ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

神の国――キリストの教えの中心をやさしく語る、第2課(抜粋)1 

2017年03月10日 | 聖書


 空の色は春の気配をにじませていますが、まだまだ寒い日がありますね。
 2月から、立て続けにメディアをにぎわす不幸な事件が起こっています。

 私たちは、私たちを取り巻く世界に無関心ではいられません。悲しい事件やむごい事件は他人ごとではないからです。
 とりわけ、やりきれないのは、あらゆる悲しみを回避し、うまくやったと思っても、私たちには終わりの日がくることではないでしょうか。
 生まれてきたとはどういう意味なのか、生きているとはどういうことなのか。死は終わりなのだろうか。

 聖書は、そのような問いにどう答えているでしょう。

 「神の国――キリストの教えの中心をやさしく語る」(佐々木正明著)は、
 長年、多くの方の悲しみや苦しみに寄り添って
   キリストを紹介してこられたベテラン牧師の、キリスト紹介の著述です。

  本や・野の草では、
        出版に先立って、抜粋をご紹介させていただいています。




第2課
 神の国の大河ドラマ



Ⅰ. 神の国の始まり
  神の国の歴史という大河ドラマは、神が天地を創造し、それを支配されるというところから始まります。すでに学んだように、「国」とは「支配」を意味するからです。

  天地創造以前の神が、どのような姿で存在しておられたかについては、ほとんど何もわかりません。
  神は永遠から永遠までを現在として存在される、つまり、時間を超越して存在される方です。時間を越えるとは、はたしてどういうことなのか、人間の思考能力の限界を思い知らされる問題です。
  聖書は哲学の本でも、物理の教科書でもなく、人類の救済という具体的な問題を取り扱っている書物ですから、そのような問題にはまったく触れないまま、「始めに神は天と地とを創造された」という書き出しで、始まっています。
      .

Ⅰ.A. 神の自己表現 
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  天地創造は、無(む)から有(ゆう)を造り出す、神の栄光と力の表現であり、それを治めて持続(じぞく)させるという、権威の表現であったことは明らかです。神がお造りになった天と地は美しく、すべて完全な秩序のなかにありました。(創世記1:1-31) 天と地は、美しく善良な神の性質を具体的に表現したもの、神の自己表現だったからです。


Ⅰ.B. 神に似せられて造られた人間

  神の自己表現の中で、とくにきわ立っているのは、人間の創造です。
  驚くべきことに、人間は神の姿にかたどって造られたのです。もちろん、これは神に手足があるということではありません。人間は、霊的(れいてき)な存在者(そんざいしゃ)である神に似せて、霊的な存在として造られたということです。
  たんに、犬や猫のように、生まれ、食べ、繁殖し、死ぬ、動物的な体と命だけではなく、神と交(まじ)わることができるように、神と同じ性質の霊を与えられて造られたのです。そのため、すべての動物の中で、人間だけが、神を礼拝したいという心、祈りたいという気持を、本能として持っているのです。
  そういうわけで人間は、たとえ、どんなに進んだ文明の中に住んでいても、未開の世界に生きていても、すべて、例外なく宗教を持っているのです。 (創世記1:26-27、2:7)


Ⅰ.C. 神の愛の対象として造られた人間

  人間が、神と心の交流を持てるように、神に似せて造られているのは、人間が神の愛の対象であることを示しています。神は始めから変わりなく、愛の神です(Ⅰヨハネ4:8)
  その愛を豊かに表現するために、ご自分と同じ姿の人間をお造りになったのです。ですから、人間は始めから神を礼拝し、神と交わり、神を賛美し、神に感謝をし、祈りをささげるものとして造られています。またそのようにするとき、人間は神の豊かな愛と祝福を感じて、生きる喜びと平安、満足と充実を味わうことができるように、造られているのです。人間はおいしいものを食べ、美しいものを着、立派な家に住み、やさしい家族を持つだけでは、決して満足できません。神の愛の対象として造られているため、神の愛が感じられなくては、心に空白ができてしまうのです。神の支配は、ただ物理的な力による支配だけではなく、愛の力による支配でもあるのです。


Ⅰ.D. 善悪を選ぶ試み

  神が人間をお造りになったとき、どうして、罪を犯さない人間にしなかったのですかとたずねる人がいます。たしかに神は、善悪を選択することができる自由意思を持つものとして、人間をお造りになりになりました。自由意思を持っていない存在は神に似たものではなく、単なるロボットです。
  とくに、善悪の問題に関して言えば、始めから、善以外は選ぶことができないように、造られてしまったとするならば、その善は真の善ではありません。善と悪のふたつがあって、どちらでも選ぶことができるという中で、善を選んでこそ、初めて善となるのです。ですから、自由意思を持った人間は、「欠陥製品」ではなく、最高作品でした。また、神が人間にお与えになった善悪選択の試みは、人間が真に神に似た霊的な存在として、完成されるためには、絶対になくてはならない条件だったのです。(創世記3:1-24) 


          
Ⅰ.E. 人間の失敗

  真(しん)に霊的な存在として、善と悪の選択ができるように造られた人間は、悪魔の誘惑に負け、神の戒(いまし)めに逆らうという、間違った道を選んでしまいました。ここから、人間を取り巻くあらゆる問題が始まったのです。(創世記3:1-7)









キリストの教え・テキスト「神の国」抜粋

2017年03月05日 | 聖書



   本や・野の草が現在出版を準備しているキリスト教のテキスト「神の国」の抜粋をお届けします。
             著者は日本アッセンブリ・オブ・ゴッド教団の佐々木正明師です。

             ※色はじっさいの本と異なります。


第1課
キリストの教えの中心


Ⅰ、キリストの教えの中心をさがす
Ⅱ、神の国という言葉の意味
Ⅲ、神の国の反対 
Ⅳ、悪魔の支配の実態  
Ⅴ、悪魔の支配の限界  




Ⅵ. キリストがもたらした神の国


ところが、この世における神の国はやがて来る「未来の国」で、人間はただひたすら忍耐をしてそれを待ち続けなければならない、というものではありません。神の国は、現在この世界で体験できる、現世的なものでもあるのです。

Ⅵ.A. 神の国は到来した
キリストは、「神の国は近づいた」と宣言して、働きをお始めになりましたが、これは、神の国がずっと彼方(かなた)から、ゆっくり、そろりそろりと近付きつつある、という意味ではありません。神の国が、もうここまで来ている。到来しているという意味です。キリストは、神の国が今この世に存在していることを、明言しておられます。(マタイ12:28、ルカ11:20、17:21) また、この神の国は、現在、悪魔の国を打ち破ながら侵略(しんりゃく)しつつあるとも、お教えになっています。(マタイ11:12 英語INV訳聖書)

Ⅵ.B. いま入ることができる神の国
それだけではなく、キリストはこの神の国を、現在、人々が入ることができるものとして教え、是非(ぜひ)とも、今、入るように勧(すす)めておられます。キリストによれば、人間は今のこの世界で神の国、すなわち天国を体験できるのです。(マタイ21:31、23:13、ヨハネ3:1-10、マタイ13:44、4-46)

聖(きよ)い生活  神の国は聖(きよ)い神の支配ですから、その中に入った人が体験するのは、聖い神の聖い力に助けられる聖い生活です。自分でがむしゃらに聖い生活をしようと頑張(がんば)って、難行苦行(なんぎょうくぎょう)の聖者(せいじゃ)になるのではなく、神の力に助けられて、ゆったりと、おだやかに、聖い生活を築(きず)き上げて行くことができるのです。

秩序ある生活 
 また神の国は、秩序ある神の支配です。悪魔によってもたらされた、人間生活のさまざまな混乱(こんらん)から解放され、人間として生きるべき、秩序正しい生活を営むことが可能になるのです。   .

満ち満ちた幸せの生活  さらに、悪魔によって奪(うば)い取られた、人間の人間としての喜び、神との霊的交わりも回復(かいふく)され、他のどのような快楽(かいらく)でも満たすことができなかった、人生の空しさが取り除かれてしまいます。俗な言葉で言いますと、恋人がいっぺんに10人もできたような喜び・・・・・ではなく・・・・恋人ができたときの喜びを10倍にしたような、喜び、満ち満ちた幸せにつつまれるのです。
 
       

健康な生活  悪魔の支配の特徴(とくちょう)に、病気があります。神の支配が来ると、病気も治されます。聖書には、キリストが神の国の証拠(しょうこ)として、病気をお治しになった物語がたくさん記録されています。(マタイ12:28)

悪霊を恐れない生活  悪霊たちはキリストの力を知って、恐れていました。神の国は悪霊の活動を許しません。神の国、すなわち神の支配が人間に及(およ)ぶと、悪霊はその人間に危害(きがい)を与えることができないのです。(Ⅰヨハネ4:4)

死を恐れない生活  神の国に入るということは、命の源(みなもと)である神との交わりに入り、新たな命をいただくことです。この命を、キリストは永遠の命と呼び、この命を持つ者はいつまでも死ぬことがなく、たとえ死んでも生きると、約束(やくそく)してくださいました。ですから、死も怖(こわ)くはなくなるのです。(ヨハネ11:23-27、Iコリント15:51-57)

希望の生活  現在私たちが体験できる神の国は、完全なものではありません。神の支配が悪魔の支配を攻撃(こうげき)し、侵略(しんりゃく)し、破壊(はかい)しつつある、「戦いの中にある」神の国です。ですから、この神の国を体験しつつある私たちの生活も、まだ不完全です。聖さも、秩序も、幸せも、健康も、まだ完全ではありません。悪霊に悩(なや)まされることもまったくなくなりはしないかも知れませんし、死が心配になることだって、時にはあるでしょう。

しかしキリストは、やがて来る完全な神の国を教えています。悪魔の力が完全に打ち破られて、 「勝利の神の国」が出現するのです。その時、現在の神の国のあらゆる不完全さが、まったく完全なものに変えられるのです。ですから、現在の神の国に生活する者は、目の前のありさまが、たとえどのように望みのない状態であっても、大きな希望を持って、力強く生きることができるのです。(マタイ6:10、黙示録21:1-7)



     ★ ★★ ★★




以下は囲み記事です。


 お祈り
 お祈りは、あらゆる動物の中で、人間だけにできる行為であり、もっとも人間らしい行為です。
 人間だけが神に似せて造られ、神を感じ、神と交わることができるようにされているために、いかなる環境に育ち、どのような教育を受け、どう訓練されても、祈るという気持ちが消え去ることはありません。
 ですから、お祈りは単なるお願いではなく。神との会話であり、神との交わりです。
 祈る動物として作られた人間は、祈りの中にこそ、本当の心の満足を、感じることができるのです。








テキスト「神の国」の抜粋

2017年03月04日 | 聖書




   本や・野の草が、現在出版準備をしているキリストの教え・テキスト「神の国」(佐々木正明著)の抜粋を、
               昨日に続いて掲載します。

          色は実際とは異なります。




第1課
キリストの教えの中心


Ⅰ、キリストの教えの中心をさがす、
Ⅱ、神の国という言葉の意味


Ⅲ. 神の国の反対 
ふつうの考えかたでは、天国の反対は地獄となります。キリストの教えのある部分でも、天国と地獄が対比されて語られていて、あたかも、地獄が天国の反対であるかのような印象を受けることがあります。しかし注意深く読むと、この場合でも、地獄もまた神の支配の下にあるものとして、語られていることに気づきます。天国、すなわち神の国の反対は、神の国に対立するものであり、神の支配の下にない状態ですから、神の支配の下にある地獄が、反対ではあり得ません。(マタイ5:17-22)

Ⅲ.A. 悪魔の支配
キリストは、この世界が悪魔の支配の下にあることを、いく度も明確にお教えになりました。悪魔の支配という概念(がいねん)は、神の国、すなわち天国と真っ向から対立するものです。キリストは悪魔の支配を、はっきり、「悪魔の国」として言及しています。(マタイl2:26、ルカ11:18、ヨハネ12:31、14:30、16:11、参照ガラテヤ1:4、エペソ2:2、Iヨハネ5:19)

Ⅲ.B. 悪魔の呼び名
キリストは、悪魔を「この世を支配するもの」と呼び、悪魔のこの世に対する関わりを、この上なくはっきりとお示しになりました。パウロという偉大な弟子は、悪魔を呼ぶのに、あえて「この世の神」という表現さえ用いています。徹底した一神教だったキリストの弟子が、わざわざ誤解される危険を犯してまで、このような紛らわしい言い方をしたのは、悪魔がこの世に対して持っている権力を表現したかったからです。(ヨハネ12:31、Ⅱコリント4:4)

Ⅲ.C. キリストの確認
キリストは、教えと働きを開始する直前、荒野(あらの)で悪魔の試みを受け、これに打ち勝ってくださいました。この時、悪魔が用いた3つの誘惑のうちのひとつは、この世のすべての国々とその栄華を見せて、「私を礼拝さえすれば、これらすべてを譲(ゆず)ろうではないか。」というものでした。悪魔は、この世のすべての国々とその栄華の所有権を、当然のこととして主張しているのですが、それに対して、キリストは何の反駁(はんばく)もなさいませんでした。キリストは、悪魔がこの世を所有していることをお認めになったのです。(マタイ4:1-11、ルカ4:1-13)





      (中略)


    以下は、書中では囲み記事となっています。
    

    「地獄」という日本語は、通俗的な仏教感覚による先入観が強すぎるために、
    キリスト教では避ける傾向があります。ですから、日本語に翻訳された聖書には、
    「地獄」という言葉を用いているものと、用いていないものがあります。
    いま筆者の手元にある「新改訳聖書」は、もともとのギリシャ語である、「ゲヘナ」
    という言葉がそのまま残されています。
    「ゲヘナ」とは、エルサレム郊外にあった深い谷で、ゴミ焼却場として用いられていた場所です
    そこはとても不潔で、いつも火が燃え続けていたために、
    悪人が死後行かなければならない刑罰の場として、キリストの教えの中で
    オブジェクト・レッスンに用いられたものです。

    日本語に訳された聖書にも、ずいぶんいろいろあります。
    聖書全体がきちっと翻訳されているものだけでもかなりありますし、部分的に
    翻訳されたものは数え切れないほどです。
    中には多くのキリスト教団体が協力して翻訳出版したもの、あるいは個人や特定の団体、
    あるいは教会が独自に翻訳出版したものもあります。
    それぞれ、翻訳の特徴があり長所と短所を抱えていますので、原語で聖書を読むことが
    できない人たちは、多くの団体が協力して出したものを基本にして、いくつかの翻訳を
    比べ合わせて読むのがよい方法です。
    ただし、ものみの塔(エホバの証人)という団体が出している「新世界訳」は、
    自分たちの間違った教えに都合が良いように、勝手に変えて翻訳していますので、
    勧めることができません。









神の国

2017年03月03日 | 聖書



     本や・野の草が、来月刊行予定の、キリスト教テキスト「神の国」
      最初の部分の一部を、特別に公開します。

  
          ※、実際の本では色は異なります。


第1課     
キリストの教えの中心


Ⅰ. キリストの教えの中心を探す

「キリストの教えの中心は愛である」と言われています。確かに、「愛」はキリストのお与えになった戒(いまし)めの中で、もっとも重要なものです。「愛」という主題を通して、キリストの教えの多くを理解することもできます。ただ、「愛」では解明(かいめい)できない、大きな分野もあって、これを「中心」とするには、かなり無理があります。そこで、キリストの生涯(しょうがい)と教えを実際に見直すことによって、「中心」を探し出して見ましょう。
 
キリストの生涯と教えに関しては、じつに様々な物語があり、これについて書かれた書物も、それこそ何万巻もありますが、もとはと言えば、すべて聖書という書物に基(もと)づいて書かれ たもので、それ以は、単なる想像やフィクションにすぎません。また、聖書の中でも、直接キリストの生涯と教えに言及(げんきゅう)している部分は、新約聖書の始めの4つの福音書、すなわち、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと、5つ目の使徒の働きという書物の第1章の前半だけで、1日か2日もあれば読むことができます。(間接的には旧約聖書も、歴史の出来事、律法、儀式、詩歌、預言などを通して、やがてお生まれになるキリストについて語るものであり、新約聖書の他の部分も、キリストの生涯と教えを解説するものです)。ですから、キリストの生涯と教えを実際に見直すのは、比較的やさしい仕事です。


Ⅰ.A. 教えの始め キリストが実際にお教えになったのは、33年と6ケ月の生涯の内、最後の3年6ケ月だけだったと計算されています。その教えは「神の国は近づいた」という宣言(せんげん)で始まりました。(マルコ1:15、マタイ4:17、23) 

Ⅰ.B. キリストの目的 キリストは、この世界に出現した目的をご自分で説明して、「神の国の福音を宣(の)べ伝えるためである」と語っています。キリストの誕生(たんじょう)、生涯、教えは、すべて神の国に関わり、神の国の福音を宣(の)べ伝えること、すなわち、その神の国のすばらしさを人々に体験させることが、キリストの願いでした。(ルカ4:43)

Ⅰ.C. 教えの中でもっとも多く出てくる主題 キリストが一番時間を費(つい)やし、くりかえし、くりかえし強調された主題は「神の国」でした。
記録されたキリストの教えと生涯の物語の中に、「神の国」あるいは「神の国」と同じ意味の言葉が120回ほど出てきます。キリストの様々な教えのほとんどは、喩(たと)え話で語られたものですが、その大部分が「神の国」に関するものです。ですから、聖書がキリストの働きを要約(ようやく)するときには、いつも「神の国を宣ペ伝えた」という言葉で結んでいるのです。(マタイ4:23、9:35、ルカ8:1)



(中略)



Ⅱ.  神の国という言葉の意味

「神の国」という言葉自体は、だれにでも分かる単純な言葉ですが、面倒(めんどう)なことにちょっと複雑な背景があって、注意が必要です。

Ⅱ.A. 神の国と天国
「天国」という言葉は、「神の国」よりなじみがあって、キリスト教関係だけではなく、一般の言葉としても使われています。普通は、「善い人が死んだら行くところ」とか、「この世で結ばれずに心中した男女が、めでたく結ばれるところ」くらいの意味でしようか。しかし、キリストの教えの中では全然違います。じつは、「天国」と「神の国」は、まったく同じ意味で用いられているのです。

 日本のある地方には、人々の深い信仰心から、口に出すのも畏(おそ)れ多くもったいないということで、「お言わず様」と呼ばれている神があるそうですが、キリストが生活された当時のイスラエルでも神を畏(おそ)れ敬(うやま)うことから、不用意に「神」という言葉を多発することを避(さ)けていました。とくに、会話の中ではできるだけ用いないようにして、たとえば「天」という言葉で代用していたのです。

 そういうわけで、キリストの生涯と教えを記録した4つの福音書の中で、イスラエル人を第一の読者と想定(そうてい)して書かれた「マタイによる福音書」は、「神の国」の代わりに「天国」という言葉を多用しています。時にはたんに、「御国(みくに)」あるいは「天」という表現で、神の国が言い表されていることがあります。




Ⅱ.B. 「国」と訳された言葉
 「国」の難しい定義(ていぎ)は横に置いても、何となく、場所、もしくは土地を連想(れんそう)させます。ですから「天国」とは、はるか星のかなたにあるユートピァ、「神の国」とは、神が住んでいる場所、あるいは神が所有している場所と考えてしまいます。しかし「国」というのは、あくまでも翻訳された言葉で、翻訳上のいきさつと歴史があって、こうなったにすぎません。もともとの言葉(この場合はギリシヤ語)の第一の意味は、「王の支配」「王の統治」ということでした。そこから、第二義的に支配されている所、「国」という意味が生まれてきたのです。キリストの時代にも、この第一の意味と第二の意味が、しばしば混同(こんどう)して用いられていたため、ややこしくなったのです。

 日本語の聖書でも、ルカ22:29を読むと、普通、神の国と訳されている同じ言葉が、「王権」「国の支配」などと訳されています。そこで、聖書を読んでいて「神の国」という言葉が出てきた場合、「神の支配」「神の統治(とうち)」などと読み替(か)えてみると、意味がはっきりすることがよくあります。





(後略)







三月

2017年03月02日 | 



      気がついたら、三月。
      なんだか焦っています。

      だいたい、三月って「せっつかれるような時間」ですね。
      なにしろ、年度替わりで、実質帳尻が迫ってくるのです。
      進級、卒業、転勤、就職・・・。

      教会も、四月から新年度が始まります。

      もっとも、教会は四月に新入会してくる人を迎えるわけではありません。

      たとえば、四月「新年度入会員募集」なんてことで、教会員になるわけではないからです。

      年度替わりは、あくまで教会の事務的手続きを、
      四月新年度の社会のルールどおり、行うということです。

      一応、過去一年の教会活動の報告や反省や、今後の見通しなどを見る時期です。
      教会総会が持たれ、役員選挙が行われます。


            ★★★★


       個人的には、しなければならないことが多くて、しばしば頭が混線しています。

       じつは、今、伝道用のテキストを発刊しようと準備をしています。
       著者は、宣教師と牧師生活五〇年の佐々木正明師です。

       日本アッセンブリオブゴッドという教団に属していて、

       神学生や若い牧師の教育にも携わっています。
       もちろん、第一線で初めて教会に来る方々、
       悩んでいたり苦しんでいたりする方々をケアするために働いておられます。

       クリスチャンだけでなく、キリストの教えの要点を知りたい多くの方の、疑問に答えられるテキストです。

       未熟なさとうが、あえてお願いして、出させていただくのです。

       電子書籍と印刷本ですが、細かい詰めに時間がかかっています。

               「神の国」
            ――キリストの教えの中心をやさしく語る


           お祈りいただければ感謝です。