ヤスの雑草日記(ヤスの創る癒しの場)

私の人生の総括集です。みなさんと共有出来ることがあれば幸いです。

人間にとって、死は敗北か? ―断然ノーである

2009-05-17 00:39:52 | 観想
○人間にとって、死は敗北か? ―断然ノーである

とかく人は生きるということに価値を置き過ぎる。特に近・現代における、戦時における武士道に近い精神の復活によって、いっときは死に対する洞察は深くなった感もないとは言わない。しかし、僕に言わせると、武士道にまつわる、たとえば「葉隠れ」の中に見受けられるごとき死への覚悟などは、いかにも死という現象を美化しているように思われてならない。死とは単なる現象なのであって、そこに美的な要素などはない。その意味において、生も死と真逆の現象なのであって、現代は生きていることにあまりに執着し過ぎる傾向もなきにしもあらず、である。控えめに言うが、人は生きている意思が挫けない限り、自己の生に対してあまりごたいそうな意味をくっつけずに、生きている間に自分に出来ることは、自己の能力に応じてなるだけやっておく方がよいのではないかとは思う。そしてもしも自然死(病気も含めて)を待ちながら老化しつつ生き永らえる気持ちがあるなら、そのような生を選びとればよいだけのことである。すばらしき能力に恵まれた人は、何らかの他者に対する功績を残せるはずだから、こういう人々は出来るだけ長く生き永らえればよい、と思う。だからと言って、何の役にも立てずにいる大半の人々に対して、生きる価値がないなどと言うつもりは決してない。生きたいのであれば、そういう選択肢を選ぶ。それでいいではないか。とりあえずは、自分が死ねないのは、誰それのために生きていなければならないのだ、というような取り繕った偽善的なポーズだけは避けてもらいたい。そういう言葉を聞くと、残念ながら、いまの僕は反吐が出る。

何度か死線を彷徨うような生きかたをしてきて、生きることの意味を急速に喪失して、自死を決行し失敗を数回繰り返した。勿論、うつ病などではない。まったく健全なる精神のままに、生よりは死の方に傾斜しただけである。死があくまで現象に過ぎないという思想にまで行き着いたのは、かつての死への傾斜がもたらした新たな心境である。残念ながら物がよろしくなく、手首をざっくりと動脈まで断ち切るはずだったのに、動脈は掠ったに過ぎなかった。ドジな人間はどこまでもドジであるらしい。ドジついでに書いておくと、グット・バイ、という携帯メールに家人が何かを察したようで、大量の睡眠薬、そう100錠はくだらなかったか、それを嚥下していて、意識がはっきりとしているうちに、自分としては完璧なほどに動脈を切りとったつもりであったし、もしも動脈を外しても失血死するようにバスタブにはたっぷりとぬる目の湯をはっての決行だったのに、いまこうしてブログを書いているのは何が起こったのかは推して知るべし、だろう。

さて、死は現象である。それ以外の意味を持たない。これが僕の行き着いた思想の一端である。少しだけ、毒を吐かせてもらえるなら、それはやはり三島由紀夫の「楯の会」と、三島自身の異常なまでの肉体的改造のプロセス、三島の文学作品の美学と一般には言われている内実、当時の市ヶ谷駐屯所に楯の会のメンバーと伴におしいって、予定調和的に本物の自衛隊員には決して通じるはずのない激文の空回りと、その後の三島の古式にのっとった切腹と介錯。床に転がっている三島の首。いまにして思えば、僕には噴飯ものである。何もかもが、うざったい。死を、文学を美化する甘えた性根の三島などに、もう興味すらない。本棚に並んでいる三島の作品の全てを、破棄するのではなく、何百円か、何十円かで、古本の買い取り業者に売り飛ばしてしまった。それが僕の三島に対する何十年ぶりかの評価である。三島程度の死に方は、確信をもって、僕にも出来る。むしろあのような大袈裟な死の準備こそが、死の舞台装置であるようで、アホらしいことこの上ないのである。金にあかしてごたいそうな日本刀などで腹切りなどしなくても、昨日料理した包丁でも十分にその役割は果たせるのである。むしろ三島などは生を断ち切るのがたいへんだったのではなかろうか。ご苦労さん、と言いたい。

僕が行き着いた死生観とは、生と死の間に何らの障壁もないということであった。生から死への移行など容易いものなのである。そこに三島のような刃先をもつ道具で生の息の根を止める選択をするとしても、それくらいの痛みは、生への執着を棄て去った時点から何ということもないものになっている。むしろ、ビルのてっぺんから飛び降りて即死を狙うよりは、痛みを経過して、痛みの過程で自覚的な死を選びたい、と僕などは思う。そこに右翼的な思想は勿論ないし、美的なものを持ち込む気分など決してない。死は文字通り死でしかない。そういう現象でしかないのである。死に痛みを感じたいというのは単なる好みの問題だ。

話が逸れるが、敢えて書き置きたい。生きる希望を失くしたとやらで、他者を殺害して死刑になりたいとか、人を殺害して、死体遺棄に走る殺人者が、昨今は心身耗弱などという理屈で死刑を免れる例もあるが、他者を巻き沿えにするような死刑志願者などに心身耗弱などという精神分析は不毛である。お望み通り死刑にしてやればよい、と思う。世の中、生き難くなったが、別の角度から見ると実に甘くもなったのではないか。もう一つ。近頃とみに増えているのが、自傷行為という、軽く自分の手や足を切って、流れ落ちる血を見て生きている実感を確かめる人々が増えているが、僕は自傷行為を繰り返して、ちっぽけな傷口を縫合するために、多忙な救急隊員をこき使うくらいなら、一度、うっすらと切るのではなくて、もっとざっくりと切ってごらん、と言うことにしている。ざっくりと切って、自分の骨まで見えたところで、どっと血が吹き出てくるのを体験したら、大抵の自傷行為を繰り返している人は、怖くて二度とやれないと思う。だって、自傷などというのは、生きたいからやる行為だからである。生きる道筋が見当たらないからやっているに過ぎないのだから、まずはちょっと血を流して自分を慰めているような情けない心境から引き上げること。これが正直な感想だ。さて、最後に死は敗北などではない、と締めくくって、今日の観想としたい。

○推薦図書「症例A」多島斗志之著。角川文庫。精神科医の主人公と17歳の少女のいきづまるような心的風景だけで書かれた物語です。物語としても興味深いでしょうし、素材も今日的で、多島はその素材を十分に生かしてすばらしい小説に仕上げていると思います。ぜひ、どうぞ。

文学ノートぼくはかつてここにいた
長野安晃