ちいちゃんのひとりごと

ちいちゃんのひとりごとを勝手気ままに書いています。

2022年01月08日 | 介護
小学生の頃の最初の夢はコロムビアレコードから歌手になることだった。
ところが自分がブスだとわかると、歌手をあきらめた。
それでもどこかで歌を歌いたいとバスガイドになりたいと思ったら、今度は音痴だとわかってそれもあきらめた。
中学生になったら物書きになりたいと思った。
高校を卒業する時には和裁の専門学校に行きたいと思った。
親の反対にあい、泣く泣く就職をした。
その後プロの作詞家になりたいと思ったが、これも親の反対にあった。
ことごとくやりたいことは親に反対され、管理された生活を余儀なくされた。
カルチャースクールと言うものが始まったころで、テキスタイルの織物を習いたいと思ったがこれも反対にあい、三味線教室も反対にあった。
かろうじてクッキングスクールに1年間通い、大手の着付け教室にも通うも、すぐに手結びは教えてくれず、道具ばかりを買わされ、自宅にあるものを持参すればそれとなく遠回しに文句を言われる始末でした。
また、着物の展示会や帯の展示会などもあり、この着付け教室はどこかの呉服屋と結託しているんだなと?
着物をきれいに自分で着たいと言うだけなのだ。
着付け教室をやりたいと言う願望は無いのだ。
3か月通ってやめた。
その後仕方なく家の近所の自動車教習所の話をしたらこちらはすんなり行ってもいいと言われて行ったが、はなから車の免許が欲しかったわけではないので、すぐにやめた。
ことごとく習い事は反対され、普段の生活も管理され、実家にいることは嫌なので結婚したらいいと思い、お見合いをいくつかした。
結婚は逃げ道だった。
ところが結婚して10年目に70歳になった母が働けないと母と同居することになったのだ。
同居したら元の木阿弥だった。
夫婦の会話に口をはさむ。
夫婦が寝るまで寝ない。
出掛ける先を聞いてくる。
どこへ行く。
何しに行く。
何時に帰る。
何を食べた。
いやあ、私は子供の頃から芸能人が好きで、好きな歌手のコンサートや舞台に行くと母に怒られた。
とうとう40代の終わりに更年期からの心療内科に通うようになって現在に至っている。
原因は母との同居に他ならない。
その後3年ちょっと前に母は認知症になったのだ。
2度の手首の骨折や不整脈からの洞不全症候群からペースメーカーを去年埋め込んだ。
我儘で自分の意見は曲げない性格です。
認知症は一長一短です。
良い日もあれば悪い日もあります。
娘の家に21年近く世話になっておきながら感謝の気持ちはないようです。
それよりも自分が娘を32年間も育ててやったと言い張ります。
私は産んでくれたこと以外は感謝していません。
今度生まれ変わったら私は母に反対されても自分のやりたいことをやり、行きたい道を歩みたいと思います。
和裁の専門学校に行き、自分で働いたお金で自分の好きな芸能人に自分で着物を縫ってプレゼントする。
もしも着物の仕立屋なら結婚できなくても仕事があれば生活は出来そうですね。
と言うわけで、お裁縫は苦手です。
母は洋裁も和裁も少しは出来るんですよ。
洋裁は若い頃に専門学校の速成科に6か月通っていたそうです。
和裁は知り合いの盲人のおばあちゃんが目の見えていたころに和裁の先生をしていたそうなので、おばあちゃんから習ったようです。
子供の頃は私のワンピースを作ってくれたことがあります。
浴衣や単衣のウールの着物も縫ってくれました。
半纏も掻い巻きも作ってくれました。
でも、編み物は出来ないんですよ。

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