改めましてこんちゃんです😊
何故か急にぺろ氏に乗っ取られてしまいました😅
気を取り直して、後三年合戦金沢資料館を出た所から続けましょう😌
後三年合戦の決戦場となった金沢柵の場所は、金澤八幡宮のある金沢城と言い伝えられてきましたが、特定には至っていないそうです😌
ここ、後三年合戦金沢資料館の背後にある陣館遺跡で、金沢地区で初めて後三年合戦と同時代のものが確認されたそうです😌
しかし金沢柵としては面積が狭いことや金沢柵の館部分が確認されないことから、清原氏に関わる遺跡として「大鳥井山遺跡附陣跡遺跡」という名称で平成29年に追加指定(国指定史跡)となったそうです😌
後三年合戦金沢資料館から、金沢柵と伝えられてきた金沢城跡本丸の下にある駐車場まで登ってきました😊 ここは中世金沢城で14世紀後半から15世紀中頃の南部氏の時代と15世紀中頃から16世紀の小野寺氏の時代の2時期が主たる時期であったそうです😌
現在見ることができる遺構は小野寺氏の金沢城跡なんですね😊
とゆうことで、今回は後三年合戦の決戦場となった金沢柵としてではなく、中世金沢城跡のお城めぐりになるようです😌
では始めましょう😊
第93回こんちゃんのお城めぐり「金沢城跡」です😊二の丸にある金澤八幡宮へと登ってゆく参道の階段の脇に納豆発祥の地の石碑がありました😊
それによると後三年合戦の折り、農民に煮豆を俵に詰めて供出させた所、数日をへて香を放ち糸を引くようになった、これに驚き食べてみたところ意外においしかったので食用とした。農民もこれを知り自らも作り後世に伝えたという…らしいです😌
そうですか、後三年合戦の時に偶然納豆ができたのですか😊
知りませんでした😌
それではまずは二の丸にある金澤八幡宮へ向かって参道を登ってゆきましょう😊
ワタシがご案内します❗タッタッタッ🐾
二の丸にきました😊
二ノ丸址と書かれた石碑が建っていました😊
少し戻って鳥居の手前にあった兜杉です😊
八幡太郎義家が凱旋のとき、愛用の兜を埋めて石をその上に置き、そばに記念のため藤原清衡が植えた杉ともいわれていたそうです😌
樹高約26m、樹齢およそ900年とも伝えられていましたが、昭和58年に焼失してしまったそうです😞
鳥居の奥の二の丸に金澤八幡宮の御本殿があります😊
寛治7年(1093年)、後三年合戦(1083~1087年)の後に源義家の命をうけた藤原(清原)清衡によって石清水八幡宮の神霊を勧請して建立されたそうです😌
江戸時代には義家の弟である源義光の末裔である佐竹氏が秋田藩主となったため厚く信仰されたそうです😊
佐竹氏が末裔でしたか😲
歴史ってすごいです❗
それでは金澤八幡宮へお参りしてから本丸に向かいましょう😊
二の丸から本丸に向かう途中に兵糧倉址がありました😊
金沢柵の米倉址と思われ後三年合戦の兵火により炭化した焼き米が土中から出てきているそうです😌
兵糧倉址から右手を回って本丸址に着きました😊
南部氏時代は本丸を中心とし、南の西の丸(安本館)が正面だったとみられているそうです😌
小野寺氏時代には南の郭に手をつけず、北側の郭を重点的に改変していることから、北に対する防御が強化されたことを意味し、城は南向きから北向きに変化したと考えられるそうです😌
本丸から先に道がありました😊
金洗清水という、柵の用水として汲んだところといわれている場所のようです😌
沢に下りてゆく道の途中から尾根筋に行けて堀切を見ることができました😊
さらに先にも堀切があり、まだまだ先がありそうでしたが、下って行ってしまうので途中で引き返しました😌
兵糧倉址まで戻り今度は北の丸へ行ってみます😌
北の丸です😊
地図によると、この郭の回りにも段々にいくつもの郭があるようでした😌
二の丸と北の丸の間のこの道も
堀切だったようです😌駐車場まで戻って道路の反対側に広がる西の丸に行ってみることにします😊
入口に西ノ丸址通路とゆう石碑が建っていました😌
西の丸は南部氏時代の地形が残っているそうです😌
今回の金沢城跡はミルフィーユのように感じるお城でした😊
現在残っているのは小野寺氏の金沢城跡でしたが、南部氏時代の金沢城跡もありますし、いつか確定されて後三年合戦の決戦場金沢柵でもあるようになるかもしれません😌
さらに、ここで戦った源義光の末裔の佐竹氏が秋田藩主になったりして時の流れを感じる不思議なお城でした😌
それではまたどこかのお城でお会いしましょう😌
こんちゃんがお送りしました😊