江藤きみえ『島々の宣教師 ボネ神父』、43
第3部 永遠への出発
◆3、時間のおわり
3月19日、聖ヨゼフの祝日、ミサの祈りをして、ベッドの上でご聖体を拝領したあとで、わたしは聖ヨゼフさまにたくさんのお取りつぎを願いました。その日は、朝から晴れわたり、ときおり、清潔にみがかれた窓ガラスの向こうを通りすぎる白い綿のような雲が、ほんのちょっと息をっくように、かげをさしてゆきました。このとき、シスターがお清拭にきてくださって、「ボネ神父さまが少しきっいから、お祈りしてください」とおっしゃいました。
みなはっとして息をのみました。声をだしては、神聖なものが冒され、まるで神父さまの死を早めるかのように思えたからです。そこに居あわせたものは、だれひとりとして動こうとはせず、静寂は、戸外の並木のうえにまで、ただよっていました。
すると、とつぜん、不安な緊迫のさなかに、鐘が鳴りだしたのです。10時ごろだったでしょうか?ボネ神父さまがなくなられたのです。
わたしたちは、すぐ十字架のしるしをして、「主よ、永遠の安息をかれにお与えください」とお祈りしましたが、あとは涙がこみあげて声がでませんでした。
わたしたちは、夕方、シスターにお願いして、ボネ神父さまのおへやへつれていっていただきました。
まくらもとにともされた2本のローソクの火が、神父さまの蝋のような青白いお顔のうえにゆれていました。銀の十字架のうえからあわれみ深くみつめる、主のまなざしに包まれるようにして横たわっている神父さまのお顔には、はればれとしたほほえみの跡さえ残っていて、今にも、あのやさしいお目をあけて、なにか話しかけてくださりそうな気がしました。
神父さまは、司祭の服を召され、黒い祭服をつけ、手にロザリオをかけて、静かに眠っていらっしゃるようにみえました。それで、気味の悪い死体のそばにいるという感じが、少しもなく、なつかしさが胸いっぱいにあふれてきました。
わたしは、このように、直接ボネ神父さまのなくなられたお姿をみましたのに、なぜか悲しいというよりも、平和にみたされたような気持になり、人間の死とは、こんなものだろうかと、改めて考えなおさずにはおられませんでした。
おりから、6時のお告げの鐘が鳴りはじめ、金色の空気を静かにふるわせながら、若葉のうえを越えて、野へ山へと伝わってゆきました。
鐘がなる!やさしい余韻をひきながら、やわらかな夕やみにとけて流れてゆく。しかしそれは、いつものように時をつげる鐘ではありませんでした・・・・それは、時が終焉をつげ、永遠がそこから始まる、希望の鐘だったのです。すなわち、この世でまことの自由をえたものにのみ与えられるよろこびと、栄光の鐘で、それは、絶対的な安らぎを与えられ、愛にとけこむもののしあわせを歌う鐘でした。
是非、フェイスブックのカトリックグループにもお越しください。当該グループには、このブログの少なくとも倍の良質な定期投稿があります。ここと異なり、連載が途切れることもありません。
第3部 永遠への出発
◆3、時間のおわり
3月19日、聖ヨゼフの祝日、ミサの祈りをして、ベッドの上でご聖体を拝領したあとで、わたしは聖ヨゼフさまにたくさんのお取りつぎを願いました。その日は、朝から晴れわたり、ときおり、清潔にみがかれた窓ガラスの向こうを通りすぎる白い綿のような雲が、ほんのちょっと息をっくように、かげをさしてゆきました。このとき、シスターがお清拭にきてくださって、「ボネ神父さまが少しきっいから、お祈りしてください」とおっしゃいました。
みなはっとして息をのみました。声をだしては、神聖なものが冒され、まるで神父さまの死を早めるかのように思えたからです。そこに居あわせたものは、だれひとりとして動こうとはせず、静寂は、戸外の並木のうえにまで、ただよっていました。
すると、とつぜん、不安な緊迫のさなかに、鐘が鳴りだしたのです。10時ごろだったでしょうか?ボネ神父さまがなくなられたのです。
わたしたちは、すぐ十字架のしるしをして、「主よ、永遠の安息をかれにお与えください」とお祈りしましたが、あとは涙がこみあげて声がでませんでした。
わたしたちは、夕方、シスターにお願いして、ボネ神父さまのおへやへつれていっていただきました。
まくらもとにともされた2本のローソクの火が、神父さまの蝋のような青白いお顔のうえにゆれていました。銀の十字架のうえからあわれみ深くみつめる、主のまなざしに包まれるようにして横たわっている神父さまのお顔には、はればれとしたほほえみの跡さえ残っていて、今にも、あのやさしいお目をあけて、なにか話しかけてくださりそうな気がしました。
神父さまは、司祭の服を召され、黒い祭服をつけ、手にロザリオをかけて、静かに眠っていらっしゃるようにみえました。それで、気味の悪い死体のそばにいるという感じが、少しもなく、なつかしさが胸いっぱいにあふれてきました。
わたしは、このように、直接ボネ神父さまのなくなられたお姿をみましたのに、なぜか悲しいというよりも、平和にみたされたような気持になり、人間の死とは、こんなものだろうかと、改めて考えなおさずにはおられませんでした。
おりから、6時のお告げの鐘が鳴りはじめ、金色の空気を静かにふるわせながら、若葉のうえを越えて、野へ山へと伝わってゆきました。
鐘がなる!やさしい余韻をひきながら、やわらかな夕やみにとけて流れてゆく。しかしそれは、いつものように時をつげる鐘ではありませんでした・・・・それは、時が終焉をつげ、永遠がそこから始まる、希望の鐘だったのです。すなわち、この世でまことの自由をえたものにのみ与えられるよろこびと、栄光の鐘で、それは、絶対的な安らぎを与えられ、愛にとけこむもののしあわせを歌う鐘でした。
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