ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

神の国――キリストの教えの中心をやさしく語る(抜粋)6

2017年03月15日 | 聖書




 3月3日からは、本や・野の草が、目下、出版を進めているキリスト教のテキスト
「神の国」――キリストの教えの中心をやさしく語る――の、内容を抜粋して公開しています

 これは、キリストの教えに関心をお持ちのノンクリスチャンの方から、聖書を学んでおられる学習者の方、すでに、ベテランのクリスチャンまでを対象に書かれたキリスト紹介の本です。

 著者は、アッセンブリ・オブ・ゴッド教団の佐々木正明師です。
 師は、牧師、宣教師、あるいは神学校の教師として50年にわたり、キリストを宣べ伝えるために献身してきた方です。現在も、九州の小さな町で働いておられます。
    

     

  

Ⅴ. キリストがお教えになった神の国

  キリストは、王になろうとはしませんでした。むしろ、王であることを主張なさいました。(ルカ23:1-3、ヨハネ18:23-19:22) すでに王である者は、王になろうとする必要がないからです。しかし、何百年も続いた神の国の誤解は、キリストの意をつくした教えさえも曲解(きょっかい)させ、ますます混乱を生み出しました。   


Ⅴ.A. 霊的神の国
  キリストは、神の国が、いわゆるこの世の国とは、まったく次元の異なる国であり、自分はその国の王であることを言明しています。(ヨハネ18:36-37) キリストがお教えになった神の国は、人間の政治や武力によって作られる「国」ではなく、この世界を支配する悪魔の力を打ち破る、神の主権の現れ、神の支配なのです。

  キリストが病気を治し汚れた霊を追い出すことは、神の国がそこに存在している証拠であり、弟子たちが町々村々を巡(めぐ)り歩いて、病気を治し、悪霊を追い出したことは、悪魔がその支配者としての位から、墜落(ついらく)したことなのです。 (マタイ12:22-28、ルカ10:17-20)

  そういうわけで、神の国は、どこか、はるか遠いところにあるのでも、ずっと未来にあるのでもなく、私たちのただ中にあるのです。(ルカ17:20-21) これは、「信じれば心の中に神の国ができる」というような、観念論とはまったく関係がありません。

  神の力によって、病気を治され、悪霊を追い出してもらい、罪から解放されて、秩序ある平安な生活を楽しんでいる者は、まさに神の国を体験しているのであり、また、そのような人たちが作り出す、愛に溢れた豊かな人間関係は、そして、祈りと賛美を通しての神との交わりは、神の国そのものなのです。


Ⅴ.B. 未来の神の国

  このように、神の国は、現在体験できるものであると教える一方で、キリストは、神の国とはやがて来るものであり、未来に属するものであるともお教えなりました。(マタイ16:28、25:31-46、ルカ18:30、19:1-27、21:31、22:18)  
  この未来に属する神の国も、本質的には現在体験できる神の国と同じで、神の支配、神の統治です。ただ、未来の神の国は現在の神の国とは違って、神の完全な支配、完全な統治です。
  そこでは、悪魔と悪霊たちが完全に滅ぼされ、自然の世界も造り変えられて、人間に不幸をもたらす天変地異も無くなり、完全な調和を保ちます。

  神の国に入った者には、完全な新しい肉体が与えられ、一切の病気や苦痛、死の恐怖も無くなります。
  人間の道徳的性質も新たに造り変えられ、キリストに似る者になるのです。人間同士のあらゆる差別が取り払われた交わり、神と人との豊かな交わりが限りなく続き、人間は人間としての、本当の幸せを満喫することができるのです。(イザヤ11:6-10、黙示録21:1-7、Iコリント15:50-58)

  さらに、王としてのキリストも、2000年前においでになった時の、人間の姿を取り、人として生き、人と共に苦しんでくださった、限られた力と権威の王ではなく、神としてのすべての栄光と力と権威を持った王として、しかも、人としての苦しみと悲しみを、みずから体験してくださった王として、ふたたび、人の世界に来てくださるのです。(ルカ19:12、15、使徒3::20-21)


Ⅴ.C. 霊的神の国と未来の神の国の関係
  霊的神の国、すなわち現在私たちが体験できる神の国と、未来の神の国は、決してふたつの異なった神の国ではなく、ひとつのものです。ですから有名な主の祈りの中で、キリストが「御国(みくに)を来たらせたまえ」と祈るようにお教えになったとき、まず、現在の生活の中で、神の支配を体験することができるように、すなわち、悪魔の力を打ち破って、罪を克服し、平和と愛の人間関係を築き、病気を治してもらい、悪霊、死霊のたぐいも追い出してもらい、幸福な生活ができるように祈りなさい。
  またそのために、みずからも積極的に、進んで神に従い、神の国、すなわち神の支配を自分の中で体験しなさいとおっしゃったのです。(マタイ6:10)

  この世界で体験できる神の国は、まだ完成された神の国ではありません。いわば、悪魔の世界に戦いを挑み、勝利を目指して力強く進入し、侵略し続けている神の国です。(マタイ11:12) 勝利は目の前にあります。ただ、まだ戦っているのです。というより、勝利はすでに決定しています。

  キリストご自身が勝利宣言をされたのです。(ヨハネ16:33)いわば戦後(せんご)処理(しょり)的な戦いが続いているのです。完全な勝利はもう少し先になります。(Iコリント15:24)
  そのために、まだまだ、この世界で味わう神の国には限度があり、苦しみと悲しみ、そしてさまざまな矛盾が伴います。
  神の国に入ったために、かえって、悪魔の激しい攻撃を受けることさえあります。
  これらの苦しみの中でも、神の守りによって、毎日、勝利を勝ち取って生きて行けるのです。

  神を信頼(しんらい)して耐えしのぶものには、やがて現される完全な神の国が保証されているのです。(マタイ10:22、24:13) 今のこの世界で神の国を体験している者は、完全な神の国の出現という輝く希望を持って、喜びに満ちて生きて生けるのです。(ローマ8:18、35-39)

「み国を来たらせたまえ」という祈りは、この、やがて打ち立てられる完全な神の国の出現に対する期待と、来たらせて下さる神に対する信仰の告白でもあるのです。











神の国――キリストの教えの中心をやさしく語る第2課(抜粋)5

2017年03月14日 | 聖書






  きょうは、神の国――キリストのおしえの中心をやさしく語る――
   第2課Ⅳ
を掲載します。
    罪の世から神に支配していただく「世」という、聖書のメッセージが佳境に入ってくるところです。

   「神の国」(天国)は、死んでから行く所であるだけではなく、今すぐ、入ることができる、
   その約束は、キリスト(救い主)が来られたことで実現する・・・。

    不思議な、素敵な、メッセージです。

    世の中の醜い、汚い面だけを見ていても、同時に、
    私たちは、いつでもひかり輝く平安の中にいるのだと
    わかったとき、私たちは生まれ変わることができる、そう語られます。
    そのための、神様(キリスト)の犠牲は、とても大きなものだったのですが、
    キリストは、私たちのいのちも営みも肯定的に見ることを、教えてくれます。

    訪問して下さって感謝です。


       
    

Ⅳ. キリストの生涯と神の国

  キリストは神の国の到来(とうらい)を宣言し、ご自分の働きは、神の国が現在ここに来ていることの証明であると、お教えになりました。キリストは神の国をもたらしてくださったのです。(マタイ4:17)


Ⅳ.A. 人々の期待
  国家が二つに分裂して、大きいほうが完全に滅ぼされてから、700年以上も神の国の出現、すなわち国家の再建を待ち望んでいたイスラエルに、キリストはお生まれになりました。
  その頃のイスラエル人は、ローマの圧政から国を解放して建て直す、力強い王を、「今や遅しと」待ちわびていたのです。
  当時のイスラエルにも、一応へロデという王がいましたが、純粋なイスラエル人ではない上に、ローマ帝国のあやつり人形にすぎず、民衆は彼を嫌って、他の王の出現を期待していました。

 ヘロデは、自分の王位に異常なまでに執着し、猜疑心(さいぎしん)にかられて自分の親族・妻子までも殺してしまった人間です。
  キリストがお生まれになった時にも、新しい王の誕生という情報に、自分の王位が危うくなるのを恐れ、生まれたばかりのキリストがいると思われた地方の、2才以下の赤児(あかご)を皆殺しにしてしまいました。

  キリストが30才になり、実際に教えを始め、数々(かずかず)の奇跡(きせき)を行われると、人々の期待はいやがうえにも膨(ふく)れあがり、もう、まさに爆発寸前というありさまでした。実際、人々はたびたびキリストを王として担(かつ)ぎ上げようとして、暴動(ぼうどう)にさえなりかけたのです。(ヨハネ6:15)


 Ⅳ.B. 人々の失望


  人々の期待がますます過熱するのを、目(ま)の当(あ)たりにしながら、キリストは王になることに関してまったく無関心で、もっぱら病人を治し、悪霊を追い出し、罪にとらわれていた人々を解放する働きに、専念しておられました。それこそが、その時キリストがもたらした、霊的な神の国、悪魔の支配を打ち破る、神の主権と力の現れだったのです。(マタイ12:24-28)
 
  キリストの態度は、過激な愛国者で、現世的(げんせてき)独立国家を望んでいた多くの人々には、優柔不断(ゆうじゅうふだん)でまどろっこしいものでした。そんなことから、いつしか、キリストに対する不信が芽生えていきました。 

  一方、宗教家や国家の指導者たちは、キリストを嫌っていました。民衆がキリストになぴいて行くことに対する妬(ねた)み。自分たちのひそかな罪と偽善(ぎぜん)が、キリストの鋭い教えに暴(あば)かれてしまう恐れと憎しみ。どうしてもキリストの教えに対抗できない腹立(はらだ)たしさ。
  さらには、キリストを王として担(かつ)ぎ出そうとする人々の暴動の可能性。それを弾圧するに違いない、ローマ帝国をなだめなければならない心配。これらが重なり合って、彼らはついにキリストを殺す陰謀(いんぼう)に走り、真夜中に祈っておられたキリストを捕(と)らえて、いつわりの裁判を開き、死刑の求刑をするのです。

  当時、植民地(しょくみんち)国家であるイスラエルの法廷は、死刑の宣告をすることが許されていなかったために、彼らは、キリストを宗主国のローマの官憲(かんけん)に手渡し、虚偽(きょぎ)の訴えをして死刑を求めたのです。
  憎いローマの官憲(かんけん)に手渡されてしまったキリストを見て、一般民衆のキリストに対する不満と不信は、たちまち頂点(ちょうてん)に達しました。こともあろうに、ローマを敵として戦う、勇ましい王として期待していたキリストが、いとも簡単に捕らえられ、弱々しく裁判にかけられ、口も開かずにいるのです。つい数日前までの人々の大きな期待は裏切(うらぎ)られ、まったくの失望に変わってしまいました


Ⅳ.C. キリストの死

  大きかった期待を裏切られた怒りは、そのまま、キリストにぶつけられました。この方こそ新しく王になられるのだと信じて、「一目でも見たい。一言でもお祝いの言葉をかけたい」と集まった群衆。椰子の葉を道に敷いて臨時の凱旋行進さえ演出し、胸躍らせ、歓呼して都に迎えた民衆は、一変して、キリストの死刑を要求したのです。
  誤って理解していた神の国への望みが、どんなに強力なものであったかがよく分かります。こうして、キリストは、死刑の中でももっとも重く残酷な、十字架刑に処(しょ)せられたのです。


Ⅳ.D. 神の国の再認識

  キリストは十字架の上で死に、墓に葬(ほうむ)られました。しかし、私たちが信じ崇(あが)めているキリストは、墓の中で朽(く)ちはてた人間ではありません。墓を打ち破って復活して下さった神の子です。キリストは3日目に甦(よみがえ)り、40日に及んで多くの人々の前に現れ、教えと働きの最後のしめくくりをした後、天に昇って行かれました。

  ここに至って、キリストと親しく生活を共にし、くわしく教えを学んだ弟子たちを中心に、神の国の新しい理解、正しい理解が生まれてきたのです。
  弟子たちも、一般の民衆と同じように、いや、それ以上に、キリストが王となり、ローマ帝国を打ち破って、繁栄の独立国家を再建して下さることを期待していました。ですから彼らにとって、キリストの死は、まさに、絶望だったのです。
  キリストの甦りはそんな弟子たちを狂喜させ、神の国の正しい理解を可能にしたのです。








神の国(2課)――キリストの教えの中心をやさしく語る(抜粋)4

2017年03月13日 | 聖書




  きのうは、午後から教会に行きました。MCCでは、日曜日に二回の礼拝を行います。
  朝は、通常礼拝です。
  午後4時からはバイリンガル礼拝です。英語説教で、通訳がつきます。
  外国人の信徒さんが多いのですが、仕事のご都合で午後しか来られない人、
  また帰国子女のような人もお出でになります。
  その前に、二時から有志でBilingal bible study の学びをしています。

  さとうは、この学びに出て、そのあとバイリンガル礼拝に出るつもりでした。
  何を油断したのか、教会近くの道で段差を踏み外して転んでしまい、したたかに顔を打ちました。
  どうやら、あごと口で受け止めたらしく、口からものすごい血が出てあせってしまいました。


  けっきょく、病院で、唇を縫い、抗生剤、痛み止め、胃薬をもらうはめになりました。
  思ったより軽かったとホッとしていたのもつかの間、今朝鏡を見ると、
  下唇が異様に腫れていて、「わー、おばけ~」と自分の顔に驚いています。
  
  当分マスクが離せません。いくら、「もう嫁に行くわけじゃなし」といっても、
  やっぱり、顔は大切か~・・です。お祈りください!!
  
 

      

 さて、刊行予定の「神の国――キリストとの教えの中心をやさしく語る」

  きょうは、第2課 Ⅲ「神の国の約束」です。


神の国2課
Ⅰ、神の国の始まり



Ⅰ、A、神の愛の対象として造られた人間
Ⅰ、B、神に似せて作られた人間
!、C、神の愛の対象として造られた人間
Ⅰ、D、善悪を選ぶ試み
Ⅰ、E、人間の失敗



Ⅱ、人間の反逆の結果


Ⅱ、A、祝福の喪失、
Ⅱ、B、いのちの喪失
Ⅱ、C、道徳的無力、無感覚
Ⅱ、D、宗教の始まり、
Ⅱ、E、悪魔の支配


創世記についての囲み記事


Ⅲ. 神の国の約束


  悪を選んで罪を犯し、神の国から追放され、悪魔の支配の中で、すなわち、悪魔の国に生きて行かなければならなくなった人間に、神は、大きな望みを与えてくださいました。
  それは、人間の失敗にもかかわらず、神がご自分の国、すなわち神の国、天国を完成させ、その中に、人間を入れてくださるという約束です。


Ⅲ.A.  神がお与えになった約束
  神は、人間が罪を犯した直後、ご自分の前から追放する直前に、すでに神の国の約束をお与えになっています。人間を絶望の中に追放したのではありません。(創世記3:15)
 さらに、追放した後にも、さまざまな角度から、何度も何度も、約束をくり返しておられます。

  ただし、この時点では、まだ神の国という思想が人間の側に無かったため、他の表現が使われています。人間が神の国という思想を持つようになったのは、イスラエル民族が王国を設立してしばらくたってからのことですから、紀元前1000年以降になります。          

  神がお与えになった約束の神の国の姿は、じつに多くの内容を含んでいますが、罪の赦(ゆる)しと聖(きよ)め、失われた神との交わりの回復、敵に対する勝利、病の根絶(こんぜつ)、繁栄と平和などが、とくに明確に約束されています。


Ⅲ.B.  人々が理解した約束

  神がお与えになった神の国、すなわち神の支配の約束は、人間には間違って理解されてきました。この誤解(ごかい)は、現在でも形を変えて続いています。
  今ここで問題になるのは、最初の誤解で、もっとも深刻なものです。 


  神は、どんどん増え広がった人類の中から、イスラエルという民族を選び、これを通して、全人類(ぜんじんるい)を祝福する神の国の設立を計画してくださいました。(創世記12:1-3)
  神の国の約束も、当然この民族を通して、全人類に与えられたものです。ですから、イスラエル民族のことを、少し学ぶ必要があります。

  王国となったイスラエルは、2代目の王ダビデと、その子ソロモン王の時代に(BC1000年ころ)、空前絶後の繁栄を楽しみますが、その後は邪悪な王たちの悪政の下で、衰退(すいたい)の一途(いっと)をたどりました。

  ソロモンの死後、12部族から成立っていたイスラエル国家は、南朝2部族と北朝10部族に分裂(ぶんれつ)して、抗争をくり返し、たちまち弱体化してしまいます。
  そこを、アッシリア帝国に攻撃され、北の10部族は、跡形もなく離散(りさん)してしまいます。紀元前720年頃のでき事です。その後およそ130年で、残った南の2部族もバビロニヤ帝国の捕囚(ほしゅう)となり、ついに、イスラエル民族は国家消滅(しょうめつ)の憂(う)き目にあいます。

  幸い、その後バビロニヤを征服したペルシャ帝国の王は、神の介入(かいにゅう)によって、イスラエルに対して寛容な態度をとり、植民地ながら、イスラエル国家の再建(さいけん)を許します。しかし、これも長くは続きません。
  バビロニヤは、アレキサンダー大王に率いられたギリシャ帝国に滅ぼされ、イスラエルは情け容赦(ようしゃ)なく抑圧(よくあつ)されます。さらに、このギリシャもローマ帝国に滅ぼされ、イスラエルはそのまま、ローマの植民地国家として苦辱(くじょく)をなめなければならなかったのです。

 
  数百年にもわたるこのような歴史の中で、イスラエルの人々は、神の国の約束を自分たちの民族の望みに、都合(つごう)よく合わせて理解しました。それは、神がイスラエルの敵をみな滅ぼして、ダビデ王の時の繁栄にも勝る、イスラエル国家を再建して下さるというものでした。

  これは、完全な誤りではありませんが、神の真意(しんい)からは外れた解釈です。

  しかし、イスラエル人(ユダヤ人)は今でも基本的にこのように信じていて、現在のイスラエル国家は、そのための段階として、神が再建して下さったと考えているのです。
  (現在のイスラエルが、国家の安全という面では極端(きょくたん)に強硬(きょうこう)な背景には、このような思想があるのです)。










神の国――キリストの教えの中心をやさしく語る2課(抜粋)3

2017年03月12日 | 聖書


 きょうは、2課の「神の国の始まり」の中の囲み記事の部分を、ごらんいただきます。

 「創世記」の記述に対する、大切な注解です。

 創世記は聖書の最初の文書ですので、すでにお読みになった方も多いと思います。
 初めは、ちょっと、荒唐無稽に思われるエピソードですが、

 さとうも、この文書が、読めば読むほど味わいと発見があり、聖書が楽しくなるのに驚いています。

 神の国――キリストの教えの中心をやさしく語る
        著者は、50年の歳月を宣教師として、また牧師として、
        神の言葉を宣べ伝えるためにささげて来られた、佐々木正明師です。(アッセンブリ・オブ・ゴッド教団)


 
 さとうは、無理をお願いして、まったく実績のない個人出版者(社)「本や・野の草」からの出版を了承していただいたのです。最初は、電子書籍を、追って、印刷本を出す予定です。
  目下、編集作業の真っ最中です。

  お祈りをいただければ、幸いです。

  
   
 

 囲み記事

天地創造の出来事は、聖書の一番初めに置かれている、創世記という書物の最初の部分に、物語風に記録されています。
  初めてこの部分を読む現代人は、つい、自分たちの合理主義的な考え方、つまり、自分の理論を大切にするものの見方を持ち込み、理科の教科書でも読むような、自然科学的な感覚で読んで、荒唐無稽な神話だと思い違いをしてしまいます。
  それに対して、これは文字通り事実であると考えるクリスチャンたちは、これもまた、現代的な合理主義に立つ自然科学の知識を駆使して、これが単なる神話ではなく、科学的な事実であると証明しようとしています。
  どちらも、自分たちがとんでもない誤りをおかしていることに、気づいていません。

  それは、この書物が今から3500年ほども昔、まず、その当時生きていた人々に分かりやすく、書かれているという事実です。
  21世紀の人間が、物理の知識、生物学の知識、天文学の知識、その他、関係するあらゆる科学的知識をもってこれを調べ、納得できるように書かれているのではありません。合理主義や自然科学が発生する、3000年以上も前に生きていた人々に、最も分かりやすく、最も記憶しやすく、最も要点をつかみやすく書かれているのです。

  そこに記されていることは、現代の科学知識から判断して、正しい記述であるかどうかと議論するのは、まったく的外れの愚かなことです。あらゆる科学的知識に満ち溢れ、その知識の上に世界を創造なさった神が、3500年前に生きていた人々に、最も理解されやすく、受け入れられ易い書き方をしてくださったのです。

  そのことを理解して読むと、逆にこの部分が、豊富な科学的知識を背景に書かれていることに、驚かされます。
  自然科学とは、結局、神が天地創造のときにお定めになった、自然の法則を学び、利用するものなのです。
  創世記のこの部分で、神が人間にお伝えになろうとした基本的な事柄は、多分、以下のようにまとめられることでしょう。


 神が天地の創造者であり、すべてのものは神によって発生し、神によって存在しているという事実。

 創造者である神は、またすべてのものの支配者であるという事実。

 すべての被造物は、神がお定めになった秩序(法則)によって、正しく保たれているという事実。

 人間も神の被造物のひとつに過ぎず、神の絶対の権威(けんい)のもとに生きるように定められているという事実。

 人間だけが神に似せて造られ、神との特別な関係を持つように造られている事実。










神の国――キリストの教えの中心をやさしく語る 第2課(抜粋)2

2017年03月11日 | 聖書



   きょうは、東日本大震災から6年目です。
   震源地とは、ほど遠い東京の西の端にいて、
   あの日、どれほど怖かったかを思い出しています。

   夜十時頃まで停電していたので、寒さと暗さの中、一所懸命祈っていました。
   三陸で、何万人もの人が行方不明になっていると知ったのは、ラジオのニュースでした。

   何日も悲しく、何を見ても悲しかったのを思い出します。

   しかし、このような悲劇は、2011年に突然初めて起きたのではないですね。また、
   もう、金輪際起きないことでもないですね。
   亡くなる方と、生き残る方に条件や理由があるのでもないですね。

   生まれてきたことに、選択がないように、死もまた自由になりません。
   私たちは無能なのでしょうか。

   神さまは一体どこにおられるのでしょう。なにをしておられるのでしょう。

   聖書は、何と語っているのでしょう。
   
   


      

   さて、昨日に続いて、本や・野の草が出版を進めている

   「神の国――キリストの教えをやさしく語る」(佐々木正明著)の抜粋を、掲載させてください。
       

神の国・第2課
Ⅰ、神の国の始まり


 Ⅰ、A、神の自己表現
 Ⅰ、B、神に似せて作られた人間
 Ⅰ、C、神の愛の対象として造られた人間
 Ⅰ、D、善悪を選ぶ試み
 Ⅰ、E、人間の失敗
      

     


Ⅱ. 人間の反逆の結果

  もしも人間が、悪魔の誘惑(ゆうわく)に打ち勝って、神の戒(いましめ)めに従う選択をしていたならば、神の国の歴史は、随分(ずいぶん)変わっていたはずです。少なくてもこの世界は、悪魔の支配の下に陥(おちい)らずにすみました。人間の神への不服従(ふふくじゅう)は、悪魔への屈服(くっぷく)だけではなく、神への反逆(はんぎゃく)です。これが「罪(つみ)」と言われるものの根本です。
  これに対し、神のもうひとつの本質的な性質である、「絶対の聖(きよ)さ」が、当然の反応をしました。それは人間をご自分の前から追放(ついほう)する、つまり、交わりを拒絶することでした。絶対に聖(きよ)い神が、罪を犯した人間と交わりを続けることはあり得ないのです。その結果、いくつかの事が起こりました。


Ⅱ.A. 祝福(しゅくふく)の喪失(そうしつ) 

  罪を犯す前の人間の生活は、悲しみも苦痛もなく、何ひとつとして不足のない、満ち足りたものでした。自然は美しく、豊かな環境と実りを与えてくれました。しかし、神から追放された人間は、神の祝福の多くを失ってしまったのです。恵みに満ちていた自然は、荒々(あらあら)しくも猛々(たけだけ)しく豹変してしまいました。多くの微生物は、ありとあらゆる病を人間にもたらすようになりました。おだやかだった気候は荒れ狂って台風となり、いたるところに洪水をもたらす一方で、多くの地方では旱魃(かんばつ)を広めて砂漠化を進めています。地震は町々を破壊し津波を発生させて、多くの人命を奪い続けています。そのような中で、人間は悲しみと苦痛(くつう)にあえぎ、ひたいに汗を流し、争(あらそ)いながら、生きて行かなければならなくなったのです。(創世記3:15-18)


Ⅱ.B. 命(いのち)の喪失
  人間の命は、単なる生物学的な生命とは異なっています。神が、特別にご自分の命を吹き込んで、ご自分に似せてお造りになった「人間としての命」です。(創世記2:7) 
  ところが、命の源である神から追放されることによって、人間の命は、人間の命としてもっとも大切な機能(きのう)である、神との交流を失ってしまいました。
  神との交わりを失ってしまった人間は、他の何ものをもっても、心のうつろさを、埋(う)め合わせることができません。金、地位、名誉(めいよ)、権力(けんりょく)、性、家庭、親戚、芸術、その他あらゆる快楽も、人間を本当の意味で満足させることはできません。聖書はこの状態を「死」と定義(ていぎ)しています。
  キリストもまた、ただ動物的に生きているだけの人間を、「死人」と呼んでいます。(マタイ8:21) (私たちはこの死を「霊的な死」と呼んでいます)。  


  さらに、命の源(みなもと)である神から離れた人間は、生物学的な死をも避(さ)けられないものになってしまいました。(創世記3:19) それだけではなく、聖書が「第2の死」と呼ぶ、永遠の裁きとしての死までが、運命づけられてしまったのです。(黙示録20:11-15) 死は、人間が罪を犯す前に、あらかじめ与えられた警告だったのです。(創世記3:16-17)


Ⅱ.C. 道徳的無力・無感覚
  神に反逆して追放された人間は、霊的に死ぬことによって、道徳的には無力・無感覚(むかんかく)になってしまいました。エデンの園を離れた人間の、その後の歴史は、長男カインが弟アベルを殺した事件に始まって、あらゆる犯罪と闘争(とうそう)の歴史だったと言って、過言ではありません。
  それは21世紀に入った現在も変わっていません。人間は、この悪い状態を何とかしようと、できる限りの努力をしてきました。部分的には、それなりの効果を上げたことも事実ですが、全体的には、どうすることもできなかったというのが真実で、少しも良くなっていないばかりか、ますます悪化し続けているのです。
  現在も世界中の多数の人々が餓え、何億もの人々が差別(さべつ)に苦しみ、何千万の人々が戦争の犠牲(ぎせい)になろうとしているのです。(創世記4:1-15) 


Ⅱ.D. 宗教の始まり
  神から追放(ついほう)された人間は、神との交わりの喜びを失ってしまいました。失われたその喜びは、霊的な存在物として造られた人間の本質に関わる喜びで、他のどのような代用物でも満たすことができない喜びでした。
  そこで人間は、失われた神との交わりをなんとか回復しようと、空しい努力を重ねたのです。しかし、拒絶され追放された人間は、しだいに神の真実の姿を忘れ、おぼろげな記臆や、曖昧(あいまい)な理解に、頼(たよ)らざるを得なくなっていましたので、誤りだらけの神(かみ)観念(かんねん)ができあがり、目を覆(おお)うばかりに、はてしなく混乱した宗教が、たくさん生まれてきました。
  それでも人間は、神との交わりを失ってぽっかりと開いた心の空しさを、そのような宗教で埋め合わせようと、なおも悲しい努力を続けているのです。


Ⅱ.E. 悪魔の支配

  神の支配から追放(ついほう)された人間は、悪魔の支配の中に入れられてしまいました。人間に与えられたこの世界は、人間が悪魔の誘惑(ゆうわく)に負けたことによって、そのまま、人間もろとも、悪魔の支配の中に、組み込まれてしまったのです。
  悪魔は自然を用い、人間の道徳的無力さを利用し、死の恐怖(きょうふ)をちらつかせ、さらには宗教の混乱を武器に、人間を支配し、苦しめ、ますます神から遠ざけているのです。
  悪魔にとって最大の喜びは、神の愛の対象である人間に、できるだけ多くの苦しみをもたらすことによって、神を悲しませ、創造の目的を汚(けが)し、栄光に傷をつけることなのです。


  罪を犯してしまった人間を、神がご自分の前から追放されたのは、 神の聖さだけではなく、愛の性質のためでした。
  神の絶対の聖さは、汚(けが)れたたものが近づくと、それを焼き尽くさないではいないからです。それはちょうど燃えさかる火のようです。(ヘブル12:29) 燃えさかる火に飛び込んでくる虫は、一瞬のうちに焼き尽くされてしまうように、絶対に聖い神に罪あるものが近づくと、たちまち焼き滅(ほろ)ぼされてしまうのです。

  そこで神はその愛の性質のために、罪を犯した人間がご自分に近づいて滅んでしまわないように、ご自分の前から追放し、もどって来られないように、厳重な警戒を敷かれたのです。
  そのようにした上で、神は人間に救いの道を準備してくださったのです。(創世記3:23-24)