空の色は春の気配をにじませていますが、まだまだ寒い日がありますね。
2月から、立て続けにメディアをにぎわす不幸な事件が起こっています。
私たちは、私たちを取り巻く世界に無関心ではいられません。悲しい事件やむごい事件は他人ごとではないからです。
とりわけ、やりきれないのは、あらゆる悲しみを回避し、うまくやったと思っても、私たちには終わりの日がくることではないでしょうか。
生まれてきたとはどういう意味なのか、生きているとはどういうことなのか。死は終わりなのだろうか。
聖書は、そのような問いにどう答えているでしょう。
「神の国――キリストの教えの中心をやさしく語る」(佐々木正明著)は、
長年、多くの方の悲しみや苦しみに寄り添って
キリストを紹介してこられたベテラン牧師の、キリスト紹介の著述です。
本や・野の草では、
出版に先立って、抜粋をご紹介させていただいています。
第2課
神の国の大河ドラマ
Ⅰ. 神の国の始まり
神の国の歴史という大河ドラマは、神が天地を創造し、それを支配されるというところから始まります。すでに学んだように、「国」とは「支配」を意味するからです。
天地創造以前の神が、どのような姿で存在しておられたかについては、ほとんど何もわかりません。
神は永遠から永遠までを現在として存在される、つまり、時間を超越して存在される方です。時間を越えるとは、はたしてどういうことなのか、人間の思考能力の限界を思い知らされる問題です。
聖書は哲学の本でも、物理の教科書でもなく、人類の救済という具体的な問題を取り扱っている書物ですから、そのような問題にはまったく触れないまま、「始めに神は天と地とを創造された」という書き出しで、始まっています。
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Ⅰ.A. 神の自己表現
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天地創造は、無(む)から有(ゆう)を造り出す、神の栄光と力の表現であり、それを治めて持続(じぞく)させるという、権威の表現であったことは明らかです。神がお造りになった天と地は美しく、すべて完全な秩序のなかにありました。(創世記1:1-31) 天と地は、美しく善良な神の性質を具体的に表現したもの、神の自己表現だったからです。
Ⅰ.B. 神に似せられて造られた人間
神の自己表現の中で、とくにきわ立っているのは、人間の創造です。
驚くべきことに、人間は神の姿にかたどって造られたのです。もちろん、これは神に手足があるということではありません。人間は、霊的(れいてき)な存在者(そんざいしゃ)である神に似せて、霊的な存在として造られたということです。
たんに、犬や猫のように、生まれ、食べ、繁殖し、死ぬ、動物的な体と命だけではなく、神と交(まじ)わることができるように、神と同じ性質の霊を与えられて造られたのです。そのため、すべての動物の中で、人間だけが、神を礼拝したいという心、祈りたいという気持を、本能として持っているのです。
そういうわけで人間は、たとえ、どんなに進んだ文明の中に住んでいても、未開の世界に生きていても、すべて、例外なく宗教を持っているのです。 (創世記1:26-27、2:7)
Ⅰ.C. 神の愛の対象として造られた人間
人間が、神と心の交流を持てるように、神に似せて造られているのは、人間が神の愛の対象であることを示しています。神は始めから変わりなく、愛の神です(Ⅰヨハネ4:8)。
その愛を豊かに表現するために、ご自分と同じ姿の人間をお造りになったのです。ですから、人間は始めから神を礼拝し、神と交わり、神を賛美し、神に感謝をし、祈りをささげるものとして造られています。またそのようにするとき、人間は神の豊かな愛と祝福を感じて、生きる喜びと平安、満足と充実を味わうことができるように、造られているのです。人間はおいしいものを食べ、美しいものを着、立派な家に住み、やさしい家族を持つだけでは、決して満足できません。神の愛の対象として造られているため、神の愛が感じられなくては、心に空白ができてしまうのです。神の支配は、ただ物理的な力による支配だけではなく、愛の力による支配でもあるのです。
Ⅰ.D. 善悪を選ぶ試み
神が人間をお造りになったとき、どうして、罪を犯さない人間にしなかったのですかとたずねる人がいます。たしかに神は、善悪を選択することができる自由意思を持つものとして、人間をお造りになりになりました。自由意思を持っていない存在は神に似たものではなく、単なるロボットです。
とくに、善悪の問題に関して言えば、始めから、善以外は選ぶことができないように、造られてしまったとするならば、その善は真の善ではありません。善と悪のふたつがあって、どちらでも選ぶことができるという中で、善を選んでこそ、初めて善となるのです。ですから、自由意思を持った人間は、「欠陥製品」ではなく、最高作品でした。また、神が人間にお与えになった善悪選択の試みは、人間が真に神に似た霊的な存在として、完成されるためには、絶対になくてはならない条件だったのです。(創世記3:1-24)
Ⅰ.E. 人間の失敗
真(しん)に霊的な存在として、善と悪の選択ができるように造られた人間は、悪魔の誘惑に負け、神の戒(いまし)めに逆らうという、間違った道を選んでしまいました。ここから、人間を取り巻くあらゆる問題が始まったのです。(創世記3:1-7)