オワサン教会の献堂式の日、二月一日は、スリル満点の一日でした。
朝は霧雨だったのに、帰るころにはだんだん本降りになってきました。
台風が近づいているとのことです。
ああ、台風は、日本だけのものではないんだ…、この南海こそがその故郷なんだと今更、気がつきます。
道にコンビニとか自販機とか茶店とか、なにか目印があるといいのですが、もとより、簡単な標識ひとつありません。両側は山、ときどき、畑、たまに家が見えます。どこも同じようなトタンぶきの家です。
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帰り道は安心のはずでした。オワサン教会の母教会アバダン教会の牧師ジョン先生も、同じ道を引き返して行くはずだからです。
その夜は、ジョン先生のアバダン教会のそばに宿泊する予定でした。
ところが、出発してまもなくジョン先生たちの車とはぐれてしまいました。
なんと、吉原先生の車には、方向感覚ゼロのさとうと、車の運転はするけど高性能のナビまかせのU夫人だけ。S牧師もジョン先生の車に乗ってしまった様子。
分かれ道に来ると、「こっちだったっけ。そうだな。右のはずはない」と、吉原先生は「おねいさま」(と呼んでくださっていました)二人に道を聞くのはあきらめて、自問自答で道を探します。
たまに私たちも「あの緑の壁の家、来る時もありましたよ」とか、アドバイスするのですが・・・。「あったよねえ」と、顔を見合わせたりしてきわめて心もとない。
やがて、道はどんどん下って、川のせせらぎが聞こえ、沢に降りてきてしまいました。立派な庭石か記念碑にでも使えそうな大きな石が、川の中にごろごろしています。若いころ木曽路で同じような光景を見たっけと思い出していました。
そういえば、来る時も一度だけ水のなかに入って流れを横切ったのです。でも、車が渡った川は浅かったし、大きな石などなかった・・・と、さとうが、言ったのかなあ・・・!!
「道を間違った」と三人の意見が一致して、狭い道をなんとかUターンして戻ります。
吉原先生はケータイを取り出したのですが、なぜかつながりません。
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さすがに心配になってきました。風がときおり強くなり、雨も横殴りになっていました。ルソンの山の中は、まだ雨季に入っていませんが、ひとたび大雨が降ると地滑りで道がなくなってしまうことなど珍しくないそうです。
「標識がないんだものね」。いまさら言っても仕方がない愚痴を言いながら、がたがた道を車は上っていきます。
もし・・・。一時間走っても、見通しがつかなかったらどうなっていたでしょう。
元のオワサン教会へ戻る道もわからなくなった感じです。
だいいち、あの「腕のような峰の先」には戻りたくない。
と、思った時、前方のT字路に三菱パジェロが止まっていました。
車の窓が開いて、「あれ、引き返してきたの。まだかと思って待っていたのに」とS先生はにっこり。
迷った私たちをからかう目つきです。
どうやら、私たちは正しい道を進んでいたらしい。それにしても、先に行ったはずのパジェロが分かれ道で止まっていた理由は?? いまさら聞いても仕方ありません。
とにかく、同じ迷うなら一台より二台のほうがいいやと、さとうは全然論理的でない結論を出して、ほっとしていたのです。
読者から、「子供たちへのおみやげは、いつ上げたの」とご質問がありました
。
出発前に、このブログで、教会の人たちから預かった子供へのお土産の写真をアップしていました。
私は、MCC(町田クリスチャンセンター)の信徒から、子どもたちへの文房具やおもちゃをたくさんお預かりしました。
S牧師とS牧師の教会の信徒であるUさんは、大量の衣料品を持ってきました。
日本の衣料品はしっかり縫製されていて、古着であっても好評なのです。
日本の文具は、言うまでもなく、さとうは、「世界一」かなと思っています。
性能だけでなく、デザインや使いやすさ、かわいらしさや洗練など、必要に応じて様々なものがそろっていますし、長持ちします。
もっとも、今回のものは、小さな子供向きで、100均で買えるようなものもけっこうありました。
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ただ、これらを個々の子どもたちに、私たちが手渡しで配るということはありませんでした。
同じものが公平に行き渡るか、それぞれの必要がどのようなものか、私たちは知らないわけです。
それで、それぞれの教会用に分け、その教会の牧師に分けていただくことになったのです。
フィリピンは、子だくさんの文化です。いたるところに子供がいます。当然ながら、みんな可愛いのです。ピトの教会を訪問した時、山の中でみんな粗末なものを着ていたので、私とUさんは子供にプレゼントを上げたくなったのですが、S先生の答えは「ノー」でした。
「隠された釣り針の餌のように、プレゼントを使ってはならない。」
これは、S先生が40年前に、「はだしで歩き、腰巻で過ごしているような」山の人に伝道しているときからのポリシーです。(今は、さすがに、はだしの人、腰巻の人はいないようです)
モノは適正に扱わないと、人間関係をゆがめます。
分配の仕方によっては、嫉妬やうらみを起こします。
転売して儲けるなど間違った使われ方もありえます。
モノにつられて信仰をもつのは、もっと危険です。
なんといっても、山の人たちは、ある意味で、私たちより確かに自分の足で生きている人たちです。決して援助を必要とする「難民」ではありません。
行く先々で出される食べきれないほどの「ごちそう」が、みなさんの心意気を表していました。
訪問する側は訪問先に敬意を表し、迎えてくださる側はあたたかいもてなしで受け入れて下さる、この訪問旅行には、そのような基本が、ありました。