ノアの小窓から

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聖書に照らして5――死

2015年07月09日 | 聖書



      聖書は、死を淡々と扱っているといえるでしょう。

      厳粛でものものしい葬儀が描写されているのは、アブラハムの孫ヤコブ(イスラエル)くらいです。
      創世記の最後の50章は、ほとんどヤコブの葬儀に割かれています。
      神から「イスラエル」という名前をいただいたヤコブは、イスラエルの12部族の始祖である12人の父親でした。
      その12人の息子の子孫たちがエジプトで増え広がり、民族と呼ばれるほどの人数になり、
      400年後、神に導かれて、出エジプトを果たしたのです。
      カナンに入植後は、イスラエル民族は、12部族が十二の土地に別れ住みました。

      12部族の中には、やがて消滅してしまうものもあるのですが、
      イスラエルという国名のもとになったヤコブが、聖書の中で大きな意味を持っているのは当然です。

      創世記の中でも25章以降は、ほとんどヤコブの伝記と言っていいくらいです。
      神様は、ヤコブの、あくの強い、したたかともいえる個性に、さんざん試練を与えて
      「神の民」に造りかえられたのです。
      その波乱に富んだ物語の最後に、
      エジプト王を始め、多くの人がヤコブの死を悼み、荘厳な葬式が執り行われたのです。(創世記50章1章~13章)
      ヤコブの誕生と死が、とりわけ克明に記録されているのは、
      彼が、「神の救いのご計画」に用いられた、イスラエルの直接の先祖だったからでしょう。

       
      
                ★ ★ ★★★


      聖書によると、人間はもともと、神によって「永遠に生きるように」造られたのです。
      人間は神の霊を吹き込んでいただいて生きる者となります。神に似た者として造られたのです。

      神は永遠の過去から永遠の未来までを、自存しておられる方ですから、
      神の霊をいただいた私たちも、神さまと、エデンの園で暮らす限り、永遠に生きることができたのです。

      ところが、アダムとエバが神の戒めを破って「知恵の実」を食べたばかりに
      神の前から追放され、罪と死が入ってしまいました。

      しかし、聖書全体のテーマ、神のメッセージは、神さまが、私たちをいつか必ず、
      御許に連れ帰って下さる、そのときには、死はなくなり、
      苦しみのもととなっている罪が存在しない世界(天国、神の国、御国などと呼ばれる)
      に戻ることができる、というものです。

      聖書が、おおむね、死を淡々と扱っているのは、「この希望が前提になっている」からではないかと、
      さとうは考えます。


                 ★★ ★ 


      ある方がモーセの終わりを評して、「神はひどい。大変な功績があったモーセをモアブの谷に入らせて死なせ、
      その墓もわからないとは、なんとむなしいことか」と書いているのを、読んだことがあります。
      モーセは、約束の地カナンにイスラエル人を入れるために40年も苦労をしてきました。
      ところが、カナンを目の前にして神は、モーセに、「わたしはこれをあなたの目に見せたが、あなたはそこに、
      渡って行くことはできない」と仰せになるのです。(申命記34章1節~6節)

      この意見の持ち主は、人生の終わり、死の後は功績に応じて立派な葬儀、立派な墓、立派な記念碑で
      顕彰されるべきものと思われていて、
      そうでないなら、「失敗の」「空しい」人生だと言われているのかもしれません。
      しかし、モーセのあとを継いだヨシュアも、偉大な預言者サムエルも、ダビデも、ソロモンも、ほとんど、
      一行の記述で、その死が記されているのです。


      聖書では、死は、終わりではないというのが、もともとの始まりです。そして、最後に、すべてが造りかえられ、
      人間は、ふたたび、神の御許で永遠に生きると約束されています。

      死が淡々と扱われているのは、当然かもしれません。