○深夜の饗宴
人が寝静まった頃、僕の心は宇宙と同じ規模の拡がりを見せ始める。宇宙はすべてを受け入れる開かれた存在である。地球上のすべての生命体も非生命体もすべからく、夜空に明滅する遥か何億・何十億光年の先に存在するであろう、僕たちが決して肉眼で目にすることのない惑星をも含み込む、全方向に開かれた想像の枠外に在る巨大な器としての宇宙。あらゆる存在物を受容し得る限りない力を秘めたもの。ある人々はそれを神と呼び慣わし、微細なる人間を救済する存在として認識される、この巨大な宇宙。このような神にも見なされ得る宇宙に棲みながら、人の日常の営みの何たる卑小、そして猥雑さであることか。
深夜の暗黒の中においては、かえって身近なものが見えないという逆説が、巨大な宇宙という概念を据え直すことによって、擬似的な宇宙を浮遊しているがごとき錯誤に僕たちは容易に陥る。それが錯誤であることが諒解されているにも関わらず、むしろ浮遊感をすら楽しむ心性。もし、現代に創造性というべきものが存続しているとするなら、それは深夜におけるふつつかだが、未来を自己の裡に内包し得る可能性を想起して、思わず口もとからもれ出るごとき微細な笑みの名残り。人間が生き生きとこの世界の中を探訪し、現代というラビリンスの中を鷹揚な気分で闊歩する勇気と覚悟が、それほどの衒いもなく体内を駆け巡る可能性に満ち溢れた深夜の思考の構築の場を、饗宴と称することには、どのような意味においても矛盾はないであろう。現代においては、思想は深夜にこそ醸成されるのである。さて、新たな思想の饗宴が今夜も確実に起こることから目を背けないこと。これが現代における知的な創造物を創り出すための作法なのだ。
現代が生き難いのは、政治や経済の貧困が本当の原因ではない。それは謂わば思想の貧困が創り出した不幸のかたちと捉えればよい。現代社会の構造的不況の現象的で短絡的な分析のすべては間違っている。巨大証券会社の倒産も、20世紀を支えてきた自動車産業ををはじめとする大型の製造業の挫折も、それに伴う血も涙もない労働者の首切りの嵐も、人間が起こした失策の蓄積を、無思想なままに立ち塞がる障壁を壊すだけの施策しかとってこなかったから起こった現象なのである。そこには責任回避という子どもっぽい逃避の連鎖が起こっているだけのことであり、その内実は端的に言えば、思想の欠落そのものである。いまや、責任ある人々が無思想なだけの生き残りに汲々としているだけの時代になった。指導者と呼ぶに値する人間の数が圧倒的に少数派であり、長い暗闇から光が見えてこないのは、たとえ賢明なる思想が構築されたとしても、それらが全て単発的な存在であり、相互に連関していない証左である。現代の不幸とは、繰り返すが、このような思想の欠如が招いた人間の不幸と言い換えても差し支えないものである。
敢えて、いまこそ凡庸であっても被権力者たちの連帯の必要性を提唱しておきたい。もう巨大産業や巨大資本が我々の生活を救ってはくれないのである。市民運動さえ思想なき愚衆の集まりでは、市民運動そのものが権力体制の中に組み込まれてしまう。かつて市民運動に小田実がいたように、市民運動が組織されることはない。だからこそ、凡俗でもよい、一個の人間が深夜の闇に潜むように着々と自己の思想を構築すべきときなのである。いま、深夜の饗宴をなそうではないか。
○推薦図書「日本の難点」宮台真司著。幻冬舎新書。宮台は小生意気な秀才学者です。鼻につきます。しかし、この書は現代の諸相を独特の角度から見直すためのテキストとしてはなかなか読みごたえがあります。「終わりなき日常を生きろ」と宮台がかつて言い放ったのは、たぶんこのタームも彼が深夜の闇の中の思想の饗宴として紡ぎ出した言葉なのかも知れないと、いまは感じます。興味のある方はどうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃
人が寝静まった頃、僕の心は宇宙と同じ規模の拡がりを見せ始める。宇宙はすべてを受け入れる開かれた存在である。地球上のすべての生命体も非生命体もすべからく、夜空に明滅する遥か何億・何十億光年の先に存在するであろう、僕たちが決して肉眼で目にすることのない惑星をも含み込む、全方向に開かれた想像の枠外に在る巨大な器としての宇宙。あらゆる存在物を受容し得る限りない力を秘めたもの。ある人々はそれを神と呼び慣わし、微細なる人間を救済する存在として認識される、この巨大な宇宙。このような神にも見なされ得る宇宙に棲みながら、人の日常の営みの何たる卑小、そして猥雑さであることか。
深夜の暗黒の中においては、かえって身近なものが見えないという逆説が、巨大な宇宙という概念を据え直すことによって、擬似的な宇宙を浮遊しているがごとき錯誤に僕たちは容易に陥る。それが錯誤であることが諒解されているにも関わらず、むしろ浮遊感をすら楽しむ心性。もし、現代に創造性というべきものが存続しているとするなら、それは深夜におけるふつつかだが、未来を自己の裡に内包し得る可能性を想起して、思わず口もとからもれ出るごとき微細な笑みの名残り。人間が生き生きとこの世界の中を探訪し、現代というラビリンスの中を鷹揚な気分で闊歩する勇気と覚悟が、それほどの衒いもなく体内を駆け巡る可能性に満ち溢れた深夜の思考の構築の場を、饗宴と称することには、どのような意味においても矛盾はないであろう。現代においては、思想は深夜にこそ醸成されるのである。さて、新たな思想の饗宴が今夜も確実に起こることから目を背けないこと。これが現代における知的な創造物を創り出すための作法なのだ。
現代が生き難いのは、政治や経済の貧困が本当の原因ではない。それは謂わば思想の貧困が創り出した不幸のかたちと捉えればよい。現代社会の構造的不況の現象的で短絡的な分析のすべては間違っている。巨大証券会社の倒産も、20世紀を支えてきた自動車産業ををはじめとする大型の製造業の挫折も、それに伴う血も涙もない労働者の首切りの嵐も、人間が起こした失策の蓄積を、無思想なままに立ち塞がる障壁を壊すだけの施策しかとってこなかったから起こった現象なのである。そこには責任回避という子どもっぽい逃避の連鎖が起こっているだけのことであり、その内実は端的に言えば、思想の欠落そのものである。いまや、責任ある人々が無思想なだけの生き残りに汲々としているだけの時代になった。指導者と呼ぶに値する人間の数が圧倒的に少数派であり、長い暗闇から光が見えてこないのは、たとえ賢明なる思想が構築されたとしても、それらが全て単発的な存在であり、相互に連関していない証左である。現代の不幸とは、繰り返すが、このような思想の欠如が招いた人間の不幸と言い換えても差し支えないものである。
敢えて、いまこそ凡庸であっても被権力者たちの連帯の必要性を提唱しておきたい。もう巨大産業や巨大資本が我々の生活を救ってはくれないのである。市民運動さえ思想なき愚衆の集まりでは、市民運動そのものが権力体制の中に組み込まれてしまう。かつて市民運動に小田実がいたように、市民運動が組織されることはない。だからこそ、凡俗でもよい、一個の人間が深夜の闇に潜むように着々と自己の思想を構築すべきときなのである。いま、深夜の饗宴をなそうではないか。
○推薦図書「日本の難点」宮台真司著。幻冬舎新書。宮台は小生意気な秀才学者です。鼻につきます。しかし、この書は現代の諸相を独特の角度から見直すためのテキストとしてはなかなか読みごたえがあります。「終わりなき日常を生きろ」と宮台がかつて言い放ったのは、たぶんこのタームも彼が深夜の闇の中の思想の饗宴として紡ぎ出した言葉なのかも知れないと、いまは感じます。興味のある方はどうぞ。
文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃