釈迦が言っている。
生老病死を筆頭とする四苦八苦からは、どんな生き物でも逃れることはできないと。
ってことは、成仏したお釈迦様でさえ、生老病死を筆頭とする四苦八苦からは逃れられない。
それにお釈迦様は成仏した後、難に遭った。
それが俗に言う、九横の大難である。
これが事実なら、なぜ仏の法を聞いて人が幸せになれるのか?
修行して成仏したって、難は逃れられないし、苦しみからは逃れられない。
一体なんじゃ、それってことになる。
が、仏教はまだましだ。
オルフェウス教を母体とする宗教のように、死後の冥福や受苦を説かないからだ。
これはいけもとの想像であるが、おそらく浄土教は、東に伝わったオルフェウス教が母体になっている。
つまり、オルフェウス教、いやさ、キリスト教と仏教の合いの子だ。
さらにいえば、東方浄瑠璃世界の教主、薬師如来だって、あれもキリスト教と仏教の合いの子だろう。
薬師十二神将を、キリスト教の十二人の使徒だと考えれば、数はぴったりと合う。
さらにいえば、キリスト教徒の悪霊追い出しと病気治しを、精神科と身体科の疾患治療と投薬だと考えれば、スムーズに意味が通る。
おそらく薬師を怨敵と狙う魔は、病気治しのお株を奪われた、地元の治療神を氏神とする、呪術医たちや、彼らの雇ったヒットマンだと考えれば、意味は通る。
話は盛大にずれたが、成仏したって四苦八苦からは逃れられず、難からは逃れられないとわかったら、いかに宗教がでたらめかよくわかる。
すなわち宗教のメリットは、社会的に疎外された連中のコミュニティであり、そんな連中を搾取してうまい汁を吸う教団幹部や、死後の冥福を説いて、反社会的行動に駆り立てる一部の野心家のみであるといえよう。
なんだかんだいってるが、大なり小なり変化はするが、宗教なんてものはこんなものである。
と、いけもとの体験がこんな文を書かせた。
以上、いけもと。