ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

宣教

2014年02月12日 | 日記


 「宣教旅行」ってなんでしょう。
 「宣教地訪問旅行」? 
  でも、やっぱり「なんでしょう」でしょう。

 決して、旅行業者の広告には見つけられないカテゴリーです。
 クリスチャンを対象とした特別な旅行社による「聖地訪問旅行」というのはありますが、
 これは、もっぱらイスラエル旅行です。
 イスラエルは、旧約聖書と新約聖書の舞台です。そこで、ここを訪問しようというクリスチャンは多いのです。クリスチャンは世界で20億人とも30億人とも言われていますから、イスラエルは大変な観光地となります。さらに、イスラエルの首都エルサレムは、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の聖地です。
 

 
 さて、宣教です。
 宣教は、キリスト教の基本ともいえるほど、大切な使命です。


 「神の救いの訪れと完成」を「福音」と言いますが、これは英語では「good news」(よい知らせ――原語はギリシャ語)と訳されています。「よい知らせ」は、人に知らされなければなりません。つまり、宣べ伝えるのです。
 知らせることで、多くの苦しむ人々と希望を分かち合うことができるのです。


 宣教と言った言葉に抵抗を感じる方もいるかもしれません。
 キリスト教も、多くの間違いを犯してきたからです。権力とともにあった時代、宣教が軍隊に守られて行われた場所もありました。植民地支配の道具のように利用されたこともありました。十字軍や魔女裁判は、今でも繰り返しキリスト教非難の口実として挙げられます。

 しかし、このブログは、論争するためのものではありません。そのような疑問に答えてくれる牧師や専門家はたくさんおられます。ぜひ教会へお出で下さい。




  
                   


 さて、宣教です。

 宣教は、貴い働きですが、おおむね厳しい活動です。まだ、福音が届いていない地に行って、福音を宣べ伝えるのです。
 見知らぬ場所へ入っていくだけでも勇気がいります。見知らぬ人を迎える側は警戒します。
 どのような場所で暮らしている人にも、文化があります。何らの信仰もあります。プライドも確立された生活様式もあります。福音を宣べ伝えるのは、そのような場所に新しい秩序や価値観を持ち込む、また、それまでの何かを破壊すると思われる恐れもあります。

 


            



 宣教師は、最初、強い拒絶に会い、さらに危険にさえ遭遇します。実際、20世紀だけでも、殺されたり殉教した宣教師の数は数え上げられないほどです。

 宣教に成功したとしても、個人的な見返りが期待できるわけではありません。宣教師は未開地に新しい商品を売りこむセールスマンとはわけが違います。
 宣教の費用は、母国の信徒の献金などですが、十分に潤沢な資金を使える宣教師などめったにいません。

 それでは、何を目的に宣教するのでしょう。
 まさに、「よい知らせ」を告げるためです。それが、イエス・キリストのご命令だからです。
 神のお喜びになることをするのが、クリスチャンの歓びだからです。

 とはいえ、普通の人である私は、なかなか宣教などできません。
 神様のお喜びになることをしなければいけないと思いながら、実際には、神様を悲しませてばかりいるような人間だからです。

               
 

 
 そんなわけで、宣教地訪問旅行に参加したのです。


 さて、宣教地訪問です。