中学校の「文集」に提出した、切ない話。
遥か昔の話ですが、いまだに心にこびり付いて離れない出来事です。

小学校6年生のとき、
我が家に 仔犬 が、やって来ました。
新しもの好きな父親が連れて帰って来たのです。
まだ コロコロしていて 小さな 坂上二郎 という感じです。
小6《ちっぷ》と、小2《でーる》の兄弟が夢中になるのは至極当然のことでした。
その子犬は兄弟2人によって ジロウ と名付けられました。
(名前の由来は書く必要もありませんね)

イメージです
ジロウは秋田犬でした、一応。 (by 父の解説)
たしかに脚が異常に太く、近いうちの成長を予感させるものがありました。
性格は大人しく、常に周囲の人間に気を遣っているかのような犬でした。
1年近くが経ち、ジロウは誰が見ても立派な成犬になりました。
そうです、 もはや彼を「ジロウ」とは呼べなくなってきました。

あくまでイメージです
私が考えた新しい名前、 それは - レオ - でした。
その頃は もう彼を散歩させるのさえ ひと仕事でした

私が中1のとき、 父が単身赴任で1年間 家を空けることになりました。
三原市糸崎町の家は、 母・私・弟・そして、レオが守っていたのです。
あれは、 土曜日の夕方のこと。
「ちっぷ! レオを散歩に連れて行ってやって!!」
母が怒鳴っていましたが、私は洋樂ラジオに夢中で「無視」してしまったのです。
弟は学校の行事で不在だったので、 結局 レオの散歩には母が同行しました。
悲劇が待っていました。
三原・糸崎町にある我が家は 国道2号線の道路沿いに建っていました。
そして、家の裏は 20m下りると すぐに山陽本線が走っていました。
考えれば誰でもわかるとおり、犬を飼うには余りにも危険な環境だったのです。
母は手首にリードを何重も巻き付けて注意していたのですが
レオはリードを振りきって疾走し、 山陽本線の特急電車に激突しました。
母は真っ青になって駆け寄ったけれど、、、 即死でした。
午後6時頃、 母と私は、レオのために国鉄の敷地に穴を掘り、
彼は永眠しました。
涙 涙 また涙の悲しい別れでした。

中2の1学期、
全員提出作文の宿題があり、 私は レオ の顛末を書きました。
それが国語教諭の目に留まり、市内の各校・各学年から1名ずつ選ばれる
「三原のこどもたち」という冊子に掲載されました。
そして、さらに その中から 私と三原第二中学校の女子が、 ”Debate” を
することになったのです。
(彼女も私同様に「犬の死」をテーマに書いていました)
普段から成績不良(88位/96人)の私。
一体 どうなるんじゃろうか‥。
しかし、附属中の超優等生4名が加わり Debateは無事に終了しました。
「ちっぷくんの倒置法の連続技がいかに効果的か‥」
なんとなく ひとり 置いて行かれたような気がしました。
やがて、父の再転勤が決まり
ちっぷ家は県西部の五日市町(現広島市)に転居することになりました。
三原の附属中時代を振り返るにつけ、
成績優先の校風(特に先生たち)が、嫌でたまらない思いです。
五日市に転校後は、成績がBEST⑩/110名に入り、
私は、ますます洋樂ラジオに没頭するようになりました。
国語教諭、 Debateのメンバー、、
もちろん 私の成績上昇とは何の関係もありません。
ただ レオ LEO だけは
いつも 守っていてくれた と 今も思わずにいられません。
学校から帰る度、 優しく尻尾を振ってくれたレオ。
私の成績不振なんか、ちっとも気にするなって言ってくれてたようで、
レオには心から感謝しています。
ありがとう レオ
私も もうじき 逝くからね。。
最初から最後までメンバーだった OとKに捧ぐ。
恥ずかしながらも、 俺たちの輝ける青春の記憶。
遥か彼方に消え去った ‥ まるで あの 『ひき潮』 のように。
昭和52年、 学生寮、
O(Vo、G)、Ⅰ(G)、K(B)、K(Sax)、M(Sax)そして ちっぷ(Dr)の6人は
狭い一室で バンド結成の契りを交わしていた。
格好いいステージをみんなに魅せつけてやろうぜ!
(一体どこから この自信は来ているんだ??)
だけど、、 肝心の「何をやるか」は まだ決まっていなかった。

いや、
正確に言えば、 メンバー中 4人は 当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった
矢沢永吉 コピーバンドに、決めていた。




俺と、ベースのKは 「ロックンロールなんて女の子にもてないじゃーん」 と
かなり否定的だったのだが、 最終的には 多数決 が決め手となった。
なんと民主的なスタイル… (トホホ

そして 記念すべきバンド名は、 「できんBOY」。。。
まぁ、 このバンド名はすぐに改名され、 「矢沢一家」 となったけどね。
3年弱の活動期間で、 合計十数回のステージしかやらなかった。
けれど、 各ステージでコンセプト、曲の内容、曲順などが全く変わってくるので、
起きてる時間の大半を 矢沢一家 に注いでいた。
そのせいか、 6人の内 4人が

印象的だったのは、俺が大風邪をひいているにも関わらず、
普通にバンド練習に連れて行かれたこと。
VocalのOが、鬼畜 に見えた瞬間だった。
メンバー全員で矢沢永吉のドキュメント・シネマを観に行ったりもしたな。。
広島の某有名ホテルから、『X'mas-concert』の誘いもあった。。
ラスト・ステージは、ブラス・セクションを増やしたり、
ツインドラムにしたりして、 メンバーは10人を超えていた。
俺たちは上手かったよな!


矢沢一家 それは青春そのものだった!






二度と戻れないから、青春と呼ぶんだろう?
俺の夢だった 『”年寄り矢沢一家” を 再び』は、 儚い幻となったけど、
青春は俺たちの心にある、、 いつまでも。
SANAEちゃん。
三原附属中から五日市町に転校して来た私に
最初にアプローチしてきた女の子。
当時の私は Mちゃんというピアノが弾ける同級生に夢中で、
SANAEちゃんのことを異性として意識することはなかった。
それでも隣のクラスから遊びに来ては ちっぷくん、ちっぷくんと連呼する姿は
いつしか心の中に刻み込まれていった。
中3になってのクラス替え。
私とSANAEちゃんは級友になった。
ついでに Mちゃんも同じクラス。
あゝ ちっぷくん どうする ???
(どうもしねーよ

級友たちは皆 ちっぷとSANAEちゃんが交際してると思っていた。
SANAEちゃんは 事ある毎に私の周りをウロチョロしてたし、
私も(なぜか)彼女の頭を撫でて可愛がっていたから。

も ち ろ ん イ メ ー ジ
中学校を卒業してからは
ちっぷ → 商船高専(当時、男子校)
SANAEちゃん → H高(なかなかの進学校)
と、 進路も当然別々になったけど、
伊勢正三 や、 イルカ のコンサートをふたりで観に行ったり、
私の属するバンドのステージを彼女が観に来たりしてた。
しかし、 結局 14歳の夏から23歳の夏までの
9年に及ぶ、子どものような『恋愛ごっこ』は、 終わりを遂げた。
詳細は、 迷作『流川の枕』 を、ご覧ください。
9年。
ほんとは そうじゃないんだ。
今でもまだ引きずっているから、 40年 が正解だ。
男って弱いね。
男ってダメだね‥。