昨年後半には個人の外面も内面もレームダックになっていた人が首相を続けている国で大災害が起きるとどういうことになるかを日本は今経験しているのですが、もっともその前とその前は更に質の悪い神輿とその担ぎ手達が重大な出来事がある度「日本」の崩壊を様々な形で加速してくれたわけで。それを考えれば事態はまだリニアに進行していると言えるのかもしれません。沢山の人達が「この先行ったら崖から落ちるからやめてくれ!」と叫ぶ時間があるのですから。お腹が痛いので今日はこれくらいで…
「認知世界の物質世界への侵食・融合・重ね合わせを描いた作品」といえば、アニメの『Re:CREATORS』もそうでした。アメコミのフランチャイズ映画みたいにキャラクターが多いのですが、良質な正統派のSF作品です。しっかり描くべきことを描いて、ダラダラ続かない、しっかり終わったところもいい。音楽も澤野弘之氏が「ぴったりはまった」仕事をしています。オタクの痛い所を突いたストーリーなので、作品の出来など関係ない所で嫌われて(憎まれて?)、あのパッケージから当然期待された盛り上がりは得られなかったようですが。まあ近年アニメで大きな話題になっているのは、僕が「なぐさめ系」と呼んでいる、(建前はどうあれ)パターン化されて、自意識をささやかに満足させるか、怨念を内に向かって爆発させるようなものばかりのようなので、アニメや(より動的なコンテンツである)ゲームの主流はどんどん生成AI製のものに取って代わられてゆくのでしょうね。
元旦は朝から飲み食いで夕方には大地震があって、もう「体調的に」、PCに向かってもさすがに仕事に気持ちが向かなかった…
さて、最近は現実世界の動きがダイナミック過ぎて、創作世界分野のコンテンツを楽しむときはかなり保守的になってしまっています。で、数年前にアニメ化された『Pet』、の原作漫画をやっと取り寄せて寝る前に楽しんでいました。原作は東洋マフィアの世界を舞台にしたサイキックスリラーとでも言いましょうか、これを少女漫画?でみかける柔らかいタッチで描いた紛れもない傑作なのですが、アニメ版では絵を劇画風に寄せて非常に上手に仕上げたこれまた傑作です。原作よりもよりリアルに見えてしまうので、とっつきにくいと感じる人もいるかと思いますが、OP・EDはじめ音楽、編集のし方もうまくて、特に最終回は原作を知らなかった僕でも感心するレベルでした。
で、この作品では、いわば無意識レベルで彼我の境界が自然に確立できない(放っておくと常に混乱状態になる)問題を抱えるが、それゆえに人間(/生き物)の自我を形作っている記憶を操作できてしまう「潰し屋」と呼ばれる人たちが主人公です。これ、突飛なようですが、個人的には色々成程と思える設定で、今まで自分や他人が苦しんだり傷ついていた色々な出来事が腑に落ちた感じがして、期せずして癒しの様なものが得られた気がしました。もちろん僕は超常現象的な経験はありませんが、経験的に現実感を感じたわけです。
この様な認知世界?の物質世界への侵食・融合・重ね合わせを描いた作品としては、僕は筒井康隆の『だばだば杉』を思い出しましたが、物理学の方では、宇宙とはなんぞや、という話から、「情報」の扱いについてもとても興味深い研究が進んでいるようです。そして僕はAIの研究も、「使える」AGIを期待するより、認知機能から出発して、人間の「内面」の成り立ちと可能性に関する豊かな収穫を期待するし予想します。
さて、最近は現実世界の動きがダイナミック過ぎて、創作世界分野のコンテンツを楽しむときはかなり保守的になってしまっています。で、数年前にアニメ化された『Pet』、の原作漫画をやっと取り寄せて寝る前に楽しんでいました。原作は東洋マフィアの世界を舞台にしたサイキックスリラーとでも言いましょうか、これを少女漫画?でみかける柔らかいタッチで描いた紛れもない傑作なのですが、アニメ版では絵を劇画風に寄せて非常に上手に仕上げたこれまた傑作です。原作よりもよりリアルに見えてしまうので、とっつきにくいと感じる人もいるかと思いますが、OP・EDはじめ音楽、編集のし方もうまくて、特に最終回は原作を知らなかった僕でも感心するレベルでした。
で、この作品では、いわば無意識レベルで彼我の境界が自然に確立できない(放っておくと常に混乱状態になる)問題を抱えるが、それゆえに人間(/生き物)の自我を形作っている記憶を操作できてしまう「潰し屋」と呼ばれる人たちが主人公です。これ、突飛なようですが、個人的には色々成程と思える設定で、今まで自分や他人が苦しんだり傷ついていた色々な出来事が腑に落ちた感じがして、期せずして癒しの様なものが得られた気がしました。もちろん僕は超常現象的な経験はありませんが、経験的に現実感を感じたわけです。
この様な認知世界?の物質世界への侵食・融合・重ね合わせを描いた作品としては、僕は筒井康隆の『だばだば杉』を思い出しましたが、物理学の方では、宇宙とはなんぞや、という話から、「情報」の扱いについてもとても興味深い研究が進んでいるようです。そして僕はAIの研究も、「使える」AGIを期待するより、認知機能から出発して、人間の「内面」の成り立ちと可能性に関する豊かな収穫を期待するし予想します。
21世紀に入ってから、今回の #イスラエル による #ガザ侵攻 時と同じような「動き」が所謂西側諸国で起こった出来事がある。それは「#ウォールストリートを占拠せよ(#occupywallstreet)」運動だ。あの時どんな連中がどんな反応をし、何が起こったか。つまり同じプレイヤー、同じ利害、同じ「問題」。
https://twitter.com/maxthaler/status/1739474569956864257
https://twitter.com/maxthaler/status/1739474569956864257
導入を書いてから半年空いてしまいましたが…
Open AIのCEOの追放&復帰事件の原因は、結局AI開発に関してイケイケ(効果的加速主義(e/acc))のアルトマンに対して幹部達が危険を覚えたから、というのがやはり真相らしいとBusiness Insiderなどでポロポロ報じられ始めました。まあこうなると研究開発担当が殆どの一般社員は、e/accのカリスマであるアルトマン側につくわけで、「アルトマンがマイクロソフトに行くならみんなついてきます!」と言い出し、元の鞘に戻ったところで良識派(効果的利他主義(Effective Altruism:EA))の幹部を追い出して決着、となったようです。
さて、連日のように目を見張るようなAI関連の研究成果がアナウンスされていますが、(1)いかにAIを人間の脳の機能(/能力)に近づけるか、という目標以外に、(2)人間(の脳)はいかにして人間(の脳)たりえているのか、の解明も「必然的に」進むことになり、余計に注目を集めています。
AIの能力向上方法については大雑把に言って、(1)よりパワフル(/大規模)なシステムの構築(2)より洗練された仕組みの開発(3)より効果的な対話方法の研究、そして(4)より効果的な学習のさせ方、があると思います。僕が特に興味がある、というか「本命」と考えているのが、(4)より効果的な学習のさせ方 なのですが、所謂マルチモーダルでも、単に複数の入力形式やその組み合わせを論じる前に、AIの成長段階に合わせて、学習データの形式や抽象度、強度を変えてゆくことが必要なのではと思います。つまり、人間の成長プロセスをなぞる、人間の様に育てるという事です。
そうやってとにかく所謂AGIに近づいてゆこう、更により凄いものをつくろう、というのがe/accに限らず多くのAI研究者や開発者、そして企業家たちの姿勢なわけですが、このシリーズで前にも書いた通り、万能になるほどエネルギー効率や精度、処理速度は落ちてゆくでしょう。丁度執筆している今日、『人工培養脳をチップに融合させ「ひらめき」で考えるバイオAIを開発!』という記事が出ましたが、エネルギーやコスト効率、そしてたぶん拡張性も考えると最終的にこれがAGI用システムの最適解になると思います。(これを完全な人工知能と呼んでいいのかとか、倫理的にどうなの?といった問題はありますが。)
で、どんな形態にせよAGIらしきものができたとして、例えば「神」として無垢で疲れを知らぬ優秀な指導者や何らかのディシジョンメーカーになれるのか?
ここで問題になるのはやはり「育ち」、つまり何をどのように学んできたか、それを誰が使い、誰が評価する/恩恵を受けるか、です。
もうわかったでしょう。人間は人間以上の知性を「つくれない」し、評価できません。将棋やネット対戦ゲームが強いかどうかぐらいはわかりますが。
もっと色々書くことあった気がしますが、眠くなってきたので今回はこれくらいで。そしてとりあえず〆としてもう一度。「AI について「知りたい」なら、『翠星のガルガンティア』を観ときなさい。」
Open AIのCEOの追放&復帰事件の原因は、結局AI開発に関してイケイケ(効果的加速主義(e/acc))のアルトマンに対して幹部達が危険を覚えたから、というのがやはり真相らしいとBusiness Insiderなどでポロポロ報じられ始めました。まあこうなると研究開発担当が殆どの一般社員は、e/accのカリスマであるアルトマン側につくわけで、「アルトマンがマイクロソフトに行くならみんなついてきます!」と言い出し、元の鞘に戻ったところで良識派(効果的利他主義(Effective Altruism:EA))の幹部を追い出して決着、となったようです。
さて、連日のように目を見張るようなAI関連の研究成果がアナウンスされていますが、(1)いかにAIを人間の脳の機能(/能力)に近づけるか、という目標以外に、(2)人間(の脳)はいかにして人間(の脳)たりえているのか、の解明も「必然的に」進むことになり、余計に注目を集めています。
AIの能力向上方法については大雑把に言って、(1)よりパワフル(/大規模)なシステムの構築(2)より洗練された仕組みの開発(3)より効果的な対話方法の研究、そして(4)より効果的な学習のさせ方、があると思います。僕が特に興味がある、というか「本命」と考えているのが、(4)より効果的な学習のさせ方 なのですが、所謂マルチモーダルでも、単に複数の入力形式やその組み合わせを論じる前に、AIの成長段階に合わせて、学習データの形式や抽象度、強度を変えてゆくことが必要なのではと思います。つまり、人間の成長プロセスをなぞる、人間の様に育てるという事です。
そうやってとにかく所謂AGIに近づいてゆこう、更により凄いものをつくろう、というのがe/accに限らず多くのAI研究者や開発者、そして企業家たちの姿勢なわけですが、このシリーズで前にも書いた通り、万能になるほどエネルギー効率や精度、処理速度は落ちてゆくでしょう。丁度執筆している今日、『人工培養脳をチップに融合させ「ひらめき」で考えるバイオAIを開発!』という記事が出ましたが、エネルギーやコスト効率、そしてたぶん拡張性も考えると最終的にこれがAGI用システムの最適解になると思います。(これを完全な人工知能と呼んでいいのかとか、倫理的にどうなの?といった問題はありますが。)
で、どんな形態にせよAGIらしきものができたとして、例えば「神」として無垢で疲れを知らぬ優秀な指導者や何らかのディシジョンメーカーになれるのか?
ここで問題になるのはやはり「育ち」、つまり何をどのように学んできたか、それを誰が使い、誰が評価する/恩恵を受けるか、です。
もうわかったでしょう。人間は人間以上の知性を「つくれない」し、評価できません。将棋やネット対戦ゲームが強いかどうかぐらいはわかりますが。
もっと色々書くことあった気がしますが、眠くなってきたので今回はこれくらいで。そしてとりあえず〆としてもう一度。「AI について「知りたい」なら、『翠星のガルガンティア』を観ときなさい。」
仲間たちの献身とか、最後まで諦めないこととか、独りになってしまったと思っても決して独りではない、とか胸打たれる場面は色々あるんだけど。
最近のアニメをピックアップしてみて寝る前に観てみるんだが、単調なものばかりになってきている事に、この回を観て改めて気づかされたわけです。ジャンル問わず、「このアニメはこんな感じ」となったら終始変わらない。勿論Dr. Stoneも典型的な?ジャンプ的キャラクターのつくりをはじめ、「いまどきの視聴者に嫌われない」ための類型化された要素を持ってはいるのですが、この回ではそれを超えたものをちゃんと見せていると思うのです。
スポーツの様にルールに縛られた状況だからこそ成り立つ品質の高さやドラマチックな状況、美術や音楽がみせてくれる触感、構築や言語的な美しさ、とは違う、物語独特の「揺さぶり方」や奥行きが、発表される作品からどんどんなくなって平板になっていませんか?人々が「それ」を避けたがる様になっている傾向が如何に今が辛い時代かを示しているとは思うけれど、それに物語を表現する側(と表現の受け手側)が抗わないと本当に「死んでしまう」、と思うのです。
最近のアニメをピックアップしてみて寝る前に観てみるんだが、単調なものばかりになってきている事に、この回を観て改めて気づかされたわけです。ジャンル問わず、「このアニメはこんな感じ」となったら終始変わらない。勿論Dr. Stoneも典型的な?ジャンプ的キャラクターのつくりをはじめ、「いまどきの視聴者に嫌われない」ための類型化された要素を持ってはいるのですが、この回ではそれを超えたものをちゃんと見せていると思うのです。
スポーツの様にルールに縛られた状況だからこそ成り立つ品質の高さやドラマチックな状況、美術や音楽がみせてくれる触感、構築や言語的な美しさ、とは違う、物語独特の「揺さぶり方」や奥行きが、発表される作品からどんどんなくなって平板になっていませんか?人々が「それ」を避けたがる様になっている傾向が如何に今が辛い時代かを示しているとは思うけれど、それに物語を表現する側(と表現の受け手側)が抗わないと本当に「死んでしまう」、と思うのです。
『Let it be』の次に弾くと高確率で笑いがこみ上げる英国のロックアンセムなんですが、いろんな時に歌われているようなので歌詞を読んでみる。と、(よくわからん箇所の関連エピソードなんかも読むと)「おとなになること/おとなになってゆくこと」について書かれた歌なんですね。まあ宗教的にも「怒り」に敏感なお国で書かれたことから彼の地での反応と、サビの箇所に反応する方々の受け取り方もまた違うのでしょうが。
夕飯を食べながらHuluでまた公開した『翠星のガルガンティア』の 「第4話 追憶の笛」を観ていたら不覚にもちょっと泣きそうになってしまいました。今まで何度も観てきた作品であり、その中でもそれ程インパクトの強い回とは思っていなかったのですが。
この「追憶の笛」は今、ジェネレーティブAI(ジェネラティブAI)とロボティクスの急速な進化によって引き起こされている問題・課題、そして世界中の沢山の人々が感じている戸惑いや不安、を見事に表現しています。
『翠星のガルガンティア』はちょうど10年前に放映されたSFアニメで、僕は既にこの作品をいわば「歴史的視点でのAIの意義」という切り口で『今日のひとこと: Microsoftはチェインバーを目指せ』という文章で取り上げています。が、この作品のテーマの一つは実はより具体的な(?)「若者とお仕事」であり、「追憶の笛」は2023年6月現在に観ると、恐ろしいほどのリアリティ、生々しさを感じさせます。そしてその分、ヒロインであるエイミーの弟ベベルが主人公レドとの対話で語った内容がより深く胸に刺さります。
」
この「追憶の笛」は今、ジェネレーティブAI(ジェネラティブAI)とロボティクスの急速な進化によって引き起こされている問題・課題、そして世界中の沢山の人々が感じている戸惑いや不安、を見事に表現しています。
『翠星のガルガンティア』はちょうど10年前に放映されたSFアニメで、僕は既にこの作品をいわば「歴史的視点でのAIの意義」という切り口で『今日のひとこと: Microsoftはチェインバーを目指せ』という文章で取り上げています。が、この作品のテーマの一つは実はより具体的な(?)「若者とお仕事」であり、「追憶の笛」は2023年6月現在に観ると、恐ろしいほどのリアリティ、生々しさを感じさせます。そしてその分、ヒロインであるエイミーの弟ベベルが主人公レドとの対話で語った内容がより深く胸に刺さります。
」
映画は死なない。でも、我々が夢中になってきた ハリウッド映画はもう存在しない。「ハリウッド映画の終焉」著者・宇野維正、1万字インタビュー(MOVIE WALKER PRESS)
もうとうの昔にハリウッド映画云々どころか、映画館に行くことも殆どなくなった人間としては、普段読まない類の記事なのですが…
どんくさい僕が最初に決定的な違和感を感じたのはやはり『ダークナイト』(日本公開は2008年夏)です。米国の住宅ローンバブル崩壊と同時期に日本公開された、バットマンのリブート映画ですが、911、イラク侵攻等から結構経ったあの時期に、流行りの(何故か今もまだ流行っている)マットでダークな絵柄で「正義の味方のアメリカは悩んでいます」と。僕が国内の評論家さん達に煽られて恵比寿まで観に行ったら、やっていたのは高そうなスーツ着た白人中年が小学校の教壇で延々自慰行為見せる様な作品だったわけです。それでも当時日本で「今時こんな勘違い映画」と批判したのは、某経済学者ぐらいだったでしょうか。この方リフレ推進派なので本業の方は評価できませんが、この評価は的を射ていましたね。
米国のヒーロー物映画は、2年後の『スーパー!(Super)』によって正しいコンテクスト的には完結、終焉を迎えるわけですが、そんな事には関係なく、金かけてキラキラの、「ユニバーサル市場」向けにマーケティングされた娯楽(?)作品群は、ポップコーンや綿あめよりも徹底的に空虚でありながら圧倒的な資本と経済効率により、完全に「公開された金融商品としての映画市場」を完成させてしまいました。そして一旦オープンな金融市場としての「映画市場」がNASDAQの様に動き出せば、ファンコミュニティを含む映画市場が株式市場の様な特性を持ってゆくのは当然なわけです。
映画製作の主役が巨大資本のストリーミング事業者に代わり、コンテンツの主力も単発の映画から連続ドラマに代わってゆくにしても、(「ハリウッド取引所」の様な)グローバルにオープンな市場と、そこで高収益を狙う作品/金融商品である以上、「そこの状況」は変わらないでしょう。
一方で、いわばハリウッドを空洞化した一因でもあるテクノロジーは、個人レベルで高品質・大規模な映像作品をつくることをますます容易にしています。現代の共同幻想のふるさととして、テレビ同様映画を懐かしむようになり、知性の劣化スパイラルを加速し続けるマスメディアやSNSでの「経済効率」を狙った悲惨なコンテンツが圧倒する状況であっても、テクノロジーが可能にする「分散化・自動化・アーカイブ化」はギョーカイに背を向ける者たちがつくる「本当の次の時代」の道をしっかり舗装し続けています。
所謂既存の商業映像作品の中心的なテーマが「明確なプロパガンダ」になる時代が近づいていますが、次に来るだろう決定的に悲惨な時代をより深刻にするのも、逆に今までの例と違うものにするのも、「映画」同様テクノロジーであり、「本当にタフな連中」なのだと思います。
もうとうの昔にハリウッド映画云々どころか、映画館に行くことも殆どなくなった人間としては、普段読まない類の記事なのですが…
どんくさい僕が最初に決定的な違和感を感じたのはやはり『ダークナイト』(日本公開は2008年夏)です。米国の住宅ローンバブル崩壊と同時期に日本公開された、バットマンのリブート映画ですが、911、イラク侵攻等から結構経ったあの時期に、流行りの(何故か今もまだ流行っている)マットでダークな絵柄で「正義の味方のアメリカは悩んでいます」と。僕が国内の評論家さん達に煽られて恵比寿まで観に行ったら、やっていたのは高そうなスーツ着た白人中年が小学校の教壇で延々自慰行為見せる様な作品だったわけです。それでも当時日本で「今時こんな勘違い映画」と批判したのは、某経済学者ぐらいだったでしょうか。この方リフレ推進派なので本業の方は評価できませんが、この評価は的を射ていましたね。
米国のヒーロー物映画は、2年後の『スーパー!(Super)』によって正しいコンテクスト的には完結、終焉を迎えるわけですが、そんな事には関係なく、金かけてキラキラの、「ユニバーサル市場」向けにマーケティングされた娯楽(?)作品群は、ポップコーンや綿あめよりも徹底的に空虚でありながら圧倒的な資本と経済効率により、完全に「公開された金融商品としての映画市場」を完成させてしまいました。そして一旦オープンな金融市場としての「映画市場」がNASDAQの様に動き出せば、ファンコミュニティを含む映画市場が株式市場の様な特性を持ってゆくのは当然なわけです。
映画製作の主役が巨大資本のストリーミング事業者に代わり、コンテンツの主力も単発の映画から連続ドラマに代わってゆくにしても、(「ハリウッド取引所」の様な)グローバルにオープンな市場と、そこで高収益を狙う作品/金融商品である以上、「そこの状況」は変わらないでしょう。
一方で、いわばハリウッドを空洞化した一因でもあるテクノロジーは、個人レベルで高品質・大規模な映像作品をつくることをますます容易にしています。現代の共同幻想のふるさととして、テレビ同様映画を懐かしむようになり、知性の劣化スパイラルを加速し続けるマスメディアやSNSでの「経済効率」を狙った悲惨なコンテンツが圧倒する状況であっても、テクノロジーが可能にする「分散化・自動化・アーカイブ化」はギョーカイに背を向ける者たちがつくる「本当の次の時代」の道をしっかり舗装し続けています。
所謂既存の商業映像作品の中心的なテーマが「明確なプロパガンダ」になる時代が近づいていますが、次に来るだろう決定的に悲惨な時代をより深刻にするのも、逆に今までの例と違うものにするのも、「映画」同様テクノロジーであり、「本当にタフな連中」なのだと思います。
先週の土曜日、MotoGPを観るのも関連情報を追うのもやめました。初めてWGPの存在を知ったのは、雑誌の裏表紙にRGγとウンチーニが映っていた広告ページ。ウン10年濃淡はあったもののファンであったスポーツに愛想をつかしたということです。
勿論決定打となったのはM.マルケスが予選中に行った走路妨害混じりの後追いです。非常に危険で明らかに異常な行動でしたが、予選はそのまま続けられ、なんとM.マルケスはそのまま予選上位になってしまいました。更に驚いたのは(いや、少しは予想していましたが)、ツイッターでマルケスを擁護・応援する日本語の声がそれなりにあったことです。MotoGPの興行は完全にタガが外れたものになり、日本のファンのコミュニティは最低限の善悪の区別もつかないバカの割合が閾値を超えたということです。(ツイッターだけで判断するなと言われそうですが、日本のレースファンやレース関係者なんてどの年代も結局この程度という事を僕は身に染みて知っています。)
念のために付け加えておくと、ホンダのバイクの出来不出来に関係なく、マルケスの異常行動は彼が王座についた初期の頃から始まっていました。コーナーリング中のペドロサに異常接近し、ペドロサ車のスイングアームについていたセンサーの配線を接触で切ってしまい転倒させています。チャンピオンの目がなくなった年では、ロッシに対し走行妨害を繰り返し、最後はロッシに蹴り倒された事件が有名です。
MotoGPにおける問題は具体的に挙げるときりがなく、既に今まで何度も指摘してきたので、気が滅入るだけなので止めますが、結局MotoGPの「タイムが速くて接戦でカネがかかっている様に見えれば観る人は増えて興行は儲かるだろうからそれでOK」路線は、倫理や常識どころか「レースというスポーツ」を「虚無」でガンガン膨らまし、破裂させるところまでいってしまいました。
もっとも、これはMotoGPに限った事ではなく、WSBKでは近年、併催の年少者向けレースで死者まで出していますし、そもそもMotoGPが手本にしているF1は最早「ただ金が動いている」の境地に達して久しい。直近では今年の全仏テニスでは運営側とプレイヤー側両方でモラルハザードと呼べる事件が起きています。男子プロゴルフツアーの新旧興行で「手打ち」が行われたとかいうニュースもありましたね。
世界のプロスポーツで最近色々馬鹿げた事が起きている主な原因は、加速し続ける金融経済の膨張とテクノロジーの進化に対し、昔ながらの「興行師」の考え方を根本からアップデートできない興行側とそれにくっついている既得権益集団が完全に…
いや、もう手遅れになっている「状態」について今更くどくど書くのは止めましょう。書いておかなければならないのは、こういう「吹き出物」の様に顕在化した事象の根源にあるもの、のはずです。
勿論決定打となったのはM.マルケスが予選中に行った走路妨害混じりの後追いです。非常に危険で明らかに異常な行動でしたが、予選はそのまま続けられ、なんとM.マルケスはそのまま予選上位になってしまいました。更に驚いたのは(いや、少しは予想していましたが)、ツイッターでマルケスを擁護・応援する日本語の声がそれなりにあったことです。MotoGPの興行は完全にタガが外れたものになり、日本のファンのコミュニティは最低限の善悪の区別もつかないバカの割合が閾値を超えたということです。(ツイッターだけで判断するなと言われそうですが、日本のレースファンやレース関係者なんてどの年代も結局この程度という事を僕は身に染みて知っています。)
念のために付け加えておくと、ホンダのバイクの出来不出来に関係なく、マルケスの異常行動は彼が王座についた初期の頃から始まっていました。コーナーリング中のペドロサに異常接近し、ペドロサ車のスイングアームについていたセンサーの配線を接触で切ってしまい転倒させています。チャンピオンの目がなくなった年では、ロッシに対し走行妨害を繰り返し、最後はロッシに蹴り倒された事件が有名です。
MotoGPにおける問題は具体的に挙げるときりがなく、既に今まで何度も指摘してきたので、気が滅入るだけなので止めますが、結局MotoGPの「タイムが速くて接戦でカネがかかっている様に見えれば観る人は増えて興行は儲かるだろうからそれでOK」路線は、倫理や常識どころか「レースというスポーツ」を「虚無」でガンガン膨らまし、破裂させるところまでいってしまいました。
もっとも、これはMotoGPに限った事ではなく、WSBKでは近年、併催の年少者向けレースで死者まで出していますし、そもそもMotoGPが手本にしているF1は最早「ただ金が動いている」の境地に達して久しい。直近では今年の全仏テニスでは運営側とプレイヤー側両方でモラルハザードと呼べる事件が起きています。男子プロゴルフツアーの新旧興行で「手打ち」が行われたとかいうニュースもありましたね。
世界のプロスポーツで最近色々馬鹿げた事が起きている主な原因は、加速し続ける金融経済の膨張とテクノロジーの進化に対し、昔ながらの「興行師」の考え方を根本からアップデートできない興行側とそれにくっついている既得権益集団が完全に…
いや、もう手遅れになっている「状態」について今更くどくど書くのは止めましょう。書いておかなければならないのは、こういう「吹き出物」の様に顕在化した事象の根源にあるもの、のはずです。