
この誕生したばかりの25歳の青年司祭が、なつかしい父母兄弟や、あたたかい故郷の人々とのつらい決別を男らしい希望に変えて、長崎へ上陸したのも、やはり同じ1903年でした。上陸後、いちおう鹿児島の教会におちつくと、そこで1年間、日本語の勉強をし、つぎに、宮崎の教会へ移り、ここでまた1年同様に日本語の勉強をっづけました。それは、1903年から1905年までで、そののち、奄美大島の嘉渡教会の主任司祭に任命されました。
一度、独仏大戦の際に、故郷へ帰りましたが、それは大正3年から9年までの6年間で、終戦と同時にふたたび嘉渡の教会へもどり、大正12年までここにとどまりました。
しかし、ちょうどそのころ、大島は、フランシスコ修道会の手にあずけられたため、ボネ神父さまは、大島から引きあげ、同12年9月、平戸の宝亀教会に主任司祭として赴任されました。しかし、ここも長崎教区の誕生によって転任をよぎなくされ、近くに飛行場のあった今村の教会に移りました。ここで神父さまは、在任12年間に35人もの青年を神学校に送り、邦人司祭の生みの親として、教皇さまからごほうびの祭服をいただかれたことがありました。
そののち、大東亜戦争がはじまり、太刀洗の飛行場が爆破されたため、スパイの嫌疑をうけて、監獄に投ぜられました。まもなく終戦とともに釈放されましたが、神父さまには大きな試練だったに違いありません。
そのころは、ヨーロッパ人とみれば、だれかれの差別なく、スパイ扱いをされたため、うるさい特高や、憲兵の干渉がたびたび神父さまを悩ましたものです。ある時など、ピストルをかまえた憲兵があらわれ、神父さまに「天皇陛下と、おまえの信ずる神と、いずれが上か返答せよ」と迫りました。神父さまは、一度、痛悔の祈りをとなえ、殉教の覚悟を固めると、きぜんとして、「神が上だ」と答えましたが、このとき憲兵がどのような態度をとったかは、想像にまかせるとして、神父さまは、ついに豚箱ゆきとなりました。しかし、この憲兵は、戦争が終わると、たくさんのみやげをもって神父さまをたずね、平あやまりにあやまったということです。
こののち、神父さまは、一度飯塚の教会へ転任されましたが、1945年、かれの最後の地となった新田原の教会に主任司祭として任命されたのです。ここで神父さまは朝夕、療養所をたずね、患者をわが子のようにいつくしみました。
1953年8月、一度中風のため、北九州にあるミッション会本部に隠居されましたが、ご病気がしだいに重くなられたので、ふたたび新田原にもどって、サナトリウムに入院され、そこで2年間訪問童貞会の修道女たちから手あつい看護をうけたのち、1958年、81歳のこ生涯を閉じられたのです。
おわり
ボネ神父さまを調べておりましたら、こちらのブログに辿り着きました。
ボネ神父さまは、私の父親が新田原の教会学校に通っていた頃の神父さまだと思われます。
父は25年前に他界しましたが、生きていれば80歳ですので、恐らくそうであると思います。
私がまだ教会学校に通っていた頃、父親が教会学校に通っていた頃の話を時々聞いておりました。
外国人の神父さまであった事、やんちゃだった父は、神父さまから棒で打たれたの事もあるそうです。
もちろん、父が悪いことをしたからであったはずなので、笑い話として聞いておりました。
ゆっくり、遡って読ませていただきます。
ブログに書いてくださってる事に感謝とご縁を感じます。
ありがとうございます。