知的障がい者福祉施設「美谷の里」
今日もお天気がよいので、最近ネットで話題になり、テレビや新聞でも話題になっている「通称・モネの池」を見に行ってきました。
自宅から40キロ1時間ほどですが、3年ほど前ブログ取材した、「春日局の使った井戸」と、旧跡を案内していただいた老婦人から「また、菖蒲が咲いた頃見にお出で」と言われていたので立ち寄って見ました。菖蒲は咲いてはいましたが屋敷跡全面には咲いていなく、2か所ほどと少ない数でした。徳川3代将軍・家光の乳母になった「お福(春日局)」が住んだ屋敷跡です。
由緒はこの方のブログを参照してね。 お墓は改田家の墓です。
屋敷跡の近くで畑仕事をされていた男性に、春日局の夫の弟・後継・「現在の改田家はどの家か」お聞きしましたが「歴史に詳しくない、県道斜め向いで立ち話中のご婦人が詳しいので、聞いてくれ」と言われご婦人のところへ行き、指さして教えていただきました。春日局と改田家の関係はよくご存じでした。
そこを過ぎて、桜の名所「寺尾の千本桜」の峠を超え、頂上すぐの閉店してある茶店の駐車場で一休みしました。老夫妻の先客が居られた。私と同年輩と思しき夫人が、そばで折ったイタドリの皮を剥き食べておられたので「私も子供の頃よく食べたので味は知っています」と話しかけ、しばらくご夫婦と雑談しました。ご主人に85歳くらいでしょうかとお聞きすると、「ズバリです」と夫人が答えられ「あなたは80歳なら若く見えます」と世辞を言われました。
岐阜市から来たこと、御夫人が近くの集落の出であること、すぐ下がった地にある「児童養護施設・美谷学園」の創始者が父親で、戦後の貧しい混乱期に、岐阜駅などで物乞いしている戦争孤児を見るに忍びず、父が連れて来て育て、何人もの孤児たちと一緒に育ったと話されました。
その中には医者になった子もいたそうです。当時は国の福祉制度も未整備の中、まったくの慈善活動で「父は連れてくるだけ、母が随分苦労されたと思います」と話されました。
その後この施設は発展し、道路反対側に「知的障がい者福祉施設・美谷の里」を併設され歴史を重ねているそうです。この施設で私の在所の近所の障がい者の女性が人生の大半を過ごし、今は高山市の施設にいると聞いています、と話しました。今は亡き立派なご両親をお持ちだと言って別れました。
児童福祉施設・美谷学園校庭には今日は学校がある日なのに、小3くらいの男児が一人淋しそうに、ネットに向けボール蹴り遊びしていました。
歴史散歩 春日局ゆかりの地 - たそがれ時のつれづれに その2、その3