江藤きみえ『島々の宣教師 ボネ神父』、41
第3部 永遠への出発
◆、1 おわりにあたって
むかし、絶世の美人が、かの女の美貌をむしばんでゆく歳月をうらんで、あの有名な歌をよみました。
「花の色は 移りにけりな いたずらに
我が身世にふる ながめせし間に」。
わずかの出費を惜しんで文化生活を尻ごみし、時間を浪費する人々のむとんちゃくさもさることながら、時間のあるうちにといって、ばらの冠をつけて楽しむ人々もやがて、そのばらの色があせて、人生のおわりに直面したとき、ああ、これでじゅうぶん時間を活用したのだから、といって満足して死ねるでしょうか?
それは、不可能なことです。なぜなら、かれらにとって、時間は克服されていないからです。いな、かえって、かれらは、あのおそるべきギロチンによって、その若さを、愛を、よろこびを、そして最後に生命までも、断ち切られてしまうのです。
もし、時間のもっているこの死病をよく考えながら、一刻、一刻と迫ってくる時聞を前にするとすれば、時間は、絶望的な虚無以外になにを人生にもたらすと考えうるでしょうか?しかしこの巨大な怪物も、おちついてよくながめてみますと、なんのこと、それは変化のかげにすぎませんでした。
そしてわたしたちの慈父ボネ神父さまは、この変化の世界の底に、不変なものを、有限なもののなかに無限なものを求め、断片的なこの時間をもって、永遠をあがなうことを知っていたのです。それでかれは、死と不安の結晶のような時間を、愛の実行によって価値づけ、創造と希望にかえ、永遠への参加によって克服してしまいました。
それゆえ、かれの死は、人々に暗い喪の感じを与えずまるで祝日のような明るさがただよっていました。それでもやはり、神父さまを思いだす人々は、なつかしさゆえに、慈母を失った幼児にも似たあの悲しみを、どうして忘れることができましょう?
では、おわりにあたって、この愛にあふれる人々の心の琴線に、わたしのつたない指をふれながら、その悲しみと、思慕の美しい激を、今しばらく天の父にささげてみたいと思います。
第3部 永遠への出発
◆、1 おわりにあたって
むかし、絶世の美人が、かの女の美貌をむしばんでゆく歳月をうらんで、あの有名な歌をよみました。
「花の色は 移りにけりな いたずらに
我が身世にふる ながめせし間に」。
わずかの出費を惜しんで文化生活を尻ごみし、時間を浪費する人々のむとんちゃくさもさることながら、時間のあるうちにといって、ばらの冠をつけて楽しむ人々もやがて、そのばらの色があせて、人生のおわりに直面したとき、ああ、これでじゅうぶん時間を活用したのだから、といって満足して死ねるでしょうか?
それは、不可能なことです。なぜなら、かれらにとって、時間は克服されていないからです。いな、かえって、かれらは、あのおそるべきギロチンによって、その若さを、愛を、よろこびを、そして最後に生命までも、断ち切られてしまうのです。
もし、時間のもっているこの死病をよく考えながら、一刻、一刻と迫ってくる時聞を前にするとすれば、時間は、絶望的な虚無以外になにを人生にもたらすと考えうるでしょうか?しかしこの巨大な怪物も、おちついてよくながめてみますと、なんのこと、それは変化のかげにすぎませんでした。
そしてわたしたちの慈父ボネ神父さまは、この変化の世界の底に、不変なものを、有限なもののなかに無限なものを求め、断片的なこの時間をもって、永遠をあがなうことを知っていたのです。それでかれは、死と不安の結晶のような時間を、愛の実行によって価値づけ、創造と希望にかえ、永遠への参加によって克服してしまいました。
それゆえ、かれの死は、人々に暗い喪の感じを与えずまるで祝日のような明るさがただよっていました。それでもやはり、神父さまを思いだす人々は、なつかしさゆえに、慈母を失った幼児にも似たあの悲しみを、どうして忘れることができましょう?
では、おわりにあたって、この愛にあふれる人々の心の琴線に、わたしのつたない指をふれながら、その悲しみと、思慕の美しい激を、今しばらく天の父にささげてみたいと思います。