ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

死を悼む

2009-05-04 23:33:04 | Weblog
 身近な人の死に直面した。詳細は詳除くが、死の床に置かれてからも、ついに一度たりとも彼のもとを訪れることは叶わなかった。勿論、無茶をすれば、死の淵にいる彼の怒りをかいながらも、弱った体内から吐き出される憤怒の情なりとも受け止めるべきだったといまにして思う。いかに自分が無神論者であろうとも、自己の思想を安逸に死に逝く者に対して当てはめることの無意味性を、この度は思い知らされることになったわけである。尊敬する人物であった。市井の人でもあったが、教育者として立派な生を生き抜いた。妥協を知らぬ人だったから、おそらくは、見苦しい出世意識など微塵も持ち合わせることなく、しかし、それでも学校という社会で、校長という役職を挫折することなく勤めあげた。
 しかし、彼の個性では、校長職という役どころをこなしつつも、確実に彼の本質にある無意識なる反抗の論理と、常に妥協を迫られる仕事との狭間で、心的崩壊が進行していたのではなかろうか。そのことを証明するかのように、彼は酒の助けを借りずしては、あるいは、煙草をしこたま吸わずしては、またあるいは飽食に身を任せねば、内面の矛盾を超克する術を見出し得なかったのではないか。酒も煙草も飽食も絵に描いたように彼の肉体に復讐してきたのである。働き盛りの年齢の頃に糖尿病を患い、生涯その病に悩まされ、次いで胃ガンが彼の肉体を蝕み、胃の大半を摘出した。それでも74歳にして死するまで、彼が酒から解放されることなく、煙草からも切れることはなかった。舌をまくほどの読書家であったが、たぶん、彼が教育の道に足を踏み入れていなければ、モノを書いて食える人物になっていたと確信する。いつの間にか、彼は、自分では何も表現することのない、他者の創作者の読み手として、創造の世界に何とか踏みとどまった。それが、彼と文学との深い関係性の姿そのものであった、と思う。
 彼の文学への傾注は、普通の読書家にありがちな、お気に入りの作家に入れ込むような質ではなかった。常識から言えば、年齢的な要素、生活の環境、日常性の中における心配事などで、読書の幅は当然狭まってもくるのが普通の姿だろうと思う。しかし、彼は死する直前まで感性の瑞々しさを失うことがなかった。もっと正確に言うと、彼は感性の瑞々しさと同居していたという方が適切な、文学青年としての74年間を生き抜いてきたのではないかと思われる。入院のベッドへ担ぎ込まれる直前の彼の読書の対象は、三浦しおんの直木賞受賞作品であった。その印刷されたインクの匂いが濃密に漂う書物は、彼の書斎の机に、ほぼ半分ほどの分量を残したまま、静物画のように、それはあたかも彼の死そのもののイメージのごとくに、静謐さと同義語であるかのように、置かれたままである。
 僕の出来損ないの、文芸評論集を手放しで褒めてくださった。彼の本音はどうかはわからない。ただ、その書を彼に進呈するときに、自分は、野坂昭如の評論をモノにするつもりであることを漏らされた。これは本音だ、と思う。いまの野坂その人がどうなっているのか、皆目分からないが、彼の野坂への思い入れの強さは、野坂その人さえ忘れているかも知れない著作を一冊残らず集めていたことからも、彼の意気込みの強さが滲み出ていたのではなかろうか。いま、たぶん彼は自宅の和室で、明日の通夜を待ちながら、物言わぬ人となり、静かに横たわっていることだろう。そして、彼の膨大な蔵書の中でもひときわ目を引き付ける野坂の作品群も、書き手を失ったまま、喧騒に満ち溢れた野坂の粘着質な文体が、その本質とは正反対の、死という静謐さとともに彼の躯の傍に在るのであろう。
 心より冥福を祈る。無心論者の冥福などタカが知れてはいるが、それでも心より彼の死を悼む。今日の観想とする。

○推薦図書「あの日にドライブ」荻原 浩著。光文社文庫。今日のブログの主人公は死したが、この小説の主人公はまだ40代の、一流の都銀を上司の理不尽な怒りをかって、辞めた後にタクシードライバーとして、社会の異なる層から世界を眺め返しています。そして、自分の人生の取り返しのつかなさについて、嘆きますが、その時点から徐々に自己再生の道を発見していきます。お勧めの書です。どうぞ。

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