聖書は、死を淡々と扱っているといえるでしょう。
厳粛でものものしい葬儀が描写されているのは、アブラハムの孫ヤコブ(イスラエル)くらいです。
創世記の最後の50章は、ほとんどヤコブの葬儀に割かれています。
神から「イスラエル」という名前をいただいたヤコブは、イスラエルの12部族の始祖である12人の父親でした。
その12人の息子の子孫たちがエジプトで増え広がり、民族と呼ばれるほどの人数になり、
400年後、神に導かれて、出エジプトを果たしたのです。
カナンに入植後は、イスラエル民族は、12部族が十二の土地に別れ住みました。
12部族の中には、やがて消滅してしまうものもあるのですが、
イスラエルという国名のもとになったヤコブが、聖書の中で大きな意味を持っているのは当然です。
創世記の中でも25章以降は、ほとんどヤコブの伝記と言っていいくらいです。
神様は、ヤコブの、あくの強い、したたかともいえる個性に、さんざん試練を与えて
「神の民」に造りかえられたのです。
その波乱に富んだ物語の最後に、
エジプト王を始め、多くの人がヤコブの死を悼み、荘厳な葬式が執り行われたのです。(創世記50章1章~13章)
ヤコブの誕生と死が、とりわけ克明に記録されているのは、
彼が、「神の救いのご計画」に用いられた、イスラエルの直接の先祖だったからでしょう。
★ ★ ★★★
聖書によると、人間はもともと、神によって「永遠に生きるように」造られたのです。
人間は神の霊を吹き込んでいただいて生きる者となります。神に似た者として造られたのです。
神は永遠の過去から永遠の未来までを、自存しておられる方ですから、
神の霊をいただいた私たちも、神さまと、エデンの園で暮らす限り、永遠に生きることができたのです。
ところが、アダムとエバが神の戒めを破って「知恵の実」を食べたばかりに
神の前から追放され、罪と死が入ってしまいました。
しかし、聖書全体のテーマ、神のメッセージは、神さまが、私たちをいつか必ず、
御許に連れ帰って下さる、そのときには、死はなくなり、
苦しみのもととなっている罪が存在しない世界(天国、神の国、御国などと呼ばれる)
に戻ることができる、というものです。
聖書が、おおむね、死を淡々と扱っているのは、「この希望が前提になっている」からではないかと、
さとうは考えます。
★★★ ★ ★
ある方がモーセの終わりを評して、「神はひどい。大変な功績があったモーセをモアブの谷に入らせて死なせ、
その墓もわからないとは、なんとむなしいことか」と書いているのを、読んだことがあります。
モーセは、約束の地カナンにイスラエル人を入れるために40年も苦労をしてきました。
ところが、カナンを目の前にして神は、モーセに、「わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたはそこに、
渡って行くことはできない」と仰せになるのです。(申命記34章1節~6節)
、
この意見の持ち主は、人生の終わり、死の後は功績に応じて立派な葬儀、立派な墓、立派な記念碑で
顕彰されるべきものと思われていて、
そうでないなら、「失敗の」「空しい」人生だと言われているのかもしれません。
しかし、モーセのあとを継いだヨシュアも、偉大な預言者サムエルも、ダビデも、ソロモンも、ほとんど、
一行の記述で、その死が記されているのです。
聖書では、死は、終わりではないというのが、もともとの始まりです。そして、最後に、すべてが造りかえられ、
人間は、ふたたび、神の御許で永遠に生きると約束されています。
死が淡々と扱われているのは、当然かもしれません。