家父長制権威が死滅するということは、掟の定立者とその逸脱者に対する制裁の担い手としての観念的な家父長が死滅するということになる。
掟の逸脱行為の抑止は「逸脱行為に対する制裁>逸脱行為から得る利益」という不等式が成り立つ場合のみに成り立つ。
制裁の担い手が否定されたら、これは制裁のない恐るべき世界の誕生を意味し、一定の歯止めがきいた刑罰ではなく、情け容赦のないリンチが横行する世界となる。
それは明文化した秩序に治められる法治国家ではなく、何が逸脱行為なのか全く知るよしもない、あやふやなものでリンチを受ける恐るべき世界である。
これらの世界は本当に恐ろしい世界である。
誰が言った言葉かは知らないが、批判されたカリスマは、もはやカリスマではない。という言葉がある。
家庭におけるカリスマの担い手として家父長が存在し、国家におけるカリスマの担い手として皇室や皇族の方々がおられるわけである。
カリスマの冒涜は、アノミー(無秩序)への恐るべき下りエレベーターである。
そのことを声に出していいたい。
話は飛ぶが、心因性のメンタル疾患は、かならず患者が信じるカリスマや秩序に対する信念の揺らぎや崩壊がつきものである。
治療者が信じていないカリスマや秩序の信念を患者に受容させることは、治療ではなく偽善である。
せいぜい、その時代の掟に近似した信念体系の再構築の援助しかできないのかなあと、私は思った。
そんなわけである。
以上、管内お茶の水でいけもと。